四章 医者宿の夜
門扉を閉めようとしていたのは、中年の男だった。ひょろりとしていて、
「待って、待ってください! お願い!」
門前まで来るとアンは馬車を止め、
焦ってはいたが、ちゃんと頭を下げることは忘れなかった。
「こんなに暗くなってから、ごめんなさい。ここに住んでいらっしゃる、お医者様ですか?」
「そうだよ」
「わたしたち、今夜この先の
医者宿と呼ばれていても、結局、医者個人の家だ。医者がいやだと言えば、旅人は泊まることが出来ない。
できるだけちゃんと、相手に自分たちのことを理解してもらえるように努めた。
医者は、
「確かに。荒野カラスに襲撃されたようだね。馬車の
「彼がいてくれたので。戦士妖精なんです」
アンは、御者台に座るシャルをふり返った。
医者もつられてシャルの方を見て、ほうっと声をあげた。
「綺麗な妖精だ。これほどの妖精、なかなかお目にかかれないねぇ。これ戦士妖精?
医者はふらふらっと御者台に歩み寄ると、シャルを見あげた。しばらくシャルに見とれているようにぽうっとして、動かなくなる。
辺りがすっかり暗くなっていたし、
アンはしびれを切らしそうになったが、ぐっとこらえていた。しかし。
「妖精が
シャルが、うんざりしたように言ってしまった。
アンは
──ひゃぁぁあ──!! シャルぅぅ──! なんてことをっっ──!!
どっと冷や
確かに。この医者の髪の毛も髭も、この上なく、もじゃもじゃだ。正しく、もじゃもじゃだ。
しかし
医者は夢から覚めたように、目をしばたたいた。そして照れたように笑うと、アンに向きなおった。
「や、失礼失礼。こんな場所に住んでいると、綺麗なものは珍しくてね。それにしても、大変な目にあったようだ。どうぞ、泊まっていきなさい。お代は一人、六十バイン。それでよければ、二台とも馬車を塀の中にいれていいよ」
「あ、ありがとうございます!」
アンは冷や汗を
塀の中に馬車を入れると、そこにはすでにもう一台、先客の馬車が入れられていた。
先客の馬車は、
その馬車と自分の馬車を並べたジョナスは、アンの
「見てよ、アン。この馬車、格式が高いよね。先客は身分のある人なのかな? そうだったら、
「お
家の戸口に向かいながら、アンは、となりを歩くシャルを厳しい顔で見あげた。
「シャル。さっきは、心臓が止まるかと思ったわよ。もじゃもじゃなんて言って」
するとぴょんぴょんと、アンについて来ていたミスリルが、非難の声をあげる。
「そうだそうだ。あいつは、『もじゃもじゃ』よりも、『ひょろひょろ』と呼ぶべきだ!」
「そうよそうよ。『もじゃもじゃ』より『ひょろひょろ』!……って、ちが──う!!」
アンは二人の
「『もじゃもじゃ』も『ひょろひょろ』も、良くないってばっ! 怒らせたら、どうするの。たたき出されるわよ!」
するとシャルが、平然と言う。
「あんなことで、怒るような人間じゃない。見ればわかる。妖精市場で、散々いろんな人間に悪態をついたから、自信がある」
「そんな変な自信、いらないから! とにかくお願い。悪態つくのはやめて」
「長年の
きっぱり言われると、もう仕方ないとアンは
シャルが何かを言ってだれかを怒らせたら、アンが全力で頭をさげて、謝るしかなさそうだ。
扉を開き、家の中に
扉を入ると、しきりのない広い部屋になっていた。
一方の
