順行再生法
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デジャヴ
掃き出し窓からレースのカーテン越しに柔らかい陽の光が差し込み、クク材らしいフローリングを黒っぽく光らせている。肩越しに振り向けば、視界の片隅に無垢材の壁と垂直に伸びる梯子があり、その先は天井こそ低いがそれなりの広さのロフトになっている。ロフト付き八畳間としてはありふれた、一般的な、見慣れた風景――
「――ゃくさま?」
どこかから声が聞こえる。若い男の声だ。
「お客様?
「――うわぁ!」
と、僕は思わず悲鳴をあげた。家具のない部屋では声がよく響く。それほど大きい声ではなかったのかもしれないが、まるで頬を打たれたような気分だった。
「――ど、どうされました……?」
背後から聞こえてきた怯えるような声に、僕のほうも怯えたように首をすぼめたまま振り向いた。
チャコールグレーのスーツに水色のネクタイを締めた、二十代後半くらいの男が訝しげに眉を寄せていた。
「え……っと……」
僕は言葉に詰まった。男が誰だか分からなかった――いや、それどころか、僕はなぜこの家具一つない部屋にいるのかも、自分の名前すらも思い出せない。口の中に粘っこい唾が溜まっていくような気がして、僕は思わず喉を鳴らした。
「高橋……さま? ええと、なにか、この部屋で気になることでも……?」
男は両手を揉みながら、上目がちに尋ねてきた。
高橋――というのが僕の名前なのだろうか。そのような気もするし、そうでないような気もする。
「部屋で、気になること……?」
「はい。こちら、駅からは少し遠くなりますが築二年で――」
男のすらすらと続く売り文句に、僕は思い出した。これは、内見だ。僕は内見に来ていたらしい。そう気づくと、僕は自分が手に何かを持っているのに気づいた。一枚の紙――名刺だ。
『MIRAI不動産
僕は名刺と男を見比べて、いった。
「奏汰……さん」
「――えっ?」
男は明らかに動揺したようだった。瞬間、僕はまた思い出す。
「――あ、す、すいません! 急に下の名前とか変ですよね!」
「ああ、いえいえいえいえいえ!」
男は黒革のファイルを脇に挟んで大慌てで両手を振った。
「全然、まったく、かまいませんよ! 私ほら、田中なんて名前でしょう? なのに下は奏汰なんて、ちょっと大仰な名前ですからね。カナタで覚えていただくことも多いんですよ。ですから、はい、カナタで、全然。全っ然――!」
そう捲し立て、奏汰さんは柔和な笑みを浮かべた。
僕は内心でホッと息をついた。内見に来ていたことすら忘れていたなんて、ましてや名前も忘れていたなんて、言えるはずがなかった。
「あのう、それで……お部屋、どうです?」
またお伺いを立てられて、僕は唸った。
「うー……ん、と……なんか、ありふれてるな、というか」
何を言っているんだろう、僕は。頭ではおかしいと気づいているのに、意志に反して舌は滑らかに回った。
「僕、実はよく引っ越しするんですよ。だからこう、荷物もそんなにないし、あんまり見慣れない部屋がいいんですよね、できれば」
そうなのか。僕はよく引っ越しをするのか、と一人納得していると、奏汰さんは脇に挟んだファイルを開いてボールペンをノックした。
「ええ、はい、なるほど。伺っております。では――どうしましょう。もう一つ、近くに変わった部屋がございますので、そちらもご覧になってみますか?」
「あ、いいんですか? じゃあお願いします」
僕が二つ返事で答えると、奏汰さんはもちろんですよと笑って、広げた掌を廊下のほうへと差し伸べた。僕は頷き、部屋を出た。
春の訪れを知らせるような、柔らかな光とまだ冷たい風。あたりはある種、典型的な住宅街で、ベランダや窓際に下がる洗濯物から若い人が多いのだろうとすぐに検討がついた。
「だいたい、十分くらいですかね?」
ガチン、と背後で鍵の閉まる音がした。奏汰さんは僕を前へ前へと促して、アパートの前の道へと連れ出す。淡いシルバーの営業車が止まっていた。僕が助手席のドアに手を伸ばすと、
