六章 生まれる朝

 くらやみに、しとしと冷たい雨が降る。

 宿しゆくさいめつくしていた狼の死体は、シャルが外へ運び出した。

 しかし湿しめった雨と血のにおいは立ちこめていた。

 精製ちゆうの銀砂糖は狼にらされ、狼の血でよごれ、雨水と混じっている。ぽつぽつと雨を受け、もんを広げる。

 残されたジョナスの箱形馬車の中に、アンはいた。

 荷台の中は、アンの箱形馬車とそっくりにつくられていた。砂糖菓子を作るための作業場だ。

 作りかけの砂糖菓子のざんがいが、いくつか転がっている。

 作業台の上には、砂糖菓子のデザインをえがいた紙が散らばっていた。すべて、エマがき残した砂糖菓子のデザインを写したと思われるものだ。

 荷台の中には五つもたるがあったが、その五つの樽全部に、銀砂糖がまっている。

 ──最初から全部、計算ずく。全部うそだった……。

 ジョナスは、ラドクリフこうぼう派のおさになれるかもしれない立場にいる。しかしそれには、銀砂糖師になることがひつ条件だ。

 ジョナスは過去二回、砂糖品評会に参加して、いまだに銀砂糖師になっていないと言っていた。なのに今年、積極的に砂糖菓子品評会に参加しようとしていなかった。

 それを、疑問に思うべきだった。

 ジョナスは過去二回の失敗で、自信そうしつしたのだろう。

 けれど彼は、が非でも銀砂糖師になりたかったのだ。そうすれば、ラドクリフ工房派の長となれるかもしれない。そして彼の望む、銀砂糖しやくになれるかもしれない。

 王家くんしようさずかり銀砂糖師となれる人々は、砂糖菓子に対してしんな人々だ。利益は、二の次。そうでなければ、らしい砂糖菓子は作れない。

 ジョナスは、栄光にだけしつしているのだろう。

 だから、真摯さが足りなかったのだろうか。

 とりあえず銀砂糖師になれば、砂糖菓子など、どうでもいいと思っていたかもしれない。

 そんな時彼のもとに、病で身動きが取れない銀砂糖師とそのむすめが転がり込んできた。

 彼はその親子を、利用することを考えたにちがいない。

 最初はこっそりアンたちの馬車にしのびこみ、砂糖菓子のデザインをき写してぬすんだ。

 しかしデザインはあっても、思うような作品に仕上げられない。技術には自信があっても、自分の作ったものには、自信が持てない。

「だから、わたしにプロポーズしたんだ……」

 アンにけつこんを申し込んだのは、彼女を丸めこみ、ジョナスのために砂糖菓子を作らせて、それを使って銀砂糖師のしようごうを手に入れようとしたためだ。

 だがここでも、ジョナスは失敗した。

 そこでジョナスは、アンに作らせた砂糖菓子を横取りし、自分の作品として品評会に出品することを思いついたに違いない。

 その計画に、アンダー家の人々が全面的に協力したのだ。

 アンダー夫妻は息子むすこの計画のために、馬車や用心棒まで用意した。

 息子がラドクリフ工房派の長になれば、アンダー一家にとっての利益も大きい。

 そしてジョナスは、品評会に向かうアンを追い、ともに旅をして、銀砂糖を一部盗んだ。

 銀砂糖を盗んだのは、おそらくキャシーだ。彼女は姿を消す能力があるから、医者宿にまった夜、荷台の高窓から忍びこみ、少しずつ銀砂糖を運び出したに違いない。

 結果アンは足止めされ、その間に作品を作った。

 アンが作品を作れば、銀砂糖は不足する。規定の三樽に、足りない。

 その不足分の銀砂糖を、からの樽だとしようして、ジョナスはアンの馬車に運びこんだ。そうすれば砂糖菓子ができあがったたんに、馬車ごと砂糖菓子をうばい取れる。

 そしてジョナスは、実行した。

 キャシーにおおかみをおびき出させ、シャルを足止めし。

 アンの馬車に乗って、走り去った。

 ジョナスはまんまと、砂糖菓子の作品を一つと、三樽分の銀砂糖を手に入れたのだ。

 ルイストンまでは、半日のきよ

 昼間であればジョナスは、護衛なしでけ抜けることができるだろう。

 アンのもとには、銀砂糖の詰めこまれた樽五つと、新品の馬車とくたびれた馬が残った。

 銀砂糖はじゆうぶんにある。けれど品評会は、二日後。

 夜になった今、実質一晩と一日。

 祝祭用の大作の砂糖菓子を作る時間は、もはやない。

