三章 襲撃

 ぎよしやだいに座るアンのとなりには、シャルの眠そうな顔がある。そしてアンとシャルのすきにわりこむようにして、丸まって眠っているのはミスリル・リッド・ポッド。

 日の出とともに、アンのあやつる箱形馬車は、宿しゆくさいを出た。

 昨夜ゆうべ一晩、ミスリルは喚き続けた。当然、アンもシャルもほとんど眠れなかった。

 喚くミスリルをなだめながら、アンは出発した。

 ミスリルはちゃっかり、御者台に乗っかった。そくのアンとシャルが無言でいると、ミスリルはてつつかれもあったのか、馬車にられる心地ここちよさにぐうぐう眠りだしたのだ。

 気持ちよさそうなミスリルを見おろして、シャルがにくにくしげに言う。

「眠っている間に、投げ捨てるか?」

「それはあんまりだから、やめてあげて。それに投げ捨てても帰ってくるよ、多分。ごくの底までついて来るって言ってたから。彼がなつとくする恩返しをするまで、わたしたち眠らせてもらえないのかもね~。それは困るけど……それを言うと、ジョナスにも困ったわよね……」

 背後からは、ジョナスの箱形馬車も当然のような顔をしてついて来る。

 しばらく馬車に揺られると、アンは太陽の位置を確かめた。

 そろそろ、昼ご飯をねたきゆうけいを取る時間だった。アンは道のわきに連なる林の中に、んだ小川が流れているのに目をとめた。林が開けた所を見つけると、そこに馬車を乗り入れた。

 ジョナスも、静かに馬車を止める。

 アンは荷台の脇につけたたるに水を補給するため、バケツでせっせと小川の水をくみはじめた。

 ジョナスはその様子をしばらくながめていたが、自分も、水の補給をする必要に気がついたらしい。バケツを手にして、小川にやってきた。

 水をくもうと小川にかがみ込んだアンの隣に、ジョナスも同様にかがみこむ。

 気配に気がついて、アンはジョナスに顔を向けた。

 ジョナスはいつにないしんけんな表情で、アンを見つめ返した。そして、ぽつりと言う。

「アン。わかってくれるかい? 僕は君のことが心配だった。それだけなんだ」

 ジョナスは小川に手を入れると、バケツをにぎるアンの手にれた。

 アンはびっくりして、バケツを小川から引きあげてしまった。そんなふうにされても、どう対処していいか困ってしまうばかりだ。けれど彼は彼なりに、やさしく心をつくしてくれている。

「アン」

 呼ばれると、軽いため息がアンの口かられた。

 ジョナスは、いい人なのだ。てつぽうな行動も、アンのためなのだ。

「ブラディかいどうに入ってから、もうすぐ三百キャロンになる。もう四分の一のところまで、来てしまってる。一人で引き返すほうが、危ない。それだったら、いつしよにルイストンまで行った方が安全だから。一緒に行こう」

 するとジョナスは、ぱっとがおになった。

「わかってくれたの!?」

「そのかわり、本当に危険なのよ。それは理解してね」

「でもアンは、戦士妖精を使えきしてるじゃないか。危険はないと思うけど」

「戦士妖精だって、ばんのうじゃないはずだもの。シャルにたよりすぎて、油断しないで」

「それは、わかってる」

 そう言うジョナスの表情からは、いまひとつきんちようかんが感じられなかった。

 ジョナスはおそらく、ノックスベリー村から外へ出たことは、ほとんどない。たまにレジントンへ、買い出しや祭り見物に行くのがせいぜいだったろう。その彼が旅に対して無知なのも、仕方ないかもしれない。

 しかし昨日、盗賊におそわれたばかりだ。もう少し引きまった表情をしてほしかった。

 シャルは昨日あまりにもあっさり、盗賊を追いはらった。そのことで「戦士妖精がいれば、たいしたことはない」というような安易な考えを、ジョナスに植えつけたかもしれない。

 水をくみ終わると昼食をとり、アンたちは出発した。

 そして予定通り、三日目の宿しゆくはく地と決めていた宿砦にとうちやくできた。

 その日の夕食。アンは、ジョナスも一緒に食べるようにさそった。

 いつものように、小さなたき火をいた。

 たき火の脇にかわしきものを広げ、シャルとジョナスとキャシーを呼んだ。

 ミスリルは、呼ばなくとも勝手にやってきた。そして観察するように、彼らの周りをうろうろと歩き回る。

「ジョナスとキャシーに、しようかいしとくわ。彼は、シャル・フェン・シャル。戦士妖精よ。護衛をしてもらうために、わたしがレジントンで買ったの。シャルって呼んでる」

「名前は? つけてないの?」

「今言ったのが、彼の名前よ」

 妖精を紹介されて、ジョナスはこんわくした表情だった。妖精は道具と同様。紹介などされないのがつうだ。しかも使役者が名前をつけないという主義も、今ひとつ理解できない様子だった。

