五章 砂糖林檎は裏切りの木

 からの樽のふちに手をかけて、アンはその場にひざをついた。

「うそ。どうして、ないの? 医者宿で使った時には、樽の半分以上あったのに……確かめたのに。荷台に、かぎもかけてたのに」

 これではルイストンに到着しても、砂糖菓子品評会に参加できない。

 作品を作れば、規定量の樽三つの銀砂糖が目減りして、失格になる。

 けれど樽三つの銀砂糖を確保しようとすると、作品を作る材料がない。

「……どうして……。どうしてよ!! だれも、荷台に入ってないのに! どうして!!」

 アンはさけんだ。

「なにをさわいでる」

 開いたままになっていた荷台扉の外から、シャルの声がした。

 アンは立ちあがった。足に力が入らず、ふわふわした。落ち葉の降り積もった道をんでいるようだった。馬車のステップを降りたたんに、よろけて、シャルにしがみついた。

「なにがあった」

「銀砂糖が。……なくなってる」

「なくなった?」

「……三樽は、残ってる。でも、品評会に出るには、樽三つ分の銀砂糖と、作品が必要なのよ。作品をつくる分の銀砂糖が、ない……」

 シャルはまゆをひそめた。

「医者宿では、あったのか?」

「あの時には、あった。確かめた。あの時扉に、鍵もかけた。誰も出入りできないはずなのに」

 なのに。銀砂糖がなくなっている。

 シャルのそでにぎりしめていた指が、わずかにふるえていた。視界がにじむ。

 なぜ銀砂糖がなくなっているのか、わからない。

「アン? なにかあったの?」

 声を聞きつけたらしく、ジョナスが、キャシーをともなって荷台から出てきた。そしてシャルにしがみつくアンを見ると、いぶかしげに首をかしげた。

 声を出すと、なみだがこぼれそうだった。

 ジョナスの質問に答えられないアンにかわって、シャルが言った。

「銀砂糖が、なくなってるらしい」

「え? だって、銀砂糖は、荷台に入れてただろう? 鍵もかけていたし、誰も出入りできないじゃないか」

「……いえ。出入りできます」

 思い詰めたような声で言ったのは、キャシーだった。

 その言葉にふくむところを感じて、みんなの視線が、彼女に注がれた。

「どういう意味だ、キャシー」

 ジョナスの問いに、キャシーはうつむいた。

「同族を裏切るようなこと、言いたくないんですけれど……。わたし、見たんです。医者宿に泊まっていた夜に、自分の部屋の窓から。アン様の馬車の荷台は、高い位置に窓があるでしょう? あそこから、ミスリル・リッド・ポッドが出てくるのを、見たんです。月明かりに、体じゅうが、きらきら光って見えました。銀砂糖まみれの姿でした」

 ──ミスリルが……?

「なんだなんだ、うるさいなぁ。そろって集まって。なんの相談だよ」

 ぼけまなこをこすりながら、荷台の屋根の上から、ミスリルが顔を出した。

 ──まさか。でも鍵をかけた荷台には、小さなようせいくらいしか、出入りできない。しかもあの夜。確かにミスリルは一人だけ、食堂で寝ていた。

 ミスリルの顔を、見つめる。彼はそんなことをしていないと、信じたかった。

「ミスリル。降りてこい」

 厳しい声で、ジョナスが命じた。

「なんだよ。俺はおまえに使えきされてるんじゃないぞ。えらそうにするな。しかも名前を、略すな。俺はミスリル・リッド・ポッド……」

「降りてくるんだ!!」

 ジョナスのはくとその場のふんに、ミスリルは途端に、おびえた表情をした。屋根の上から降りてくると、おずおずとアンを見あげる。

「な、なんだよ」

「おまえは、銀砂糖が好きか?」

 ジョナスの問いに、ミスリルはうなずく。

「好きだよ。銀砂糖をきらいな妖精なんか、いるもんか。なんだよ。それが、どうしたよ」

「医者宿にまった夜、おまえ一人だけ、食堂でねむったな? なにかこんたんがあって、そうしたんじゃないのか」

「え?」

「アンが品評会のために準備していた銀砂糖が、一部、なくなってる。医者宿に泊まった夜、おまえが銀砂糖まみれの姿でアンの馬車の荷台から出てくるのを、キャシーが見ている」

