8「死にたいばかりの日々の末」
中学生になったばかりの頃、お父さんが大好きだった。
病気のせいで本当は苦しいはずなのに、私を心配させまいと微笑みながら頭を撫でてくれるお父さんが大好きで、だけど同時にどうしようもなく胸が苦しくなった。
異様に痩せこけた頬、落ちくぼんで影が差した面差し、薬の副作用のせいで抜け落ちた髪の毛。痛々しいくらいに薄く骨ばった身体。
死体みたいに青白くなった掌は、それでも暖かった。
だからだろう。あのとき私は、生まれて初めて死にたくなった。
お父さんが生きてくれるのならば、私は代わりに死んだって良かった。
病に倒れて死を待つだけとなったお父さんを前にして悟ったこと。
大抵の場合無力な人間は奇蹟や神秘に縋るものだということ。
お母さんはありとあらゆる方法でお父さんを救おうとした。
自称霊能力者を病室に呼んで、わけのわからない祈祷を捧げさせた。
よくわからない金属棒を大枚叩いて買い込んで身体に擦り付けた。
聞いたこともない物質の溶けた水を買ってたくさん飲ませた。
お父さんはなにも言わなかった。ただ、寂しそうに笑うだけ。
そんなことをずっと繰り返していたので、お医者さんに怒られたりした。看護師さんにも迷惑そうな、それでいて憐れなものを見るような顔をされたりもした。
でもお母さんは気にしていなかった。
だれになんと言われようとも、なにをしようともお父さんを守る。
それだけが、彼女を支えるすべてだった。
本当のところ、私たちは共に泣くべきだったんだと思う。
どうにもならない現実に打ちひしがれるまま、悔しさや悲しさ、それと憤りをすべて吐き出して、小さな身体を寄せ合って、共に泣くべきだったんだと思う。
なにをしたってお父さんは治せない。
そんな事実を、ちゃんと受け入れるべきだったんだと思う。
それができなかったから、二度目の死にたいを経験することになった。
『〈憑落〉に入って霊薬擬きを貰おう』
その頃、お父さんの入院していた大学病院には〈月堕〉の人間が薬を卸しに来ていた。その人から、霊薬擬きという名の神秘について聞かされたらしい。
あらゆる傷も病も、すべてをたちどころに治してくれる神の薬。
そんなものに、お母さんは縋り付いてしまった。
そして私もまた、奇蹟を信じてみたくなってしまった。
〈月堕〉への入信は、毎月発行されている機関新聞を三か月以上購読すること、半年以上の関連企業への勤務、そして現信者との面談を行うこと、この三つの条件を満たしたうえで、誓約書を書かなければならなかった。
これらはつまるところ、本気で「憑き物を落として幸せになりたい」と願っていることを示すための通過儀礼だった。でも、私たちには時間が無かった。
だから、人を惑わせ不幸にする原因の一つ──お金への執着を捨てる覚悟を示すことにした。要は、一人につき百万円近いお金を〈月堕〉に寄付したんだ。
お父さんの治療費と、よくわからない似非科学に執心して散財していたお母さんが、どこからそのお金を捻出したのかは結局最後まで教えてくれなかった。
そうして私たちは、〈月堕〉の幹部──白衣を着た痩せぎすの男と出会った。
彼との面談の中で、私たちは〈月堕〉への入信を決めた経緯をすべて話した。
すると、コーヒーとたばこの匂いを漂わせる男は無表情のまま言った。
霊薬擬きは大量生産には向かないために、数百人が購入の順番を待っている状況にあるらしい。その順番を無視するには、子供がふざけて挙げるような桁数のお金を積むか、幹部になるかの二択だけ。
お金なんてもうなかったし、幹部になるまでにどれくらいの時間がかかるのかなんてこともわからなかったから、私たちは途方に暮れた。でも、彼は言った。
『生きる権利っつぅのは、この国では必ず守られるべきモンだ。んでも、病気やらで生きる権利を失いかけた連中が、その権利を取り戻すためにゃ金が要るんだなァ。おかしくね? って思うわけ。だれにでも生きる権利があンじゃねぇのか? ってな』
白衣の男は昆虫みたいに感情のない目をしていたし、その口調も荒っぽい割には抑揚が無かった。だから、彼がなにを考えているのかはさっぱりだった。
でも、続く言葉は中学一年生の、子供の私でも理解できた。