先客の姿は見えなかった。割り当てられた部屋で、休んでいるのかもしれない。
医者はアンたちを、奥にある扉に導いた。
扉の向こうは、扉と垂直になった
廊下の左右には扉が三つずつ並んでいて、それらが客室に当てられている部屋らしい。
アンとジョナスは、一部屋ずつを割り当てられた。
アンの割り当てられた部屋には、ベッドが二つ。小さな窓に、清潔なカーテンがかけられていた。簡素ではあったが、
「荷物を置いて少し休んだら、食堂においで。簡単なスープなら、出してあげられるから」
医者はそう告げると、食堂へ帰って行った。
もとより、置くほどの荷物も持ち合わせていない。それよりもアンのお
アンたちはいくらもしないうちに、のこのこと食堂に顔を出した。
食堂では、医者がテーブルの一つに
医者がスープを準備しているのとは別のテーブルに、二人の青年が座っている。
ジョナスが、アンに
「あれが、先客だよね。それほど、たいした身なりじゃないけど」
二人の青年は向かい合わせで、カード遊びをしている。
一人は背の高い、がっちりとした
もう一人は、変わった
お
「おや、来たね。こちらにおいでよ、スープが準備できた」
医者がアンたちに気がつき、声をかけた。
その声に二人の青年が、アンたちが顔を
「こちらに座りなさい。味はどうか知らないが、量はあるよ。たくさん食べていいから」
「ありがとうございます」
アンは
医者が大鍋を置いたテーブルに、アンとジョナスが座った。そこでアンは、シャルとミスリル、それにキャシーが、テーブルから
「どうしたの、三人とも。はやく座らないと」
アンが呼び止めた。すると、医者と先客の青年たちが、
「え? なに」
その視線にたじろいだアンに、ジョナスが囁く。
「アン。妖精と食事を
「わたしは、するけど」
「普通は、しないんだよ! ここは医者宿とはいえ、宿屋だろう?
その言葉に、自分がいわゆる『常識』から外れたことをしたのだと理解した。
しかし同時に、腹が立ってきた。そこまで妖精たちを
「そんな常識なら、知らなくていい。わたしは知らない。だから、シャルたちと食事したい」
アンは医者の顔を見た。
「わたしたち、旅の間一緒に食事してきました。一緒に食事したいんです。もし
「そうだねぇ。わたしは気にしないほうなんだが、ほら、君。今は別のお客も……」
歯切れの悪い医者の声をかき消すように、
「かまわないさ!! 俺も気にしないぜ!」
それは先客の一人、茶の
「よお。お
「アンです。アン・ハルフォード」
「俺は、ヒューだ。
「ありがとう」
どうしたものかと
アンたちがスープを食べ始めると、ヒューと名乗った青年は、遊んでいたカードを手元にまとめてしまった。そしてとなりのテーブルから身を乗り出して、アンに話しかけてきた。
「おまえら、どこから来たんだ。こんな
「彼、ジョナスはノックスベリー村。わたしは、生まれてから定住したことがないから、どこから来たとは言えないけど。わたしたち、ルイストンへ行くの」
そこでジョナスが、ちょっと
「僕たちはルイストンで
「へぇ! おまえたち、砂糖菓子職人か。けど、普通の砂糖菓子職人にしては、
ヒューはにやにやしながら、立ちあがった。シャルの
「ふぅ~ん。こりゃ、高かったろう。こいつは、
シャルはスープの皿に手を
「シャルは、わたしが買ったの。でも愛玩妖精じゃないわ。戦士妖精よ。護衛なの」
「戦士妖精?