 そう聞かされて、ミスリルは目をぱちくりさせ、ぽかんと口を開けた。しかしすぐにかっとしたように、キャシーに向かってわめいた。

「な、なんだよ!! 何を言うんだよ、おまえ。同じ妖精のくせに。俺がそんなことしたって、言ったのか!?」

 キャシーはジョナスの背にかくれるようにして、細い声で言った。

「だって、見たんですもの」

うそつけ!」

 ると、ミスリルはアンに視線をもどした。怯えたような目で、アンを見る。

「アン。銀砂糖をぬすんだのは、俺じゃない。キャシーが噓つきなんだ」

「キャシーが噓をついて、なんの得があるんだ」

 責めるジョナスの言葉をふうじようとするかのように、ミスリルは叫んだ。

「人間め、だまれ!!」

 そしてさらに、アンにうつたえる。

「アン。まさかおまえまで、俺を疑ってないよな。俺じゃない。ちかって、俺じゃないよ」

 ミスリルがおどおどと、言葉をつむぐ。

 その言葉を信じたかった。でも、疑いをはらすしようもない。

 ──もしかして。……いいえ、ちがう。そんなはずない。……でも……。

 疑いが、アンの心の中でうずを巻く。信じたいと思いながらも、一方で、もしかして、と。

 その気持ちが、アンの顔に表れていたのだろう。

 アンの顔を見ていたミスリルのひとみに、みるみる涙が盛りあがる。

「俺を、疑ってるんだな。アン。信じてくれないんだな……アン」

「……信じたいの」

「でも、信じてないじゃん!! アンはほんの少し、俺を疑ってる」

 ミスリルの目から、涙があふれた。

「わかったよ、アンがそんな目で俺を見るなら、もう、アンの目の前から消えてやる!」

 そう叫ぶと、ミスリルはおもいきりちようやくした。そして荷台を飛びえるようにして、馬車の向こう側に姿を消した。

「ミスリル、待っ……」

 呼び止めようとしたが、ちゆうで声はれる。ミスリルを信じきることが出来ない自分が、彼を呼び戻してどうしようというのだ。不信をぬぐえない表情のまま「信じてる」と言っても、彼を傷つけるだけだ。

 力がけた。アンは握っていたシャルの袖から手をはなすと、荷台のステップにすとんと座りこんでしまった。両手で顔をおおう。

「もう、これで……。今年の砂糖品評会には、参加できない……」

 シャルは黙って、ミスリルが消えた方向を見ていた。

 ジョナスは、考え深げにあごに手をやっていた。そしてしばらくすると、ぽんと手を打った。

「そうだ!! ねぇ、アン。あきらめることないさ! 作品を一個つくるだけでいいなら、その分の銀砂糖を、これから作ればいいじゃないか」

ちやよ。そもそも原料の砂糖りんがない」

「砂糖林檎は、あるよ! ラドクリフこうぼう派の会合で、聞いたことがあるんだ。ブラディかいどう沿いに、砂糖林檎の林があるって。護衛をやとって砂糖林檎をりに来ると採算が合わないから、誰も穫りに来ないらしいけど。今は秋だから、ちょうど実がなってるよ」

 砂糖林檎の木は、不思議な木だ。

 人間の手でさいばいしようとしても、どうしても実をつけない。

 自然の中で育った砂糖林檎の木だけが、実をつける。

 だから砂糖菓子職人は、砂糖林檎の林がどこにあるのか、その実を自分がどうやって確保するかに必死だ。

 ラドクリフ工房派の会合で話題になったのなら、砂糖林檎の林がある可能性は高い。

 しかし。

「砂糖林檎があっても、それを精製するのに三日はかかる。ブラディ街道でそんなに時間をとられていたら、ルイストンにとうちやくして、作品をつくる時間がないわ」

「だったら銀砂糖を精製する三日間に、今残っている銀砂糖を使って、作品を作ればいいんじゃない? 銀砂糖の精製と作品作りを、同時にするんだ。それで作品ができて、使った分の銀砂糖をじゆうできる量の銀砂糖が精製できれば、あとはルイストンへ向かって走り続ければいい」