 ──間に合わない。

 砂糖菓子品評会は、毎年ある。今年に間に合わなくても、来年がある。

 けれどエマのたましいを天国へ送るためのプル・ソウル・デイは、今年だけだ。

 エマのための砂糖菓子は、別に、アンの作った砂糖菓子でなくてもいいかもしれない。もっとベテランの銀砂糖師に素晴らしい砂糖菓子を作ってもらえば、いいのかもしれない。

 けれどアンは、自分の砂糖菓子でエマを送りたかった。

 大好きな母親を、銀砂糖師になった自分の砂糖菓子で送りたい。

 それは母親をくした心を支え、自分が一歩踏み出すための動力だった。

 動力を失って、アンの気力はすっぽりと体から抜け落ちた。

 いい人だと信じていたジョナスに裏切られた、そのしようげき。ジョナスのわざと気がつかずに、ミスリル・リッド・ポッドが銀砂糖を食べたかもしれないと疑い、彼を信じきることが出来なかったおろかさ。ミスリルの、涙いっぱいのひとみを思い出すだけで、苦しくなる。

 信じた自分の、甘さとけさ。こうかいいかり。

 それらが動力のかわりにアンを満たし、全身がだるくて重い。

 一歩も動けない。

 ジョナスにむちで打たれた右手のこうの傷は、ずきずきと痛む。おのれの愚かさを知れとでも言うように。

「今年に間に合わなきゃ、意味ない」

 アンはつぶやいて、作業台に両手をついた。うつむき、軽く笑う。

鹿みたい。はりきって、砂糖菓子つくって……」

 ふらりと荷台を降りると、冷たい雨が降りかかってきた。

 頭からなまぐさい液体をかけられ、体もドレスもべたべたしてあくしゆうを放つ。

 自分のみじめさが、たまらなかった。

 ふと視線を感じて、目を動かす。宿砦のかべぎわにある大木の下に、シャルがいた。うでみした、相変わらずのそんな態度でこちらを見ている。

 しよせん自分は、甘っちょろい十五歳の小娘。

 力もなくもなく、たよる者もなく、ひとりぼっち。

 こんな惨めな自分を、シャルに見られることがずかしかった。まんできなかった。見て欲しくなかった。

 首に下げていたかわひもを乱暴にたぐりだし、小さなふくろを引きむしる。

 早足にシャルのもとにいくと、袋をき出した。

「羽を返す」

 シャルは動かなかった。じっと袋を見つめてから、いてきた。

「ルイストンはまだ先だ。それにジョナスを追わないのか。砂糖菓子を、取りもどさないのか」

「ジョナスはいまごろ、ルイストンにとうちやくしてる。品評会への参加申し込みもすませて、砂糖菓子を役人にわたしているはず。いまさら行って『それはわたしの作ったものだ』って主張しても、しようがない。取り合ってもらえない」

「それでいいのか」

「いいわけないじゃない……。でも……でも、どうしようもないの! シャルがいても、どうしようもないの。だからもう、自由にしてあげる。どこへでも行って!」

 ぶちまけるように言ってから、うつむいた。

 しばらくして、シャルはアンのてのひらから、そっと袋を取りあげた。

「これで、対等か」

 アンは首をふった。

「最初から、シャルは対等よ……。わたしは最初から最後まで、目的のためでも、使えき者になりきれなかった」

ようせい市場でおまえを見たとき、なんとなくわかっていた」

 シャルの言葉は、おだやかだった。雨音のように落ち着いている。

「だからおまえに、俺を買えと言った。甘い小娘なら、簡単に羽を奪い返して、げ出せると思っていた」

うれしかったでしょう。予想通りで」

「……どうかな。わからない」

 シャルが、木の幹から背をはなす気配がした。

 彼はすっとアンの前を通り過ぎると、宿しゆくさいてつの方へ向けてゆっくりと歩き出す。

 ──ひとりぼっち。ひとりぼっち。

 頭の中で、なにかがり返す。えつれる。

 今まで我慢に我慢を重ねてきた思いが、どっとあふれ出す。止めることはできなかった。アンの心を支えていたものは、一気にほうかいしていった。

「ママ! ママ! なんで死んじゃったの!? なんでわたしを、一人にしたの? 一人にしたの。なんで……なんで!?」

 アンはその場にへたりこんだ。ひざに顔をつけ、雨に打たれ続けた。


    ◆ ◇ ◆


 片羽を自分の手に取り戻したのは、どのくらいぶりだろうか?

