六章 生まれる朝
しかし
精製
残されたジョナスの箱形馬車の中に、アンはいた。
荷台の中は、アンの箱形馬車とそっくりにつくられていた。砂糖菓子を作るための作業場だ。
作りかけの砂糖菓子の
作業台の上には、砂糖菓子のデザインを
荷台の中には五つも
──最初から全部、計算ずく。全部
ジョナスは、ラドクリフ
ジョナスは過去二回、砂糖
それを、疑問に思うべきだった。
ジョナスは過去二回の失敗で、自信
けれど彼は、
王家
ジョナスは、栄光にだけ
だから、真摯さが足りなかったのだろうか。
とりあえず銀砂糖師になれば、砂糖菓子など、どうでもいいと思っていたかもしれない。
そんな時彼のもとに、病で身動きが取れない銀砂糖師とその
彼はその親子を、利用することを考えたに
最初はこっそりアンたちの馬車に
しかしデザインはあっても、思うような作品に仕上げられない。技術には自信があっても、自分の作ったものには、自信が持てない。
「だから、わたしにプロポーズしたんだ……」
アンに
だがここでも、ジョナスは失敗した。
そこでジョナスは、アンに作らせた砂糖菓子を横取りし、自分の作品として品評会に出品することを思いついたに違いない。
その計画に、アンダー家の人々が全面的に協力したのだ。
アンダー夫妻は
息子がラドクリフ工房派の長になれば、アンダー一家にとっての利益も大きい。
そしてジョナスは、品評会に向かうアンを追い、ともに旅をして、銀砂糖を一部盗んだ。
銀砂糖を盗んだのは、おそらくキャシーだ。彼女は姿を消す能力があるから、医者宿に
結果アンは足止めされ、その間に作品を作った。
アンが作品を作れば、銀砂糖は不足する。規定の三樽に、足りない。
その不足分の銀砂糖を、からの樽だと
そしてジョナスは、実行した。
キャシーに
アンの馬車に乗って、走り去った。
ジョナスはまんまと、砂糖菓子の作品を一つと、三樽分の銀砂糖を手に入れたのだ。
ルイストンまでは、半日の
昼間であればジョナスは、護衛なしで
アンのもとには、銀砂糖の詰めこまれた樽五つと、新品の馬車とくたびれた馬が残った。
銀砂糖は
夜になった今、実質一晩と一日。
祝祭用の大作の砂糖菓子を作る時間は、もはやない。
──間に合わない。
砂糖菓子品評会は、毎年ある。今年に間に合わなくても、来年がある。
けれどエマの
エマのための砂糖菓子は、別に、アンの作った砂糖菓子でなくてもいいかもしれない。もっとベテランの銀砂糖師に素晴らしい砂糖菓子を作ってもらえば、いいのかもしれない。
けれどアンは、自分の砂糖菓子でエマを送りたかった。
大好きな母親を、銀砂糖師になった自分の砂糖菓子で送りたい。
それは母親を
動力を失って、アンの気力はすっぽりと体から抜け落ちた。
いい人だと信じていたジョナスに裏切られた、その
信じた自分の、甘さと
それらが動力のかわりにアンを満たし、全身がだるくて重い。
一歩も動けない。
ジョナスに
「今年に間に合わなきゃ、意味ない」
アンは
「
ふらりと荷台を降りると、冷たい雨が降りかかってきた。
頭から
自分の
ふと視線を感じて、目を動かす。宿砦の
力もなく
こんな惨めな自分を、シャルに見られることが
首に下げていた
早足にシャルのもとにいくと、袋を
「羽を返す」
シャルは動かなかった。じっと袋を見つめてから、
「ルイストンはまだ先だ。それにジョナスを追わないのか。砂糖菓子を、取り
「ジョナスは
「それでいいのか」
「いいわけないじゃない……。でも……でも、どうしようもないの! シャルがいても、どうしようもないの。だからもう、自由にしてあげる。どこへでも行って!」
ぶちまけるように言ってから、うつむいた。
しばらくして、シャルはアンの
「これで、対等か」
アンは首をふった。
「最初から、シャルは対等よ……。わたしは最初から最後まで、目的のためでも、
「
シャルの言葉は、
「だからおまえに、俺を買えと言った。甘い小娘なら、簡単に羽を奪い返して、
「
「……どうかな。わからない」
シャルが、木の幹から背を
彼はすっとアンの前を通り過ぎると、
──ひとりぼっち。ひとりぼっち。
頭の中で、なにかが
今まで我慢に我慢を重ねてきた思いが、どっとあふれ出す。止めることはできなかった。アンの心を支えていたものは、一気に
「ママ! ママ! なんで死んじゃったの!? なんでわたしを、一人にしたの? 一人にしたの。なんで……なんで!?」
アンはその場にへたりこんだ。
◆ ◇ ◆
片羽を自分の手に取り戻したのは、どのくらいぶりだろうか?