「そんなこと……」

 できっこないと言おうとした。が、ようやくアンの思考はまともに動き始める。

 あながち不可能ではないかもしれない。

 顔をあげ、ジョナスを見る。勇気づけるように、彼は頷いた。

「できるよ。元気を出して、アン。僕も砂糖菓子職人のはしくれだからね、協力できる」

 ジョナスが力強く、アンのかたに手を置く。そのやさしさと、このきゆうたよりになる情報をもたらしてくれたことに、感謝の気持ちがあふれる。

「ありがとう。ジョナス」

 やっとわずかに微笑ほほえむことができた。そしてシャルを見あげる。

「ごめん。シャル。なんか動転して。シャル、せっかく寝てたのに。起こしちゃったね」

「かまわない」

 シャルは言うと、素っ気なくアンに背を向け、火のそばに帰った。

 アンはジョナスといつしよに、ぎよしやだいの上で地図を広げた。

「確かここだ。この場所に、砂糖林檎の林はあるはずだよ。宿しゆくさいの近くだ。この場所なら、銀砂糖を精製して、すぐにルイストンへ到着できるね」

 地図の一点を指さして、ジョナスが言う。

 その場所は、ルイストンから馬車で半日のきよ。幸いなことに、宿砦の近く。

 本当ならば砂糖林檎をしゆうかくし、ブラディ街道を抜けた後に、銀砂糖に精製したい。それが安全だ。

 しかし砂糖林檎は、収穫直後に精製しなくては、独特の苦みが抜けなくなる。半日も荷台にられた砂糖林檎は、銀砂糖にならない。

 ということは、近場の宿砦にとどまり、そこで必要な量の銀砂糖を精製するしかない。

 砂糖林檎の林のまでは、ここから馬車で三日。

 そして砂糖林檎を見つけて収穫するのに、一日。

 近場の宿砦で精製するのに、三日。

 宿砦からルイストンまでの距離は、半日。

 砂糖菓子品評会は、八日後。品評会当日に、けこめる計算だ。

 ぎりぎりだ。

 だが、やれないことはない。アンは決意をこめて、地図を見つめた。

「がんばろうね、アン」

 ジョナスは最後にひと言そうはげますと、キャシーを連れ、自分の馬車に引きあげた。

 アンは火のそばに帰った。

 そのころには、気持ちもかなり落ち着いていた。

 シャルのとなりこしをおろし、ジョナスと打ち合わせしたことをたんたんと説明した。

 説明が終わるとアンはひざかかえて、ひざがしらに顎をせた。

 ちんもくが落ちた後、ふと周囲を見回す。ミスリルの姿が見えない。

「ねぇ、ミスリルは?」

 シャルは、消えかけた火に小枝を投げこみ、答えた。

「消えた」

「どこかへ……行っちゃったの……?」

 アンはうつむいて、うられた草の葉をちぎり、火の中に投げこんだ。

 草葉はちりっと、いつしゆんで灰になる。

 たとえミスリルが銀砂糖を盗んだ犯人だったとしても、彼が違うと言えば、信じてあげることが本当のしんらいではないだろうか。彼の言葉を、一点のくもりもなく信じ抜いてあげることが出来なかった自分が、とても度量の小さな人間に思えた。

 ミスリルのことを可愛かわいいと思い始めていた矢先だったから、よけいに情けない気持ちになる。

「本当に、あいつか?」

 シャルがぽつりと言ったので、アンは顔をあげた。

「なにが?」

「本当に、ミスリルがぬすんだのか?」

 軽くまゆをひそめ、疑わしげにつぶやく。

 じようきようから考えると、ミスリル以外にはありえない。

 だが、確かに。あれほど熱心に、恩返しをしたいとくっついてきた彼が、なぜそんなうかつな真似まねをしたのだろうか。銀砂糖の甘いゆうわくに、負けてしまったのだろうか。

 それとも、別のだれかだろうか。

 しかしキャシーがうそをついているとも、考えたくなかった。

「わからない……。本当は誰が、銀砂糖を盗んだかなんて……。そんなことよりも今は、銀砂糖の確保よ。意地でもわたしは、今年の砂糖菓子品評会に出るんだから。……ごめんね。シャルに作ってあげるって約束した砂糖菓子、作るの忘れてた。思い出して、今、作ろうとしてたんだけど……。これでしばらくお預けになっちゃった。でも羽を返すのと一緒に、砂糖菓子をプレゼントするから。約束する」

 言うとどこにもぐりこんだアンは、毛布をかぶった。シャルは静かに座っていた。

 ──間に合うかな? どうか、間に合わせて。お願い、ママ。


    ◆ ◇ ◆


 シャル・フェン・シャルは、ほのおを見つめていた。

 せなかった。なぜ、銀砂糖がなくなったのか。

 状況から考えれば、ミスリルが食べてしまったというのが、一番可能性が高い。

 だがシャルには、ミスリルのわざとは思えなかった。

 そうぞうしくはためいわくやつではあるが、ミスリルは心から、アンに感謝している。アンの望みを知っているミスリルが、彼女を困らせるような、軽はずみなことをするはずはない。

 ──ミスリルでなければ……誰だ?


    ◆ ◇ ◆


 三日間。アンは前に進むことだけを考えて箱形馬車を走らせた。

 昼間は、ろくにきゆうけいを取ることもしなかった。

 夜は危険で、馬車を走らせることができない。宿しゆくさいげこみ、じりじりした気持ちで朝を待った。

 幸いにも、とうぞくにもじゆうにもしゆうげきされることはなく、三日目の昼を少し過ぎたころに、砂糖りんの林に近いと思われる宿砦に到着した。

 あと半日走れば、王都ルイストンだ。

 最後の宿砦は小高いおかの上に建てられていた。そこから、はるかこうわたせた。するとまばらな林のさらに向こう。こうする大きな川の向こうに、王城のせんとうが小さく見えた。