からかわれていると、わかっていた。だが恥ずかしさに、かっとなった。
「そんなんじゃないわ」
「照れない照れない。そんな噓つかなくても、わかってるって」
「噓じゃない!」
思わず声が高くなる。ヒューは
「じゃ、証明してみるか?」
ヒューは連れの青年を、ちらりと見やった。そして一歩下がる。
今まで存在が消えたように
青年は突如、傍らの剣を
「シャル!」
悲鳴をあげるアンよりはやく、シャルは立ちあがり背後に
二回目の
刃がぶつかり、
「やるな」
褐色の肌の青年が、無表情で
シャルは口もとで笑い、相手に向かって囁く。
「殺されたいのか?」
「あいにく。そこまで
きりきりと、刃が
「なるほど。確かに、戦士
ヒューは驚いたように言うと、にこりと笑った。
「もういい、サリム。剣をひけ」
命じられ、サリムと呼ばれた彼は、あっさりと剣を引いた。
シャルも
「なんてことするのよ、この、
我に返ったアンは思わず立ちあがり、ヒューの
「
まったく悪びれたところもなく、ヒューは言う。
「だからって、こんなことする!?」
「いやぁ、だから謝るって。お
「そんな
相手の胸ぐらを摑んでいた手が、思わずゆるむ。
この半年、エマの
ここの宿代を
ヒューの申し出は、とてつもなくありがたかった。
「一、二、三……と、五人分で、六十バインかける五で、三クレスか。わりとかかるな。お詫びにしては、高額だよなぁ」
「なにそれ、自分で言い出したんじゃない!?」
「そうだがな。ちょっと、俺の方が損な気がする。そうだ、おまえら砂糖菓子職人だと言ったよな。一個ずつ、砂糖菓子を作ってくれよ。それで俺が、五人分の宿代を
「はぁ!?」
「掌の大きさでいい。それくらいの砂糖菓子なら、せいぜい二つで、十バインだろう。十バインで、三クレスがちゃらになるぜ。悪くないだろう」
いいように、ヒューに
しかし宿代がかからないというのは、
アンはジョナスをふり返った。ジョナスは、
「僕に異存はないよ、アン」
なぜかジョナスは、
アンはヒューに向きなおると、むっとしながらも、言った。
「わかったわ。砂糖菓子は作る。そのかわり、絶対に宿代は支払ってよ」
「なんなら、
「いらないわよ、そんな噓くさい誓い。じゃ、待ってて。食事を済ませて、作るから」
食事が終わると、アンはジョナスと
馬車の荷台の中には、
樽は五つ。
一つはから。もう一つは、三分の二ほど銀砂糖が入っている。残り三つは、
ルイストンの砂糖菓子品評会に参加する者は、祝祭用の砂糖菓子の作品を一つ提出する。
それと同時に、三樽の銀砂糖も提出する必要がある。
細工がうまいだけでなく、上質な銀砂糖を安定して精製できる技術も問われるからだ。
砂糖
「樽三つは使えないから、三分の二樽で品評会用の作品をつくるとしても。量は、
呟きながら、樽の
石の
「なんだか、わくわくするな」
家に向かいながら嬉しそうに言うジョナスを、アンはいぶかしんだ。
「なんで? なんかあいつに、からかわれてる気がする」
「それでもさ、人前で自分の技術を
「そうかな」
「そうだよ。僕は自分の技術に自信がある。実は、ここだけの話。僕がラドクリフ
砂糖菓子職人には、大きな三つの
マーキュリー工房派。
ペイジ工房派。
そして、ラドクリフ工房派だ。
砂糖菓子職人は、どれかの派閥に所属していなければ、原料となる砂糖林檎の確保や、作った砂糖菓子を売りさばくのに、
だからたいがいの砂糖菓子職人は、どこかの派閥に所属しているものだ。
無論、各派閥は様々に
アンの母親のエマは、派閥に所属していなかった。派閥のやり方が気に入らないと言って、苦労しながら砂糖林檎を確保し、砂糖
ジョナスが誇らしげに語るのを聞くにつけ、彼には、アンとまったく
ただ。銀砂糖師になりたいという、その希望だけは同じらしい。
「じゃ、ジョナスも銀砂糖師になりたいのよね。今回の砂糖菓子品評会に、参加したら?」
「いや。僕は……去年とその前、二回参加して、まだ銀砂糖師になれてないから。今年は見送り。もう少し
銀砂糖子爵の言葉を聞いて、アンは目を丸くする。
「ジョナス。そんなものになりたいの?」
銀砂糖子爵。
それは銀砂糖師の中から一人だけ王に選ばれる、王家専属の銀砂糖師のことだ。
選ばれた銀砂糖師には、一代限りではあるが、子爵の
銀砂糖子爵の命令には、各砂糖菓子
銀砂糖子爵は、砂糖菓子職人の頂点だ。
「なりたいよ。というか、僕は絶対に銀砂糖子爵になるよ。だって
ふと、ジョナスが歩みを止めた。つられて、アンも立ち止まる。
「僕と