 七十年……。

 いや、もっと久しぶりのような気がする。

 自分のてのひらにある小さなかわぶくろを見つめる。

 シャル・フェン・シャルは雨に打たれながら、人の手にらされていない、こうせいひつな空気を感じていた。背後にある宿砦が、一歩ごとに遠くなる。

 遠くなる。あの、甘いかおりのするむすめとの距離が、遠くなる。

 不思議だった。自由を手に入れたのに、それに対する喜びがない。

 なぜだろうかと考え、すぐにその理由に思い当たる。

 シャルはアンの命令など、聞いていなかったからだ。アンに買われたしゆんかんから、我知らず、自由を手に入れていたからだ。だから今更、おどりあがるほどに喜べないのだ。

 ただ羽が、アンの手から、シャルの手に戻っただけ。

 羽を取り戻して一つちがうのは、アンというお荷物がいないことだ。彼の羽を大事に胸にかかえていただけの、甘い娘。

 どこへ行こうと、自由。

 なにをしようと、自由。

 かんぺきな自由を手に入れて、ふと、自問する。

 ──自由を手に入れた。そして俺は、なにをしたい? どこへ行きたい?

 くらやみが、押し寄せる。

くずれそうだ」。なにかがふっと、耳元にささやいた。

 ──俺は崩れない。崩れるのは、あいつだ。追うものを目の前からむしり取られて、一人だ。

さびしいか?」。再びなにかが、すかすように囁く。

 ──寂しい?

 守るべきものも、行くべき所もない、自分。

 夢にまで見た、自由を手に入れた瞬間なのに、自分の意識が内側に巻き込まれていくような、縮小していくような、世界からかくぜつされているような感覚がする。

 するとなにかが、しようこいしい気がした。

 恋しいのは、なくした、絶対に帰れない遠い過去の思い出だろうか?

 ──違う。

 過去の思い出は、むなしいだけだった。シャルの心を冷やすだけだ。

 恋しいのは、もっと温かなものだ。もっと確かに、感じられていたものだ。

 ──つい、さっきまで感じていた。あれは……。

 甘い香り。温かい、体温。

 あの甘い香りは、この冷たい雨の中に、崩れて、消え果てるのだろうか。

 目の前を、さらさら流れ落ちる銀砂糖が心にかぶ。思わず、足を止めた。流れ落ちる銀砂糖を、両掌ですくいとめたくなる。


    ◆ ◇ ◆


 雨に打たれ続けた全身は、冷え切っていた。なみだれていた。

 明け方になって雨がやんでも、アンは顔をあげることができなかった。もうろうとしていた。

 けれど背中にあさの明るさと暖かさを感じると、ふと意識がはっきりした。

 顔をあげると、うられた草葉の先に、小さな青い実がすずなりになっているのが目にはいる。

 雨に洗われて朝陽を受けた実は、つやつやとかがやいていた。

 なにもかもがけ落ちた心に、その色と輝きはみた。

 なにも考えず、見つめていた。

 すると小さな青い実の表面を包むように、光のつぶが木の実の内側からき出てきた。それはシャルが、彼のけんを出現させるときの光に似ていた。その光は実の一点に集まってくると、じよじよに固まり、親指くらいの大きさになる。ぎようしゆくし、なにかの形を取り始めた。