『俺ァ、霊薬擬きを創った張本人だ。だから研究用に残してるぶんがいくらかあるわけだが、それをお前さん方に譲っても良いと思ってる。……俺ァ金が欲しくて霊薬擬きを創ったわけじゃァねェからな。ただ、それには一つ条件があンだ』
途端、私には彼が神様のように見えた。
霊薬擬きをくれるなら、お父さんを助けられるのならなんだってする。そんな覚悟だった。土下座だってするし、靴だって舐める。お金はすぐには払えないけれど、一生かかってもどうにかしようと思ってた。
のに──これはさすがに予想外だった。
『──瓜丈高ってガキを、攫ってこい』
どうやら、霊薬擬きの研究には瓜丈高の存在が必要らしい。でも、彼の協力を得ようにも、ボロボロのコートを着た男がずっと邪魔をしてくるらしい。そのイワカサとかいう男の人は他所の製薬会社の男で、霊薬擬きが普及すれば自分たちが職を追われることになるから邪魔をしているそうだ。
イワカサは凶悪な男で、瓜丈高の元に向かった〈月堕〉の人間を殺したりしているらしいから、念のために戦えるようにしておく必要があると聞いた。
お父さんの余命は残り少なくて、だから私たちはそんな危険で怪しい条件を受け入れるしかなかった。本来ならば一年かけて行われる訓練プログラムを短縮して、たった一か月で瓜丈高の元に向かった。
そして、忘れられない夜に至る。
対峙したイワカサはなぜか私たちのことを知っていて、戦うよりも先に話をしようと言ってきた。彼が語ったのは、あの白衣の研究者が吐いた嘘。
『御前たちはあの男……玉枝の言葉を信じているようだが、それは誤りだ。〈月堕〉に瓜丈高……もとい鳴海高を差し出すことは、すなわち彼の死を意味している』
なにを言っているのかさっぱりわからなかった。
瓜丈って子は死ぬ。悪いのは〈月堕〉で、正しいのはイワカサ。
だれが本当のことを言っていて、だれが嘘を吐いているのか。
お母さんが漏らした言葉を聞いて、もっとわけがわからなくなった。
『……そんなの、全部知ってたわよ』
お母さんは、よく笹貫家とかぐや姫の話を私にしてくれていた。でも〈月堕〉との因縁については、ただのひと言も語ったことが無かった。
彼女は、すべてを知っていて、私に隠していたんだ。
お父さんを助ければ瓜丈高は死ぬ。でも瓜丈高を殺さなければお父さんが死ぬ。
どちらが正しいことなのかは、やっぱりバカな私にはわからなかった。
だから、考える時間が欲しかった。
のに──。
『ずっと、話さなきゃって思ってたのよ。……ごめんね。でもお母さんもう無理なの。お父さんずっと辛そうで、少しでも早く助けてあげたいの。あの人のためなら、お母さん人殺しになってもいいわ』
『なにを……言ってるの?』
『ごめんね、都子。お母さんが瓜丈君殺すから、都子はお母さんたちのこと忘れてどこかで幸せになりなさい。笹貫家とか〈憑落〉とか、全部忘れて生きなさい。人殺しの子供だってことは、隠してね』
それだけ言って、立ちふさがるイワカサに襲い掛かった。でも、彼は一度も反撃しなかった。お母さんと戦いながら、お母さんを守ろうとしてくれた。
お母さんが人殺しになるなんて信じられなかったし、そんな瞬間を見たくなかった。それに、無関係なだれかを傷つける道を選びたくなかった。
だから、止めようとしたんだ。必死になって、殴ってでも止めようとしたんだ。
そうして戦況は一転。
私とイワカサ。それと、お母さん。
長く続いた戦いは終わり、お父さんを救えないと確信したお母さんは泣いた。
子供みたいに手足を振り回して、大声で泣いた。
泣いて泣いて泣いて。それで泣き止むこともしないまま、言った。
『私、独りぼっちになっちゃうんだよ。宗助と結婚するためにお父さんとは縁切っちゃったし、お母さんは何年も前に亡くなってるし、だから、宗助もいなくなったら、私……どうやって生きてけばいいかわかんなくなっちゃうよ』
ちがうよ。私がいるよ。
そう言いたかったんだ。
泣きじゃくるお母さんを抱きしめて、一緒に泣いてあげたかったんだ。
でも、お母さん強くって、私傷だらけになっちゃったから動けなくて。
だから、目の前で見ることになったんだ。
『……もういい。ずっと前に、決めてたよ。私、宗助の死に顔見るくらいなら、先に死んでやるんだ。私が先に死ぬんだ』