月が、雲間から顔を出した。ジョナスの顔がはっきり見える。
嬉しい言葉のはずだった。しかし目の前の彼と幸せな生活をすると考えても、どうもぴんと来なかった。
整ったジョナスの顔を見て、言葉を聞いても、心はざわめかない。
──ジョナスよりも……。
「ごめん。ジョナス。とにかく今は、その話はよそう」
急いで家の中にはいると、ヒューがテーブルに座って待っていた。彼の対面には、
妖精たちやサリム、医者は、観客のようにその周囲に集まっている。
「さ、二人とも。椅子に座ってくれ。俺の目の前で、作ってみせてくれ」
テーブルの上には水を入れた容器が、深いものと浅いもの、二つずつ。台所から調達してきたらしい、まな板が二枚。
「色をつける必要はない。作る形も、二人に任せる」
「その前に、
アンはヒューの顔を真正面から見つめた。
「なんだ」
「あなた、何者? この道具のそろえかた、砂糖菓子を作る工程を知っていなきゃ、できないでしょう。あなたも、もしかして砂糖菓子職人? 砂糖菓子品評会に参加するの?」
にやりと、ヒューは口もとを
「宿代
「……ま、いいわ。宿代払ってくれるなら」
テーブルに置かれていた水を、銀砂糖を入れた石の器に注いだ。
ジョナスも、同様に始めた。
銀砂糖に冷水を加え、練る。すると銀砂糖は
粘土のようになったものを、まな板に移し練る。
形を作る道具類が準備されていないので、指先のみで作るしかない。
銀砂糖は熱に
テーブルに用意された冷水で、指を冷やす。
砂糖菓子職人の手の動きは、手品師の手つきに似ているといわれる。
──なにを作ろうか。
アンは銀砂糖を練りながら、思いを
──ママだったら、なにを作るかな。
エマならばおそらく、白い色を生かして、白いものを作る。
エマは植物が好きだったから、白い花を作ろう。
そう決めて、エマがしばしば作っていた花の形を心に思い浮かべる。
花びらの形を指先からひねり出し、いくつも作る。それらを重ねて、花を作っていく。
ジョナスは、
ヒューは、
キャシーが、ジョナスの指先で作られるものを見て、
「ジョナス様の作るものって、本当に、すてき……」
時間は、たいしてかからなかった。
二人が手を止め、顔をあげたのは同時だった。
「できたか? 二人とも」
ヒューが訊くと、ジョナスは自信たっぷりに
「できたよ」
「わたしもできた」
アンも、作ったものをまな板の上に置いた。
二人の作品が載ったまな板を、ヒューは自分の前に引き寄せた。
「二人とも、かなり腕がいい。
アンとジョナス、二人は顔を見合わせて
しかし。次の
「あっ!」
「なにするんだ!」
アンとジョナスが声をあげた。
ヒューは厳しい表情で、二人を見すえる。
「見苦しいから
アンはどこか、図星を指されたような気がした。自分でも意識せずに感じている、自分の砂糖菓子に対する、引け目のようなものを的確に言い当てられた。
ジョナスも同様なのだろう。表情が
「ま、この砂糖菓子のかけらは、もらっとく。明日の、俺のおやつだ」
ヒューは手近な
「さぁて、
サリムを
医者は、
動けないジョナスに、キャシーが駆け寄ってきた。そして金切り声で
「なにがしたかったのよ、あの男は!?」
さらにテーブルに飛びあがると、ジョナスの手を
「ジョナス様。お気になさることありません。あんなおかしな、得体の知れない男の言うことなんか、真に受けちゃだめですよ」
「そう、かな?」
ジョナスは
「ごめん、アン。僕、……部屋に帰るよ」
アンは、ぱっと顔をあげた。
「わたしも……帰るから!」
叫ぶなり、アンは自分の部屋に向かって駆けだした。
◆ ◇ ◆
「おまえ、シャル・フェン・シャル! 部屋に帰る気かよ!?」
アンが駆け去ったのを見送ると、シャルは
ふり返り、
「帰る」
「やめとけって」
「帰ってなにが悪い」
「あんなこと言われて、アンはめちゃくちゃ傷ついて、泣いてるかもしれないぞ? へたしたら、暴れてるかも!? そんなところにのこのこ顔見せたら、
「別に、かまわない」
「お、俺はいやだ。俺は今夜、この食堂で寝るぞ」
「好きにしろ」
部屋に帰りながら、シャルは、ヒューの評価は正しいと感じていた。
アンのつくったものを見て、シャルも同じように感じたからだ。
そしておそらく、アン自身も。だから傷ついたのだろう。
アンはベッドにもぐりこんで、毛布を頭から
シャルはアンのとなりのベッドに
まるで、
──リズ。
その様子を見つめていると、ふと、思い出す。
──リズも、小さな
改めて、目の前の蓑虫を見る。
──こいつは、十五歳!?