 アンは目を見開いた。

 光の粒は、小さな頭の形をとり、手足になり。親指ほどの大きさながら、確かに人の形になる。その背には、はんとうめいの二枚の羽が作られる。

 光のベールに包まれて、そこにはきやしやな、女性の姿が現れる。妖精だ。

「……きれい……」

 おもわず、つぶやく。青い実の上にちょこんと横座りした妖精の女は、ぼんやりと周囲を見回し、びしてあくびする。

 妖精の命が生まれる瞬間。そのこうごうしさと、穏やかな輝きに、せられていた。

 こんなに清らかな輝きが、存在するとは。

「妖精は、もののエネルギーが凝縮して『形』になり、生まれる」

 とつぜん、背後から声が聞こえた。アンはおどろきふり返った。

「シャル……? どうして……」

 シャルは、アンのかたわらにかたひざをついた。

 アンはぼうぜんと、シャルの横顔を見つめ続けた。

 シャルはアンの問いには答えず、草の実の妖精に視線を向けたまま言った。

「人間は妖精を、使役するようによって分類する。労働妖精、あいがん妖精、戦士妖精、と。だが俺たちは、自分たちを、その出自によって分類する。ミスリルは、水の精。俺は貴石の精。この妖精は草の実から生まれたから、植物の精だ。寿じゆみようは、おそらく一年。はかない。だが逆に、うらやましいと思うこともある……俺の寿命は、長すぎる」

 妖精は生まれてから死ぬまで、姿が変わらないという。シャルは生まれた瞬間から、この姿だったはずだ。そしてその寿命は、生まれる源になったものと、だいたい同じだという。

 シャルは、黒曜石から生まれた。

 すると彼はいったい、どのくらい長い時間、この姿で、この世界を生きていくのだろうか。

 想像すると、気が遠くなる。そして同時に、儚い命を羨ましいと言ったシャルの言葉に、身をしぼられるような痛みを感じる。

 永遠に近い時間を一人で生きるのは、どれほどの苦痛だろうかと。

 草の実のようせいは、ようやく正気づいたらしい。目をぱちぱちさせた。そして小首をかしげる。

「ああ……お仲間ね。そしてそちらのあなたは、人間ね。わたしどうやら、生まれたばかりみたい。ドレスも着てない。ごめんなさいね、こんな格好で。とりあえず、はじめまして。わたしは、ルスル・エル・ミン。あら、どうしてかしら。わたし自分の名前を知っているわ」

 自らに驚きながら、小さな小さな妖精は、羽を動かして飛びあがる。

「おまえが生まれ出た草の実が知っていることを、おまえも知っている。それだけのことだ。その草の実が発するエネルギーのひびきが、音になっておまえの名前になる」

「そうなの? とにかくわたし、まずドレスが欲しいわ。そこのおじようさんみたいに」

 シャルがそっと手をばして、小さな妖精を自分の掌に乗せる。

「ルスル・エル・ミン。ドレスなど望むな。そんなものを望んで、人間に近寄るなよ」

「なんで?」

「人間は危険だ。妖精をつかまえて、使えきする。妖精から自由をうばう」

「本当に? でも、そちらのお嬢さんは? 人間でしょう」

「こいつは特別だ。さあ、行け。ルスル・エル・ミン。荒野のさらに奥へ。人間の手がとどかない場所へ行き、気ままに暮らせ」

「ご親切な方。ありがとう」

 礼を言うと妖精はせわしなく羽ばたき、宿しゆくさいの外へ飛び出していった。

 小さな妖精を見送ると、シャルはやっと、アンに視線を向けた。

 アンはただ驚いて、シャルの顔から目をはなせずにいた。シャルがまゆをひそめる。

「なんだ? そのみような顔は」

「だって。どうして、ここにいるの? 羽は、返したでしょう?」

「約束を、果たしてもらっていなかった。それを果たしてもらいに来た」

「約束?」

「砂糖を俺にくれると、約束した」

「砂糖菓子……?」

 砂糖菓子のために、帰ってきたと?