 キャシーはものめずらしそうにシャルを見ていたが、シャルはキャシーなど目に入らないかのように視線をそらしている。

 ジョナスは改めて、シャルをしげしげと眺めた。

「おまえ、戦士妖精にしておくには、もったいないほどれいだね。あいがん妖精でも売れそうだ」

 するとシャルが、冷ややかにこたえた。

「気にいったなら、かかしから俺を買い取るか? けぐあいでいけば、どっちもどっちだから、俺はどちらに使役されても、かまわない」

「シャル!」

 あわてて彼の口をふさごうとするが、口から飛び出した言葉は、もはや回収不可能。

「ま、間抜けって……」

 ようせいから、間抜け呼ばわりされた経験などないはずだ。ジョナスはおこるよりも、ぜんとしていた。

 アンは自分が悪いことを言ったような気分になり、弁解する。

「ご、ごめんジョナス! シャルは口が悪くて、愛玩妖精として売れなかったらしいの。戦士妖精としても、口の悪さが原因で、安値でたたき売られてたし。間抜けだ鹿だって、わたしも散々言われてるから、気にしないで! シャルも、わたし以外の人にそんなこと言わないで。ほかの人は、めんえきないんだから!」

「うん。まあ……アンは悪くないんだから、いいよ。それより、そっちの妖精は?」

 気をとりなおすように、ジョナスがミスリルに視線を向ける。

 ミスリルは出番とばかりに、ずいと輪の中心に出てきた。

「俺か? 俺の名前はミスリル・リッド・ポッド様だっ!! 様をつけて呼んでくれ」

「え、さ、様づけ??」

 意味がわからないというように、ジョナスは目をぱちくりさせた。

「シャルもミスリル・リッド・ポッドも、そろいもそろって、なんでそんな態度なの!? ねぇ、ミスリル・リッド・ポッド。『様』づけしろなんて、どうかと思うわよ。あきらかに、感じが良くないもの」

 たしなめたアンの言葉に、ミスリルはしょんぼりした様子でうなだれた。そしてふらふらと、アンの馬車の方へ歩いていく。

 ジョナスは当然のように、キャシーを紹介しなかった。

 アンの夕食は、水。そしてかんそう肉をうすく切って黒パンにはさんだ、サンドイッチ。それをシャルにもあげた。

 ちらりとミスリルを見ると、彼はわざとらしくひざかかえて、荷台の屋根の上に座って、指先でのの字を書いている。

 ミスリルはやたらうるさいから、昨夜からひどくめいわくに感じていた。

 しかしよく考えれば、恩返しをしようとする心構えは、立派だ。恩返ししようと決めた相手がにくい人間の仲間なので、あんなみようちきりんな口上を並べたてただけだろう。

 ──しやべらなきゃ、とっても可愛いのよね。目とかも、くりくりしてて。

 アンは自分の分のサンドイッチを半分にすると、ミスリルを手招きした。

「おいでよ、ミスリル。これ、あげる」

 ぱぁっと晴れやかな笑顔になると、ミスリルはぴょんぴょんねながらやってきて、アンの手からサンドイッチをひったくった。

 そして真面目まじめな顔で、ひとこと言った。

「俺はミスリル・リッド・ポッドだ。略すな」

「そうだった。ごめんね。ミスリル・リッド・ポッド」

 ジョナスにも分けようとしたが、彼は自分の食事はあるといって、荷台から持ってきた。

 ジョナスの食事は、アンには考えられないほどごうだった。

 葡萄ぶどうしゆりんじゆう。白パンになしのジャムを挟んだもの。肉をめこんだパイを一切れ。母親が、せいいつぱいのごちそうを用意して持たせた、おぼつちゃんのピクニックみたいだった。

 それを見ると、ジョナスが旅に出ることを両親が承知しているというのも、あながちうそとは思えなかった。

 これほど食べ物を細々と取りそろえるのは、家庭の主婦にしかできない芸当だろう。彼は両親に馬車や食料、ついでに護衛まで買いあたえられ、準備を調ととのえてもらって出てきたにちがいない。

 しかしアンダー夫妻はなぜ、息子むすこぼうな行動に協力したのか。さっぱりわからない。

「こんなにごちそうがあるなら、わたしのスープなんていらないわよね」

 思わず、アンはつぶやいた。

 すると、ジョナスのコップに葡萄酒をいでいたキャシーが、くすりと笑って言った。

「当然です」

 ジョナスがキャシーをにらむ。

だまれ、キャシー。アンに向かってそんな無礼な口のきき方は、許さないよ」

 はっとキャシーが顔色を変えた。おろおろと、取りつくろうように言う。

「あ、すみません。ジョナス様。わたし、ただ」

「消えていろ」

 キャシーはうつむいた。その足先からすうっと色が抜け、とうめいになる。ついには全身が消える。ただ彼女が支え持つ葡萄酒のびんだけが、ふわふわとかんでいるように見える。

 妖精には、とくしゆな能力がある。キャシーの能力は、姿を消す能力らしい。

 ジョナスはすまなそうに言った。

「ごめんね、アン。うちの労働妖精は、しつけがなってなくて。君のスープは、美味おいしかったよ本当に。うれしかった」

 使役者として、ジョナスの態度は当然なのかもしれなかった。しかしアンは、キャシーが可哀かわいそうになった。姿が消える寸前のキャシーは、とてもかなしそうな顔をしていた。