 ルイストンが目前であることを実感した。

 しかしルイストンを目前にしながら、アンはここを離れられないのだった。こぶしにぎる。

 ──砂糖林檎を、早く手に入れないと。

 翌日。アンは日の出とともに、ジョナスと一緒に馬車を出した。

 かいどうをはずれ、れ地の中に点在する林を一つ一つかくにんして、砂糖林檎の林を探し歩いた。

 そして太陽が中天にかかる頃。アンの目に、真っ赤な木の実の姿が飛びこんできた。

「……砂糖林檎」

 うれしいというよりも、足の力がけるようなあんかんがあった。

 砂糖林檎の木は、背が低い。せいぜい、アンの頭の上までしか高さがない。

 細い幹に、人の指ほどの小枝が無数にびる、きやしやな姿。その細い枝の先に、にわとりの卵ほどの大きさの、しんの木の実がなっている。林檎によく似た形。ろうったように、つややかで赤い。

 予想外に早い砂糖林檎の発見に、アンの中でやる気がわいていた。

「間に合う。この砂糖林檎を精製しながら、作品をつくれば。ゆうを持ってルイストンまで行ける!」

 御者台から降りて、荷台からかごを引っ張り出した。

 砂糖林檎を次々籠にほうり込んでいると、ジョナスも手伝ってくれた。

 見る間に籠いっぱいになった砂糖林檎を荷台に移し、再び籠をいっぱいにする。五、六回もそれをり返すと、荷台のゆかは足のみ場もないほど、赤いしきさいめつくされた。

 砂糖林檎の赤い色を見ると、元気が出る。エマも、よくそう言っていた。

 三日間、街道をしつそうした。

 そのおかげでミスリルや自分に対するもやもやした感情は、背後にき飛んでいた。

 それよりも、前を見ること。希望があるなら、うだうだなやまずっ走るべきだ。

 がんれば、間に合うのだ。

「さっそく作業開始よ!」

 砂糖林檎を荷台にめこんで宿砦に帰ったアンは、うでまくりした。

 荷台からきよだいなべしやくをおろしながら、ぎよしやだいの上にころんで、長い足をぶらぶらと揺らしているシャルに向かって声をかける。

「品評会用の作品を作ったら、すぐに、シャルにあげる砂糖も作るから。待っててね」

「食えるものをたのむ」

 にくらしい答えも、笑って流せた。

「言ったね。わたしの腕前、見せてあげる」

 はつらつとした声で答えて、アンは鼻歌交じりに、大鍋に砂糖林檎を放り込み始めた。

 シャルは少しだけ体を起こして、楽しげなアンを見ていた。

 砂糖林檎の木は、裏切りの木とも呼ばれる。

 真っ赤でつやつやした、美味おいしそうな実をつけ、銀砂糖の原料になる。そうと知ってかじってみると、灰汁あくが強くて、しぶくて食べられない。期待を裏切る実をつける。

 その裏切りの実も、砂糖菓子職人の手にかかれば、上等な甘さに変わる。

 まず。大鍋に水を張り、銀砂糖をひとにぎり加える。そしてその鍋の中に、収穫したばかりの砂糖林檎を入れ、ひたした状態で一昼夜置く。すると砂糖林檎から苦みが抜ける。

 いったん水を捨て、再び新しい水を入れて鍋を火にかける。

 砂糖林檎がくずれて、種や皮がいてくるのを灰汁といつしよにすくいあげ、める。

 どろどろになったら、鍋から平たい石の皿に移す。均一にのばして、また一昼夜かんそう

 するとそれは色を変え、純白の固まりになる。最後にうすでひいて、粉にする。

 そして。わずかに青みがかった、純白の銀砂糖ができあがる。

 銀砂糖は、とうきびから精製される、黄みがかった色の、もったりした味わいの砂糖とはちがう。細かい砂のようなさらさらしたざわりと、白さ。そして後口のよい、さわやかな甘みを持った、聖なる食べ物だ。

 しゆうかくした砂糖林檎を水に浸し終わると、アンはさっそく、品評会に提出するための作品作りに取りかかった。

 作るべきなのは、祝祭に用いられる大きな作品だ。

 荷台に入ると、作業台の下に置かれている紙の束を取り出す。大きさも形もまちまちの、黄ばんだ紙の束は、ひもでくくられている。それをほどき、作業台の上に広げた。

 それらの紙には、砂糖菓子のデザインがえがかれていた。まつな羽根ペンでかれたもので、線はにじんでいたり、ぎざぎざになっていたりする。色の説明や形状の説明が、乱雑な字で書き込まれている。