アンは十五歳になっても、まだこんな幼さを残している。それが残っているのは、彼女の今までの十五年が、母親に守られて幸せだったからだろう。
そう思うと、暖かい
大人だ成人だと
「なにがおかしいの!? 人が落ちこんでるのが、そんなに面白い!?」
その目は真っ赤で、
涙を
まずいと思ったが、ぷっと
「なによ! 人の顔見て、笑うわけ!? どうせ、わたしみたいなかかしは、みっともないだけよ。わたしが悲しみにくれて泣いていたって、その顔が面白いって。シャルみたいな綺麗な顔した人たちに、一生、あざ笑われるんだわ!」
アンは叫んで、がばっと、顔を
傷ついて大混乱しているらしいアンには申し訳なかったが、シャルの気分は、なぜかとても
忘れていたなにかを、思い出せそうだった。
シャルは立ちあがると、アンが
──そうだった。初めて会った頃のリズは、こんな
無意識に、シーツの上に広がったアンの髪を
「一生、笑われることはない。人間は、俺たちと
アンは
「砂糖菓子作りは、もっと腕を
「噓じゃない。知ってる」
シャルは掌に
「俺が生まれたとき。最初に目にしたのは、人間の子供だった。五歳の女の子だ。こんな髪の色をしていた。俺はその女の子の視線があったから、生まれたらしかった」
遠い昔の思い出。なぜか、口に出してみたくなった。それによって、なくしたものが
シャルが語り始めたことに、アンは驚いたような顔をしていた。
「女の子はエリザベス……リズという名だった。貴族の
アンは枕から顔をあげると、ベッドの上に座りなおした。
シャルの手にあった髪の房が、その手を離れた。
からになった掌を、シャルは軽く
「それから、ずっと
「それで?」
問われて、シャルは顔をあげた。
「それで、リズは。ずっとシャルと一緒にいたの? 今はどうしていないの?」
目を
問われると、まだ、胸が痛む。もう百年も前のことなのに。
「死んだ……殺された。殺したのは、人間だ」
その言葉に、アンはうつむいた。
しばらくすると、シャルの拳にアンの手がそっと
「ごめん……」
アンが何に対して謝ったのかは、わからなかった。
それとも、同じ人間として、リズを殺してしまったという事実への謝罪か。
ただ、彼女の心の温かさだけはわかった。
シャルは軽く頭をふると、立ちあがった。拳から、アンの手がするりと離れた。
余計なお
「もう
背中
◆ ◇ ◆
翌朝アンが目覚めると、ヒューはすでに出発していた。夜明け前に出ていったらしい。しかし宿代は、ちゃんと彼が
いったいヒューは、どんな
しかしその疑問を、あまり深く考えることもしなかった。
さらにヒューに言われた言葉の
それよりも。シャルが口にした彼の過去の
医者宿を出発し、その後三日間は、
その間、となりに座るシャルの顔ばかり、ちらちら見ていた。
シャルは、人間と友達にはなれないと言った。
けれどシャルは生まれたときは、人間の女の子と心を通わせていたのだ。
十五年も、一緒にいたと言った。アンが母親と過ごしたのと、同じだけの長い時間だ。
シャルにとって、その女の子リズは、家族と同様だったかもしれない。それを、人間の手によって
もともと人間と心を通わせていたシャルの心を
──シャルの心を
馬車を走らせながら、そんなことばかり考え、そして常にシャルの横顔を気にしていた。
ブラディ
道程は、三分の二消化した。