ぶつぶつ言った彼女は、その手に持っていたナイフで首を切った。
結局私は、私自身の選択によって、その無力さによって大事な人たちをすべて喪った。私が孤独を埋められずにお母さんが死んだ。私が霊薬擬きを手に入れられなかったからお父さんが死んだ。
そして、今──。
●●●
「ごめんっ、ごめんなさいっ……」
三度目の「死にたい」で頭を埋め尽くされていた。
鳴海君と家族の話を聞いたとき、やっと彼のことが少しわかったんだ。
彼の生きる世界には、鳴海高しかいない。
だから、だれかに頼ることも、苦難を分け合うこともできない。
迫りくる無理難題に対して、たった一人で立ち向かうことしかできない。
そうやって責任を独りで背負う生き方は、きっと辛いに決まってるんだ。
だからだれかが彼の傍で、彼を支えてあげなきゃいけない。
そう思ったばっかりだったのに、私は鳴海君を置き去りにした。
「最低だ」
なんて言葉が漏れたとき、背中におぶっていた彼女が言った。
「……後悔、してるのかしら」
「へ……?」
気を失っていたはずの祥子さんの、やけにはっきりとした声に疑問符が浮かぶ。その言葉は短かった。けれども、あらゆる意味を含んでいるように感じる。
鳴海君を見捨ててしまったことも、お母さんを殺したことも、お父さんを見殺しにしたことも。すべてを、後悔しているのかと問いかけられているような気がした。
けれども実際、その直感は正しかった。
「これまでに積み重ねてきたあんたの選択、そのすべてを、後悔してるんでしょ?」
「あ、え、なにを──」
「そうよね。そうに決まってるわ。母親を死に追いやり、父親を見捨てた。その罪悪感から逃げるために、あるいはそんな自分の選択を正当化するために、あんたはあのあとイワカサの手伝いを──鳴海少年のためのスパイを始めたんだから」
「なんで、それを」
その通りだ。私はお母さんを殺して、お父さんをも見殺しにした。だから、そこまでするだけの価値が鳴海君にはあるのだと、そう思いたかったんだ。彼が生き続けることになにかの意味を見出して、私自身を正当化したかったんだ。
でも。
「皮肉な話よね。だれよりも霊薬擬きを欲していたあんたは、母親が死んですぐに、なんの成果も出していないのに御鉢の名を冠し、霊薬擬きを支給される立場に至った。……おかしいとは思わなかった?」
「それは……」
「全部、珂瑠にはバレてたのよ。それで、見世物にされてたのよ。なにもかも手遅れなのに霊薬擬きを与えられたあんたが、どうやって生きていくのか」
「……祥子、さんは……あなたは……なにを知ってるんですか」
どうしてそのことを知っているのだろうか。
問いかけた途端、背中に感じる重みが消失する。それは手品か瞬間移動か。きっと、そのどれでもない。羽のように軽い身体は鮮やかに舞い、目の前に降り立った。
縦にヒビ割れた瞳孔がじっと私を射竦めて、文字通り蛇に睨まれた蛙のように立ち尽くす。その眼が発する引力は、瞬きすら忘れさせた。
「なんにも知らないわ。ただ、あたしはあたしの夢を叶える方法だけを知ってる」
「……どういうことですか」
「そのままの意味よ。あんたが珂瑠のおもちゃになっていたことも、鳴海少年がくだらない思春期の懊悩に苦しんできたことも、それらすべてを見てきたのは、あくまでもあたし自身の夢を叶えるため。それ以上でもそれ以下でもない」
すべてを、見てきた。意味がわからない。
一番理解できないのは、どうしてそれを今になって話したのかということ。
鳴海君は燕貝と一人で戦っているんだ。祥子さんと私を守るために、たった独りで命をかけてくれているんだ。だから、どうにかして燕貝を撃退する作戦を考えて、それを実行するために戻らなきゃいけないんだ。
こんなところで話をしている暇なんて、ないのに──。
「あたしは、あたしの夢を叶えるためだけに、確固たる意志を持ってここにいる」
そう語る蛇の眼に、私はいつかの母の眼差しを重ね合わせていた。
爛々とした輝きは、どうしようもなく利己的で欲深い人間のそれだった。
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