 エマが、こつこつと描きためていたものだった。彼女は砂糖菓子を作るとき、まずこのデザイン画を広げ、この中から作るものを決めていた。

『ママが作った財産。誰にもあげられない。真似させちゃいけないものよ』

 エマはこの紙束を指して、そう言っていた。

 旅の道中。安い砂糖菓子が欲しいという客には、アンが作ったものを格安で分けていた。アンはエマが指示するデザインで、砂糖菓子を作った。

 今は、「このデザインを使え」と指示してくれるエマはいない。

 アンは、自分で選ばなくてはならなかった。

 迷ったすえに、エマが好きだった、花のモチーフを選ぶ。花の色は、あわいピンク。葉の色も淡い緑で、白と青のちようがその花にとまっている。そんなれんなデザインだ。

 その時、ふっと耳に、医者宿で出会ったヒューの言葉がよみがえった。

 さるまねだ、と。

 ──じゃあ、猿まねじゃなくなるために、なにをどう作ればいいの? わからない……。

 考えながらも、黄ばんだ紙を作業台の上に置き、紅、緑、青と、色粉のびんを取り出す。

 おけに入れてあった水で両手を冷やすと、石のうつわを手にして、銀砂糖が入っているたるに向かう。

 樽から、銀砂糖をすくいあげようとした。

「アン。アン」

 荷台のとびらがノックされ、開いた。ジョナスが顔をのぞかせた。

「精製してる銀砂糖を入れる樽は、足りる? 僕の荷台に一つあったから、これ使えば?」

 ジョナスは小ぶりな樽を一つかかえて、荷台にあがってきた。アンはしようした。

「まだ水に浸してるのに。精製できるのなんかまだ先よ。それにからの樽なら、二つもあるし」

「ああ、そうか。まあ、せっかく持ってきたから。ここに置いておくよ」

 作業台の下に樽を置くと、荷台がどかんとふるえた。アンは目を丸くした。

「それ、からっぽなんでしょう? やたら重そうだけど。すごくじゆうこうな作りなの?」

「父さんの作業場から持ってきたから、一級品だよ。銀砂糖が湿るのを防いでくれる」

「ありがとう。でも。なんでそんなもの、旅に持ってきたの?」

「なんとなく、使うかもしれないと思って。それより作るものは、決まったの?」

「うん。今水に浮かんでる砂糖林檎が銀砂糖になる前に、仕上げてみせるから」

「僕も期待してる」

 ジョナスはそっとアンに近寄ると、彼女のほおに手を当てた。

「な、なに!?」

 おどろき飛び退いたアンに、ジョナスが苦笑しながら、近づいてきた。

「頑張って。アン」

 ジョナスの両手がアンのかたにかかり、彼の顔が息がかかるほどアンの鼻先に近づいた。

 アンは思わず、持っていた石の器を顔の前にかざした。

「なになになに!? ジョナス!? ちょっと、なにこれ。やめようよ」

すいなことしないで、アン」

 石の器を片手で押さえ、残った片手でアンのこしき寄せて、ジョナスは微笑ほほえんだ。

「君が好きなんだ」

「わたし、そんなつもりないし」

「好きだよ」

 くちびるせまってくる。

「や、やだっ!」

 アンの平手が、ジョナスの頰をちよくげきした。

 ジョナスははっと頰をおさえ、アンから手をはなすと後ずさりした。

「どうして? アン」

「わたし、ジョナスを好きってわけじゃない!」

「僕は、君が好きなんだよ」

「それはジョナスの気持ちでしょう!? わたしには関係ない」

 さけんで、アンは、自分がジョナスに対して、まったくれんあい感情をもてないことに気がついた。

 プロポーズの言葉や、やさしい言葉に、おろおろしたりときめいたりはする。

 だが実際、引き寄せられキスされようとしたしゆんかんには、こわいという気持ちが吹きだした。

 ジョナスは、その言葉が信じられないという表情をした。当然かもしれなかった。

 彼は幼いころから村一番の人気者で、女の子たちは彼のこいびとになりたくて、みんなやつになっていた。彼は女の子は当然、自分を好きなはずだと、そんなふうに思っているのかもしれない。

「そっか。君が僕を、好きになってくれてればいいと思ったけど」

 傷ついたように、ジョナスはわずかに笑った。そこでアンも、冷静さを取りもどせた。

「……あ……。ごめん。わたし……なんか、なぐった」

「いいよ。僕がごういんだった。……そうだ! 作業しながら食事を作るのは、時間がもったいないだろう。後で、持ってきてあげる」

「うん。ありがとう」

 ジョナスは微笑むと、出ていった。アンは大きくため息をついた。

 殴られたあとに食事の心配をしてくれるなんて、やはりジョナスはいい人だと思う。

「ジョナスを大好きになってれば、こんなこと、してなかったんだろうなぁ」

 つぶやいて作業に戻る。

 銀砂糖を樽からすくっていると、ノックの音がして再び荷台の扉が開いた。

 入ってきたのは、大きなかごを引きずるようにして持ってきたキャシーだった。

「ジョナス様から。お食事を届けるように言いつけられました。どこに置けばよろしい?」

「ありがとうキャシー。そこの作業台の下に置いて。後で食べる」

 顔もあげずに銀砂糖を量っていると、キャシーがひょいとねて、作業台に乗る。

「一つ。忠告してさしあげます」

 顔をあげると、キャシーはひどく冷たい表情をしていた。

「ジョナス様があなたにきゆうこんしたり、好きだと言っても、いい気にならないことですね」

「え?……いい気になった覚えは、ないんだけど……」

 とうとつな言葉に、こんわくする。

「ジョナス様が、本気であなたなんかに、恋するはずないじゃないですか」

 そのとげとげしい言葉を聞いて、アンは首をひねった。以前、似たような表情を見たし、似たようなことを言われた気がするのだ。

 どこでだったか……。確か、ノックスベリー村だ。はたと思い出す。

「キャシー。あなたもしかして、ジョナスのこと好きなの?」

 たん、キャシーが自分の赤毛に負けないほど、頰を赤くした。

「なんですって!?」

 声も裏返っている。キャシーの態度は、ノックスベリー村の女の子たちにそっくりだ。ジョナスの家に間借りしていることにしつされ、わけのわからないいやを、よく言われたものだ。