「ああ、待って! 待ってください!」
と奏汰さんは慌てて後ろのドアを開いた。
「高橋様に万が一があってはいけませんからね」
そういって笑っていたが、その笑顔はどこかぎこちなかった。
車が静かに滑り出し、僕はずっと名刺を手にしていたのに気づいて、ポケットに押し込んだ。移動の間に僕は僕が何物なのか調べようと服のポケットを弄った。あったのは財布が一つだけだった。
ふと視線を感じて顔をあげると、バックミラー越しに奏汰さんと目がすれ違った。
「えっと……」
「あ、はいはい! なんでしょうか!?」
声をかけると、やけにハキハキと返ってきた。僕は下唇に湿りをくれて、いった。
「あの、僕……スマホ、どうしましたっけ?」
「スマホ……? スマートフォンですか?」
他に何があるというのだろう。僕は思わず吹き出すように鼻を鳴らした。
「いえ、なんか、持ってなくって」
「……ウチにいらしたときから、お持ちになられていませんでしたが……?」
「え? そんなことあります?」
「はい。お話されているときに、ご自宅にお忘れになったかも、と――」
「……ああ、なるほど」
なるほど? そんなことあるのだろうか。よしんば忘れてきたとして、そんな奴が内見を頼んだところで応じてくれるものだろうか。
「……どうかされました?」
奏汰さんの声に、僕はハッと顔をあげた。
「ああ、いえ。……奏汰さん、お人好しだなって」
「はい?」
「いやだって、これ、冷やかしかもしれないわけでしょ?」
「冷やかしなんですか?」
そう鏡越しに尋ねてくる奏汰さんの目はおどけるように細められていて、僕もつられて吹いてしまった。
「さぁ、どうでしょう?」
「冷やかしにならないことを祈るばかりです――と、つきました。こちらの……左のアパートですね」
いわれて窓の外に目をやると、これまた見覚えのある二階建てのアパートがあった。先の物件のすぐ近くなのだから当たり前だが、周りの風景も、ぽつぽつと行き交う男女の姿格好も似たようなものだ。
部屋はこれまた1Kの典型――というか、1Kにそうそうバリエーションなどあるわけがない。せいぜいキッチンと水回りが廊下の右手側にあるのか、左手側にあるのかくらいしか違いがない――はずなのだが。
「どうされました?」
奏汰さんに尋ねられ、僕は顎を撫でざるをえなかった。
「いえ、なんか、また……見覚えと言うか……」
「デジャヴ?」
「え?」
聞き慣れない言葉に振り向くと、奏汰さんは驚いたように瞬いた。
「デジャヴです。フランス語で、なんでしょう、既視感というんですかね? 見たことないはずの光景なのに、なぜか見た覚えがある、みたいな感じです」
「ああ、なるほど……」
「こちらの部屋にも見覚えがございますか?」
「ええ、はい。そうみたいで……まあ1Kなんてどこも変わらない……あ、まって」
喋るうちに、僕は一つ、気づいたことがあった。奏汰さんの足の下、キッチンの床によく見ると切れ目があった。
「そこ、床下収納ですか?」
「おお! さすがですね! 仰るとおりです。お気づきになられたのは高橋様が初めてですよ!」
嬉しそうにいい、奏汰さんはよいしょと年寄り臭く腰を下ろして、床の切れ目の端を押した。スコンと小気味のいい音を立てて細い板切れが持ち上がった。
「これはちょっと珍しいですよね」
僕は床下収納スペースを覗き込んでいった。間口こそ狭いものの、中は躰を半分に折れば人が一人はいれそうな広さがあった。
「でも、お気づきになられた」
奏汰さんはいった。
「……ですね。なんででしょう?」
「お聞きになりたいですか?」
少し、声が冷えた気がして、僕は幽かに背筋を伸ばした。
「なにか理由があるんですか」
「ええ。実は」
「……ありふれてるからとか?」
「違います」
コクン、と僕は僕の喉が鳴るのを聞いた。
奏汰さんは僕の目を覗き込むようにして、いった。
「こちらの部屋、事故物件と同じ間取りなんですよ……」
「……は?」
僕は思わず間抜けな声で返していた。
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