七十年……。
いや、もっと久しぶりのような気がする。
自分の
シャル・フェン・シャルは雨に打たれながら、人の手に
遠くなる。あの、甘い
不思議だった。自由を手に入れたのに、それに対する喜びがない。
なぜだろうかと考え、すぐにその理由に思い当たる。
シャルはアンの命令など、聞いていなかったからだ。アンに買われた
ただ羽が、アンの手から、シャルの手に戻っただけ。
羽を取り戻して一つ
どこへ行こうと、自由。
なにをしようと、自由。
──自由を手に入れた。そして俺は、なにをしたい? どこへ行きたい?
「
──俺は崩れない。崩れるのは、あいつだ。追うものを目の前からむしり取られて、一人だ。
「
──寂しい?
守るべきものも、行くべき所もない、自分。
夢にまで見た、自由を手に入れた瞬間なのに、自分の意識が内側に巻き込まれていくような、縮小していくような、世界から
するとなにかが、
恋しいのは、なくした、絶対に帰れない遠い過去の思い出だろうか?
──違う。
過去の思い出は、むなしいだけだった。シャルの心を冷やすだけだ。
恋しいのは、もっと温かなものだ。もっと確かに、感じられていたものだ。
──つい、さっきまで感じていた。あれは……。
甘い香り。温かい、体温。
あの甘い香りは、この冷たい雨の中に、崩れて、消え果てるのだろうか。
目の前を、さらさら流れ落ちる銀砂糖が心に
◆ ◇ ◆
雨に打たれ続けた全身は、冷え切っていた。
明け方になって雨がやんでも、アンは顔をあげることができなかった。
けれど背中に
顔をあげると、
雨に洗われて朝陽を受けた実は、つやつやと
なにもかもが
なにも考えず、見つめていた。
すると小さな青い実の表面を包むように、光の
アンは目を見開いた。
光の粒は、小さな頭の形をとり、手足になり。親指ほどの大きさながら、確かに人の形になる。その背には、
光のベールに包まれて、そこには
「……きれい……」
おもわず、
妖精の命が生まれる瞬間。その
こんなに清らかな輝きが、存在するとは。
「妖精は、もののエネルギーが凝縮して『形』になり、生まれる」
「シャル……? どうして……」
シャルは、アンの
アンは
シャルはアンの問いには答えず、草の実の妖精に視線を向けたまま言った。
「人間は妖精を、使役する
妖精は生まれてから死ぬまで、姿が変わらないという。シャルは生まれた瞬間から、この姿だったはずだ。そしてその寿命は、生まれる源になったものと、だいたい同じだという。
シャルは、黒曜石から生まれた。
すると彼はいったい、どのくらい長い時間、この姿で、この世界を生きていくのだろうか。
想像すると、気が遠くなる。そして同時に、儚い命を羨ましいと言ったシャルの言葉に、身を
永遠に近い時間を一人で生きるのは、どれほどの苦痛だろうかと。
草の実の
「ああ……お仲間ね。そしてそちらのあなたは、人間ね。わたしどうやら、生まれたばかりみたい。ドレスも着てない。ごめんなさいね、こんな格好で。とりあえず、はじめまして。わたしは、ルスル・エル・ミン。あら、どうしてかしら。わたし自分の名前を知っているわ」
自らに驚きながら、小さな小さな妖精は、羽を動かして飛びあがる。
「おまえが生まれ出た草の実が知っていることを、おまえも知っている。それだけのことだ。その草の実が発するエネルギーの
「そうなの? とにかくわたし、まずドレスが欲しいわ。そこのお
シャルがそっと手を
「ルスル・エル・ミン。ドレスなど望むな。そんなものを望んで、人間に近寄るなよ」
「なんで?」
「人間は危険だ。妖精を
「本当に? でも、そちらのお嬢さんは? 人間でしょう」
「こいつは特別だ。さあ、行け。ルスル・エル・ミン。荒野のさらに奥へ。人間の手がとどかない場所へ行き、気ままに暮らせ」
「ご親切な方。ありがとう」
礼を言うと妖精はせわしなく羽ばたき、
小さな妖精を見送ると、シャルはやっと、アンに視線を向けた。
アンはただ驚いて、シャルの顔から目を
「なんだ? その
「だって。どうして、ここにいるの? 羽は、返したでしょう?」
「約束を、果たしてもらっていなかった。それを果たしてもらいに来た」
「約束?」
「砂糖
「砂糖菓子……?」
砂糖菓子のために、帰ってきたと?