 そうと気がつくと、微笑ましくなった。

「いいね。キャシーは好きな人が自分の羽を持ってるなら、幸せだよね。鹿にしてるやつや、きらいな奴なんかに持たれているよりは、ずっといいね」

「そんな話をしてるんじゃないわよ! わたしはあなたに、いい気になるなと……」

ようせいと人間の恋って、じようじゆすればてきね」

「あなたって、本当に馬鹿! お話にならないわ!」

 キャシーは肩をいからせて、ぷいと荷台から出ていった。

 ──キャシーに比べたら、シャルはお気の毒様ね。なんたって心の底から馬鹿にしてる、わたしに羽をにぎられてるんだから。

 扉のすきから、火のかたわらに座るシャルの背が見えた。

 草の上にさらりと流れるシャルの羽は、ほのおかがやきを映して、いろに輝く。

「妖精と人間の恋……」

 ふと考える。シャルはかつて心を通わせた人間の少女リズと、もしかして恋仲だったのだろうか? そう考えた途端に、ぎゅっと胸が痛んだ。

 その痛みがなぜなのかわからず、アンは自分の感情をいぶかしく感じた。

「……なんだろう……」

 シャルの思い出の中にいる、リズという少女。なぜかしように、彼女がうらやましかった。

 ──なんにしても。しよせんわたしは、シャルの使えき者だもの。シャルがいつしよにいるのは、わたしが、彼の羽を握っているからだもの。だから約束通り、ルイストンにとうちやくしたら、彼を解放してあげなくちゃ。

 そう思うと、胸に冷たい風がいた気がした。その風が、かすかにささやいた。さびしいな、と。

 アンはその囁きを聞かないように、風をふりきり作業に戻った。



 銀砂糖に、冷水を加えて練る。銀砂糖はやわらかいねんのようになる。

 それに色粉を混ぜて色を作る。それをいくも、色をえてり返す。

 色のついた銀砂糖を形作り、へらでけずる。棒でのばして、くるりと丸める。

 様々な技法で、さらさらの銀砂糖から砂糖を作り続けた。

 砂糖りんは水を替えて、める作業に入っていた。

 アンは荷台のとびらを開けっ放しにして、時々荷台から飛び降りては、なべをかき混ぜて灰汁あくやごみをとった。そしてまた荷台に帰っては、作品を作る。

 ジョナスはときどき、アンの荷台に顔をのぞかせた。しかし声をかけることもなく、アンの作業の様子を確かめると、だまって行ってしまう。

 アンも気まずかったから、あえて声などかけなかった。

 ときおりおおかみとおえが聞こえた。

 だが、宿しゆくさいの中にいる安心感から、さほど気にならなかった。

 砂糖林檎は煮えくずれ、平たい石のうつわに移された。それを均一にのばす。

 この二日。アンは、ほとんど休みなく作業を続けていた。食事も鍋をかき回しながらだし、ねむるのも、二、三時間横になっただけだった。

 そのおかげで、作品はみるみる形になっていった。

 エマが作っていたように、すんぶんたがわず、おく辿たどりながらせいな細工をほどこす。

 グラデーションで変化する、花びらの色。ちようの羽に、かしりでつけられた学模様。柔らかな曲線をえがく、葉の造形。ひとかかえもある大きな砂糖菓子の作品だ。この大きさで、全体のバランスをはかるのはむずかしい。しかしアンはそれも、見事にこなした。

 作品に取りかかって三日目の朝。砂糖菓子は完成した。

 いいできばえだ。作品としては、かんぺきだという自負がある。

 だが、アンはみようかんをぬぐえないでいた。

 エマの作っていたものと、寸分違わないはずなのに。エマが作ったもののように、一目見て、はっと心を引き寄せられるような磁力が、作品にない気がした。

 さるまね。

 幾度も、その言葉が頭をよぎる。

 けれど技術は完璧だ。だいじようだと、自分に言い聞かせる。

 できあがった砂糖菓子が転げ落ちてこわれないように、砂糖菓子の足もとにひもをかけた。そして作業台に固定する。これで馬車がれても、転げ落ちて壊れることはない。

 それを終えると、ほっとした。

 連日の作業でふらふらになったアンは、よろけるように荷台を降りた。

つかれた」

 草の上に横になり、空を見あげていたシャルのわきに、アンはぺたりと座り込んだ。

「終わったのか?」

 興味なさそうに、シャルがく。

 アンはうなずいて、そのまま草の上にせた。

 秋のれた色になった草葉を間近に見ながら、日にちを数える。

「品評会まで、今日を入れて、あと二日あるね。今かわかしている精製ちゆうの銀砂糖を、午後からうすでひいて。銀砂糖にして。それで明日出発すれば、品評会前日にルイストンに到着できる。作品とたる三つ分の銀砂糖もそろえられる。よかった」