 ──ひとりぼっち。ひとりぼっち。

 頭の中に鳴り響くざんきようが、うすれていく。

 ──ちがう。砂糖菓子一個のためだけに、わざわざ帰って来る人なんかいない。

「作るのか。作らないのか」

 むっとして問うシャルを見て、アンはしようした。

 ──それともシャルは、本当に砂糖菓子が欲しかった? でも、どっちでもかまわない。

 今このしゆんかん、一人じゃない。だれかが、そこにいてくれる。

 そのことがうれしくて、みがこぼれた。

 今年銀砂糖師になって、エマを天国へ送りたいというささやかな希望も消えて、心にはぽっかり穴が空いた。

 けれどシャルが、帰ってきてくれた。義務でも命令でもないのに、帰ってきてくれた。

 そんな彼のためにできることがあるなら、それがアンの値打ちになるかもしれない。

 からっぽになった胸の中に、小さな輝きが一つだけともる。

 嬉しかった。なによりも。涙があふれそうになるが、こらえて微笑ほほえむ。

「そっか。約束したもんね。とびきりれいなもの、作ってあげる」

 アンは立ちあがった。銀砂糖ならば、ジョナスが置いていった馬車の中にたっぷりある。

「待て。そんななりで、砂糖菓子を作るな」

 シャルは言うと、アンの頭の上にかわいた布と、男物の服ひとそろいを投げてよこした。

 それを受け取り、首を傾げた。

「これ、どうしたの」

「荷台の中にあった。やつが置いていった。使ってかまわないだろう」

 アンは苦笑した。

「そうだね」

 アンは荷台のかげえをした。

 男物のズボンとうわはぶかぶかで、すそそでを何重にも折り返した。

「手が冷え過ぎちゃったな。動くかしら」

 寒かった。冷えた体をさすり、こわばった指を動かして、荷台に入ろうとした。

 するとシャルが何気なく歩み寄ってきた。アンの冷えた両手を、自らの手でにぎった。その手に、息をきかける。

「シャル……?」

 彼のいきの温かさに、ふるえた。

「砂糖菓子をあげたら、シャルはまた、行ってしまう?」

 こらえきれずにいたたんに、ふわりと心地ここちよい暖かさに包まれた。

 やわらかくき寄せられたと、気がついた。

「おまえのかおりは、甘い」

 耳に、シャルの息がれる。

「おまえの香りが、俺を呼んだ。砂糖菓子を作れ。おまえには、できることがある」

 アンのどうが、倍の速さに増す。

 シャルが手を離すと、アンは荷台にけこんだ。

 ──なんだか、すごく耳が熱い。

 胸の奥からこみあげてくるものも、熱い喜び。

 もし砂糖菓子をわたして、シャルが去ったとしても。こうやってアンをはげますために、シャルが帰ってきてくれた。それだけでじゆうぶんだと思う。

 彼のために、とびきり綺麗な砂糖菓子を作ろう。

 銀砂糖をすくいあげ、冷水を加える。

 何を作ろうという考えもなく、ただ胸の鼓動をしずめるために銀砂糖を練っていると、指先が勝手に動き出した。

 なにかを作りたいという、そんな思いだけが、胸の中にあふれ出す。

 頭にかんだのは、先刻目にした、妖精の生まれる瞬間。あの美しさを、銀砂糖の中にふうじ込めたい。大きくなくて良い。てのひらるほど小さくて、せんさいで、こわれそうな。薄い羽や、つやつやかがやく青い実。ふわふわした妖精のかみの毛と、華奢な

 いつの間にかアンは、一心不乱に銀砂糖を細工していた。

 薄く薄く、けるほど薄く銀砂糖をのばし、さらにそこに、透かしりを入れる。

 つやつやの草の実を再現するのに、しつように練りをり返す。



 やっとアンが手を止めたのは、馬車の中に入ってくるしが、直線的でまぶしいオレンジ色になったころだった。日が暮れかけていた。

 朝から夕方まで、ぶっ通しで細工を続けていた自分に、おどろいた。そしてできあがったものが、掌に載るとてもちいさなものであることにも、驚く。

 よくもまあこんな小さなものに、これだけ時間をかけたと、自分でもあきれた。

 しかし。草の実から生まれた妖精の姿は、今朝アンが目にしたものそのものだった。

 目をきつけて、離さない。その磁力。

 エマの作った砂糖菓子と似たものを感じ、アンははっとする。

 アンが砂糖菓子品評会のために作った砂糖菓子は、立派でえのするものだった。けれどあれは、エマのデザインだった。エマが心から美しいと思い、それをデザインにしたものだ。

 アンの思いがこもったものではないのだ。

 エマのデザインを利用して作った砂糖菓子は、本当の意味で、アンの作った砂糖菓子ではない。

 ──だから、さるまねだったんだ……。

 自分が本当に美しいと思ったもの。それを封じ込めたいという、思い。それがあってはじめて、自分がなつとくできる、人を惹きつける砂糖菓子になる。

 その点で言えば、これはまさしく、今のアンが作る最高の砂糖菓子だ。

「これは、猿まねじゃない。……わたしの、砂糖菓子」

 ここまでアンにつきあってくれたシャルに、感謝を込めて。この砂糖菓子を、彼にあげよう。

 アンは大事に砂糖菓子を両手に持つと、荷台を降りた。

 シャルは石に座り、ぼんやりと夕日を見ていたが、アンの気配にふり返った。

「シャル。これ。約束どおり、砂糖菓子。今のわたしのなかでは、最高の砂糖菓子。ジョナスにられちゃったものなんかに比べたら、すごく小さいけど。けどあれは、半分ママの砂糖菓子だった。これが本当の、わたしの砂糖菓子」