──ひとりぼっち。ひとりぼっち。
頭の中に鳴り響く
──ちがう。砂糖菓子一個のためだけに、わざわざ帰って来る人なんかいない。
「作るのか。作らないのか」
むっとして問うシャルを見て、アンは
──それともシャルは、本当に砂糖菓子が欲しかった? でも、どっちでもかまわない。
今この
そのことが
今年銀砂糖師になって、エマを天国へ送りたいというささやかな希望も消えて、心にはぽっかり穴が空いた。
けれどシャルが、帰ってきてくれた。義務でも命令でもないのに、帰ってきてくれた。
そんな彼のためにできることがあるなら、それがアンの値打ちになるかもしれない。
からっぽになった胸の中に、小さな輝きが一つだけ
嬉しかった。なによりも。涙があふれそうになるが、こらえて
「そっか。約束したもんね。とびきり
アンは立ちあがった。銀砂糖ならば、ジョナスが置いていった馬車の中にたっぷりある。
「待て。そんななりで、砂糖菓子を作るな」
シャルは言うと、アンの頭の上に
それを受け取り、首を傾げた。
「これ、どうしたの」
「荷台の中にあった。
アンは苦笑した。
「そうだね」
アンは荷台の
男物のズボンと
「手が冷え過ぎちゃったな。動くかしら」
寒かった。冷えた体をさすり、
するとシャルが何気なく歩み寄ってきた。アンの冷えた両手を、自らの手で
「シャル……?」
彼の
「砂糖菓子をあげたら、シャルはまた、行ってしまう?」
こらえきれずに
やわらかく
「おまえの
耳に、シャルの息が
「おまえの香りが、俺を呼んだ。砂糖菓子を作れ。おまえには、できることがある」
アンの
シャルが手を離すと、アンは荷台に
──なんだか、すごく耳が熱い。
胸の奥からこみあげてくるものも、熱い喜び。
もし砂糖菓子を
彼のために、とびきり綺麗な砂糖菓子を作ろう。
銀砂糖をすくいあげ、冷水を加える。
何を作ろうという考えもなく、ただ胸の鼓動を
なにかを作りたいという、そんな思いだけが、胸の中にあふれ出す。
頭に
いつの間にかアンは、一心不乱に銀砂糖を細工していた。
薄く薄く、
つやつやの草の実を再現するのに、
やっとアンが手を止めたのは、馬車の中に入ってくる
朝から夕方まで、ぶっ通しで細工を続けていた自分に、
よくもまあこんな小さなものに、これだけ時間をかけたと、自分でも
しかし。草の実から生まれた妖精の姿は、今朝アンが目にしたものそのものだった。
目を
エマの作った砂糖菓子と似たものを感じ、アンははっとする。
アンが砂糖菓子品評会のために作った砂糖菓子は、立派で
アンの思いがこもったものではないのだ。
エマのデザインを利用して作った砂糖菓子は、本当の意味で、アンの作った砂糖菓子ではない。
──だから、
自分が本当に美しいと思ったもの。それを封じ込めたいという、思い。それがあってはじめて、自分が
その点で言えば、これはまさしく、今のアンが作る最高の砂糖菓子だ。
「これは、猿まねじゃない。……わたしの、砂糖菓子」
ここまでアンにつきあってくれたシャルに、感謝を込めて。この砂糖菓子を、彼にあげよう。
アンは大事に砂糖菓子を両手に持つと、荷台を降りた。
シャルは石に座り、ぼんやりと夕日を見ていたが、アンの気配にふり返った。
「シャル。これ。約束どおり、砂糖菓子。今のわたしのなかでは、最高の砂糖菓子。ジョナスに
アンは彼の前に
小さな砂糖菓子を見て、シャルは言った。
「……綺麗だな」
その言葉に、アンは
自分の容姿を
「ありがとう。もらってくれる?」
シャルは大事そうに、両手でそっと砂糖菓子を受け取った。
──これで、シャルもどこかへ行ってしまうかもしれない。
そう思うと、目の前にいる
夕日を反射する美しい羽に、最後に触れたいと思った。
「羽。
命に等しいものに、気軽に触れさせてもらえるはずはない。もしアンに害意があれば、シャルの羽に傷をつけることも考えられるからだ。
それはわかっていたが、
だがシャルは、
「触れ」
「いいの?」
もう一度頷いたのを確かめて、アンは両掌でそっとシャルの羽をすくった。
羽は、ほのかに温かかった。掌を
シャルはぶるりと
アンは羽から手を
「ありがとう」
「気はすんだか?」
「うん。これで……」
本当は、何処へも行って欲しくない。
シャルはしばらく、掌の上の砂糖
「この砂糖菓子は、俺のものだな?」
「うん」
「じゃあ、俺の勝手にさせてもらう」
言うとシャルは、立ちあがった。そして木に
首を
「
「どこへ?」
「ルイストンだ。夜通し走れば、朝にはルイストンに
「でも、シャル。砂糖菓子が」
「これがある」
シャルは自分の手にある砂糖菓子を、アンに差しだした。
受け取れと目顔で
「それがおまえの、本当の最高の一つなら。それを出品しろ。それでだめなら、
砂糖菓子品評会の作品は、どれも大きくて
だが。アンはやっと、気がついた。
自分は何を
もしこの小さなものが、本当に自分の実力ならば。この小さな砂糖菓子で、アンは勝負するべきなのだ。シャルを見あげる。
「どうして、こんなことしてくれるの? 羽を返したのに」
「羽を返してもらった。おまえは俺の
「シャルは、望んでくれたの?」
アンの問いに、シャルは
「さあな」
素っ気ない言葉の裏に、
アンの目に、彼女本来の強い輝きが
「これから夜が来る。ブラディ
シャルは不敵に笑った。
「俺を何者だと?」
そして
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