鉄の扉をおろして、三分の二の道のりが過ぎたことにほっとした。
あと三日走れば、ブラディ街道を
宿砦にはいると、早々に夕食をすませた。
アンは
道々ジョナスは、食べ物をアンに分けてくれようとした。だがアンは、それらをすべて断った。旅で、贅沢に慣れてしまうのは危険だ。何があるかわからない旅だから、食料はなるべくとっておいて、そして質素な食事に慣れることが
ジョナスはキャシーを連れて、すぐに荷台の中に引きあげた。
ミスリルは「恩返しさせろ」と、さすがに喚かなくなっていた。しかし当たり前のような顔をして、昼間は
ミスリルが満足するような恩返しを、アンはまだ思いつかない。思いつかない限り、彼はずっとひっついてくるだろう。ミスリルのキンキン声には、もう慣れた。慣れてみると、ミスリルの尊大さも
アンはシャルとともに火を囲んで座り、
シャルは林檎を
それが
「なんか今夜は冷えるね。秋も終わりに近づくと、さすがに寒い。シャル、寒くない?」
「俺たちは人間のように、寒さを感じない」
「へぇ、便利ね」
答えた途端に、くしゃみが出た。やはり冷える。
シャルが、ジョナスの眠る荷台をちらりと見て
「おまえは、荷台の中で寝ないのか。あの男みたいに、暖かい場所で眠ればいい」
アンは毛布を御者台の下から引っ張り出して運びながら、首をふった。
「ジョナスの荷台はなんのためにあるのか知らないけど、わたしの荷台は砂糖菓子を作るための作業場よ。神聖な場所なの。そんな場所に、眠れないわ。わたしもママも、荷台の中で眠ったことなんか一度もないの。冬は、わざわざ宿に
「いい職人だったらしい。おまえの母親は」
言われると、エマの顔を思い出した。とてつもなく、
「うん。とってもね」
その夜は、なかなか寝つけなかった。
──寂しいな。
心の中に、あぶくのようなそんな気持ちが、ゆっくりと
──シャルも、こんな気持ちなの?
何度か寝返りを打ち、横になっているシャルの方へ視線を向ける。
五、六歩の
──寝てる? それとも目を閉じて、何か考えてる? 話がしたい。
手を
身を起こして、手を伸ばしかける。しかしためらいが強く、その手は止まる。
──寝込みに羽に
残った一枚の大切な羽を人間に触られるなど、シャルは
──シャルの心を溶かす魔法……。
そのときふと、砂糖菓子のことを思い出した。
作ってあげると約束しておきながら、ミスリルの出現で、すっかり忘れていた。
寝られそうもないので、アンは起きあがった。
──約束の砂糖菓子を作ろう。
甘い砂糖菓子が、少しでも、シャルの心を温かくしてくれればいい。
荷台後方の
満月から少しだけ欠けた月の光が、窓から
ここにエマがいた。エマの手が触れたものたちが、
頭をふり、銀砂糖が入っている
「ヒューに砂糖
「あれ?」
蓋を開けた樽の中には、確か、半分以上銀砂糖が残っていたと思っていた。
しかし樽の中は、からだった。からの樽と
そう思って、からと思いこんでいた樽の蓋を開ける。すると、その樽もからっぽだった。
「なん、で」
アンは
次々と残りの樽を開ける。残りの三つには、ちゃんと銀砂糖が
五つの樽のうち、二つが、からだ。
砂糖菓子品評会の作品をつくる材料だけが、そっくり、なくなっている。
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