 アンは彼の前にひざまずき、砂糖菓子を差しだした。

 小さな砂糖菓子を見て、シャルは言った。

「……綺麗だな」

 その言葉に、アンはほおを染めた。

 自分の容姿をめられるよりも、よほど嬉しかった。泣きたくなるほど、嬉しかった。

「ありがとう。もらってくれる?」

 シャルは大事そうに、両手でそっと砂糖菓子を受け取った。

 ──これで、シャルもどこかへ行ってしまうかもしれない。

 そう思うと、目の前にいるようせいが、なによりもいとしく感じた。

 夕日を反射する美しい羽に、最後に触れたいと思った。

「羽。さわらせてもらえる?」

 命に等しいものに、気軽に触れさせてもらえるはずはない。もしアンに害意があれば、シャルの羽に傷をつけることも考えられるからだ。

 それはわかっていたが、わずにはおれなかった。

 だがシャルは、うなずいた。

「触れ」

「いいの?」

 もう一度頷いたのを確かめて、アンは両掌でそっとシャルの羽をすくった。

 羽は、ほのかに温かかった。掌をすべらせて、絹よりもなめらかな、ぞくりとするようなざわりを確かめる。そして軽く、その羽に口づけた。

 シャルはぶるりとぶるいして、わずかにあごをあげて目を細める。ふっと息をいた。

 アンは羽から手をはなすと、微笑んだ。

「ありがとう」

「気はすんだか?」

「うん。これで……」

 何処どこへ行っても、いいよ。そう言おうとした言葉が、のどの奥にはりつく。

 本当は、何処へも行って欲しくない。

 シャルはしばらく、掌の上の砂糖ながめていた。そしてぽつりと、訊いた。

「この砂糖菓子は、俺のものだな?」

「うん」

「じゃあ、俺の勝手にさせてもらう」

 言うとシャルは、立ちあがった。そして木につながれていた馬のつなを、外しにかかった。その馬を、残されていた箱形馬車に取りつける。

 首をかしげるアンのところに帰ってくると、顎をしゃくった。

ぎよしやだいに乗れ。出発する」

「どこへ?」

「ルイストンだ。夜通し走れば、朝にはルイストンにとうちやくする。砂糖菓子品評会の当日、滑りこみでも間に合うだろう。おまえは今年、銀砂糖師になりたいんだろう」

「でも、シャル。砂糖菓子が」

「これがある」

 シャルは自分の手にある砂糖菓子を、アンに差しだした。

 受け取れと目顔でうながされ、アンは再び、自分の砂糖菓子を手にする。

「それがおまえの、本当の最高の一つなら。それを出品しろ。それでだめなら、あきらめがつく」

 砂糖菓子品評会の作品は、どれも大きくてえのするものばかり。その中でこんな小さなもの、はなも引っかけられずに落選だろう。

 だが。アンはやっと、気がついた。

 自分は何をあせって、銀砂糖師になりたがっていたのか。自分の力量がおよばないのに、半分エマの力を借りて銀砂糖師になっても、エマは喜ばない。そんなにせものの銀砂糖師の砂糖菓子で、エマは喜んで天国へ行かない。

 もしこの小さなものが、本当に自分の実力ならば。この小さな砂糖菓子で、アンは勝負するべきなのだ。シャルを見あげる。

「どうして、こんなことしてくれるの? 羽を返したのに」

「羽を返してもらった。おまえは俺の使えき者じゃない。だから友達になれる。おまえが望めば」

「シャルは、望んでくれたの?」

 アンの問いに、シャルはかたをすくめた。

「さあな」

 素っ気ない言葉の裏に、かくれた意味をさとる。

 アンの目に、彼女本来の強い輝きがもどる。喜びに、力がわく。

「これから夜が来る。ブラディかいどうを、夜に走りけられる? だいじよう?」

 シャルは不敵に笑った。

「俺を何者だと?」



 やみき抜けた。アンの馬は、よくがんった。息を乱しながらも、立ち止まることはなかった。夜明けとともに、ブラディ街道を抜けた。

 そしてあさつゆかわころに、王都ルイストンが目の前に広がった。

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