 自然と、みがこぼれた。風が吹き、さやさやと草葉が鳴る。

「不思議だった」

 静かに、シャルが口を開いた。

「なにが?」

「妖精市場ではじめて、おまえに会ったとき。銀砂糖の甘いかおりがした。それがどうしてなのか、不思議だった」

「そう? ドレスにみついちゃってるのかな」

 くんくんと鼻を鳴らして、そでぐちをかぐ。シャルは首をふった。

「指だ。おまえの指は、甘い香りがする」

におわないよ」

「俺には、わかる」

「そっか……わたし、銀砂糖ばかりあつかってるものね。これしか知らないから」

 おだやかな気持ちで、しばらくぼんやりとしていた。目の前の下草の上に、シャルの羽が流れている。の光を反射して、うすみどりいろに輝いている。その輝きを見つめていた。

 すると草をむ足音が、アンの頭の方から近づいてきた。

「アン。やったね。荷台の中を覗いて見たよ。すごくらしい。あんな大きくてせんさいな砂糖菓子、見たことない。王家くんしようちがいなしだ」

 ジョナスのやさしい声が、降ってきた。

 アンは疲れ切っていたから、顔をあげることもなく、ただ礼を言った。

「ありがとう。ジョナスが、砂糖林檎のことを知っててくれたおかげよ」

「こっちこそ、ありがとうだよ」

 ジョナスはわずかに笑って、アンの馬車の方へ歩いていった。

 ──なにが、ありがとうなんだろう。

 アンは不思議に思い、顔をあげる。

 するとジョナスが、自分の馬を、アンの箱形馬車に取りつけているのが目に入った。

「なにしてるの? ジョナス」

「出発しようと思って」

 シャルがまゆをひそめ、身を起こす。

「気が早いよ、ジョナス。銀砂糖はまだ完成してない。出発は明日よ。それにその馬、わたしの馬じゃない」

「いいんだよ。僕の馬のほうが、速く走るから。これで」

「ジョナス?」

 ジョナスは無表情で、自分の馬を取りつけ終わると、アンの馬車のぎよしやだいに乗った。

 彼の様子がおかしいと、ようやくアンは気がついた。

 立ちあがり、彼に向かって歩き出す。

「ジョナス? なんなの」

「君が僕を好きになって、けつこんしてくれれば。こんなことしなくてすんだのにな。でも、悪いのは君だ。僕は君に、三度目の告白もしてあげたのに。君がきよしたんだから」

 そのしゆんかん

 閉じられていた宿砦のてつが、勢いよく開いた。

 飛びこんできたのは、キャシーだった。彼女は必死の形相だ。血のしたたる肉のかたまりを持っている。大きく何度もちようやくしながら、全速力でこちらに向かってくる。

 キャシーの背後からは、複数のけものの足音が聞こえた。

 シャルが飛び起き、まなじりをつりあげる。

「なんのつもりだ!」

 さけぶなり彼は右手を広げ、そこにけんを出現させる。彼の剣が出現するのと同時に、力強い息づかいが宿砦の中に飛びこんできた。狼の群れだった。三十頭はいる。

 とつじよ出現した狼の群れに、アンはこうちよくした。

 キャシーはアンの目前にせまると、悲鳴のような声で叫んだ。

「だから、いい気になるなと言ったのよ!」

 そして手にした肉の塊を、アンのむなもとめがけてぶつけた。

 その瞬間、キャシーはさらに大きく跳躍した。そしてアンの馬車の荷台に飛び乗った。

 狼の群れが肉の塊を追うように、一気にアンに向かって飛びかかった。

 悲鳴すら出せないアンと、狼の間に、シャルが飛びこんだ。

 剣の一ふりで、飛びかかってきた三頭をり捨てる。

 狼たちはぱっと散開すると、うなりながらアンを取り囲む。

「シャル。なに……、これ……」

「おびき寄せたんだ。あいつらが」

 ──あいつらって、ジョナスとキャシー? なんで、彼らが……。

 ジョナスが馬にむちを入れた。その音で、停止していたアンの思考が動く。そして気がつく。

 ──ジョナスは、わたしの作った砂糖うばう気だ!

 狼に囲まれていることも忘れた。思わずけだす。

「ジョナス!!」

 アンは走り出した馬車を追い、御者台に飛びつこうとした。

 御者台の上で、ジョナスは胸のポケットから大きなびんを取り出す。コルクのふたを指でねとばし、瓶の中身を彼女の頭に向かってぶちまけた。

 なまぐさい、どろりとした赤黒い液体が浴びせられた。

 アンはかまわず、しゃにむにジョナスのうわすそつかむ。

 おおかみが、アンに浴びせられた液体に反応した。シャルを囲んでいた狼が、再びアンに飛びかかろうとする。シャルは舌打ちして、アンに飛びかかる狼を斬る。

 しかし狼はきようらんしたように、目を血走らせて何度もいどんでくる。

「待って!!」

「バイバイ。アン」

 ジョナスの上衣の裾を摑んだ手をめがけて、鞭がふりおろされた。

 バシリと熱い痛みが手のこうに食い込み、摑んでいた上衣の裾から手がはなれた。

 手が離れた勢いで、走る馬車にふりきられるように、草の上に転げた。転んだアンめがけて、狼たちがわっと飛びかかる。シャルが、割ってはいる。

 おそい来る狼を斬り伏せる背中に向かって、アンは叫んだ。

「シャル! ジョナスを追って! 行って! 早く!」

「ここを離れたら、おまえは狼のえさだ!」

「いいわよ。かまわない! 行って! 取りもどして! 砂糖菓子!!」

「断る」

 シャルは血しぶきを浴びながら、片時も動きを止めることなく狼たちを斬る。

 彼の動きにあわせて流れる羽に、狼が飛びかかろうとする。獣は、ようせいの弱点を心得ている。

 きばが羽にかかる寸前、シャルは身をよじってかわし、剣をふるった。

「取り戻して、取り戻して! 追ってよ!! お願い、お願いよ、言うことをきいて!」

「ならば命じろ! 使えき者らしく!!」

 羽を引きく。羽をつぶす。そんなむごい言葉は、どうがんばってもアンの口から出ない。

「お願いよ、追って!」

 アンは、声を張りあげるしかなかった。

「シャル! 追って、追って!! お願い、追って!! お願い!! お願い!!」

 アンの砂糖菓子をせた馬車は、走り去った。


    ◆ ◇ ◆


 斬りすてた狼の死体を足もとに見つめ、シャル・フェン・シャルは立ちつくす。

 さすがに息があがっていた。羽に血しぶきが飛んでいる。

 ぶるりと羽をふるい、血をはらう。

 狼たちはしつように羽をねらってきた。ひやりとする時が、何度もあった。

 アンはぼうぜんと、血の香りの中に座りこんでいた。

 自分の羽とアンが無事だったことに、シャルはあんした。

 剣をふってしようめつさせると、アンに近づいた。

「……なんで、追ってくれなかったの」

 馬車が走り去った門の向こうを見ながら、アンがうつろな表情で口を開いた。

「ジョナスを追っていたら、おまえは狼にい殺されていた」

「わかってる!」

 突如アンは立ちあがると、シャルに歩み寄った。

「わかってる! でもそれは、シャルの判断。わたしの判断じゃない! わたしは喰い殺されてもいいから、砂糖菓子をわたしたくなかった。シャルはわたしの命令なんか、ぜんぜん聞いてくれない。旅に出てから、ずっとそうだった。結局シャルは、自分の判断で動いていた。そうでしょう!? ただわたしが羽をにぎっているから、そばから離れなかっただけ。さっきだって、シャルが砂糖菓子を追ってたら、わたしは狼に喰い殺されてたかもしれない。そうしたらシャルの羽も、傷つくかもしれないものね。だからシャルは、砂糖菓子よりわたしを守った。それだけよね。わかってるわ。わたしは、あなたを使役できない! だから、こんなことになっちゃったのよ!」

 そう叫ぶと、思い切りシャルの胸を両手のこぶしで打った。

 何度も何度も、彼女は打ってきた。つかれて手の力がけるまで、打ち続けた。

 アンの言っていることは、めちゃくちゃだった。しかし彼女自身、それは理解しているはずだ。それなのに、言わずにはおれないのだろう。だからシャルは、させるがままにしていた。

 ようやく、アンの両手がさがる。うつむいたまま、ふらふらと残された馬車の荷台の中へ入っていった。

 ──確かに。俺はあいつの命令を聞いたことは、一度もない。

 シャルがこの旅の間にいくかアンの危機を救ったのは、彼女が自分の羽を握っているからにほかならなかった。彼女が傷つけば、羽も傷つく。だから結果的に、彼女を守ったに過ぎない。

 ただ、あの時。狼がアンに飛びかかった瞬間。

 自分の羽が傷つくかもしれないということは、思いかばなかった。

 呆然としているアンをとにかく守ろうとして、とつに体が動いていた。

 ぽつりと、冷たいものがほおに落ちた。

 見あげると暗く暮れ始めた空から、雨のつぶが落ちていた。だれかのなみだのように。

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