 翌朝、再び二台の馬車は走り出した。

 ミスリルは嬉しげに、シャルとアンの間に座った。じようげんで、喋りまくる。

「アン。俺が恩返ししてやれることがあれば、えんりよなく言えよ。けど雑用なんか、言いつけるなよな。もっと立派な恩返しをさせろよ」

「立派な恩返しねぇ。考えるけれど、どうせならばミスリル・リッド・ポッドの能力を使える恩返しを考えた方がいいよね。あなたは、どんな能力があるの?」

 くとミスリルは待ってましたとばかりに、胸を反らす。

「俺の能力か? おどろくなよ。よく聞け。俺はな、ハイランド王国最北のきよだい湖レス湖の湖水! ……のすいてきが、葉っぱについて。その水滴から生まれたんだ」

「水滴から生まれたの? 妖精って、みんな水滴から生まれるの?」

 アンは首をかしげる。するとミスリルは、ちっちっと人差し指を立ててふる。

「アンは、なんにもしらないんだなぁ。妖精はいろんなものから生まれるんだ。草の実や木の実、水滴やあさつゆや、石や宝石。もののエネルギーがぎようしゆくして生まれる。ただエネルギーが凝縮するためには、生き物の視線が必要だ。妖精や人間やけものや鳥や。魚でも、虫でもいい。エネルギーは見つめられることで形になって、それが妖精になるんだ。妖精の寿じゆみようは、生まれる源になったものと、だいたい同じだ」

「で、ミスリル・リッド・ポッドは水滴から生まれて、シャルは何から生まれたの?」

 問われたシャルは、ちろりとこちらを見ただけで、返事をしなかった。

 かわりにミスリルが答えた。

「こいつは、見たところ黒曜石だ。貴石の妖精は、するどいものを作る能力があるんだ。俺は水滴から生まれたからな、水をあやつる。それが俺の能力さ」

「水を!? それはすごいじゃない。見せて」

「おう!」

 ミスリルは両手を胸の前に広げた。

 小さなてのひらをじっと見つめていると、掌のくぼみに水がわき出す。

 その水をミスリルは、まるでねんをこねるように丸めて、ふわりと投げあげた。それがアンの手のこうにぴしゃりと当たってはじけた。わずかだったが、湖水の冷たさを感じる。

「すごい! 水を操れるなら、てつぽうみずおそわれたとき、水の進路を変えられるんじゃない!?」

おそろしいこと言うなよ。できるか、そんなこと」

「じゃあ、なにができるの」

「今、見せただろう」

「え…………。あれだけ?」

「そうだけど……なんか、……文句あるのかよ」

 がっかりして、アンはかたを落とす。ミスリルの能力は、たいしたものじゃないらしい。

 するとシャルが、皮肉たっぷりに言った。

「小鳥に水をやる時には、役に立つな」

「ううう、うるさい!! なんだ、その言いぐさは。俺を鹿にしてるのか。そんな態度は許さないからな。ついでに言っておくが、シャル・フェン・シャル。おまえはアンに対する態度も、改めろ。失礼だ!」

「おまえのほうが、失礼だ」

 シャルが冷たく言い返す。

「俺のどこが失礼だ」

「全部」

「なんだとぉ!?」

 言い合う二人の妖精を横目で見て、アンは断言した。

けんしなくても、だいじようよ。二人とも同じくらい、失礼だから」

 アンは順調に、きよかせいだ。

 今夜。旅の四日目の宿泊地に決めた宿しゆくさいとうちやくできれば、ブラディ街道を四百キャロン進んだことになる。ブラディ街道の全長千二百キャロンの、三分の一だ。

 太陽はじよじよかたむき、山のかがやくオレンジに色づく。

 今夜も、おそらく問題なく宿砦に到着できるだろう。そう思っていた矢先だった。

 きようれつしやこうが荷台の背を押すようにしていたが、ふいにそれがくもった。

 シャルが空を見あげ、まゆをひそめる。ミスリルもつられたように上を見て、顔色を変える。

「おい、シャル・フェン・シャル。こいつは……」

 ミスリルが深刻な声を出すので、アンは首を傾げた。

「なに? どうしたの」

 それと同時に、後ろをついてきていたジョナスが馬車の速度をあげ、アンの馬車とぎよしやだいを並べた。

「ねぇ、アン。アン! 上。見て」

 おびえたジョナスの表情で、やっとアンは異変に気がついた。

 ジョナスが指さした上空に目をやる。

 ぎょっとなった。空が黒い。

 先刻からの光がさえぎられていたので、雲が出てきたのだろうと思っていた。

 しかし太陽の光を遮っていたのは、雲ではなかった。

 何百羽という、こうカラスの群れだった。黒い大きな鳥が群れをなし、鳴き声一つたてずに、彼らを追うように飛んでいる。

「これは……しゆうげき……」

 うわさに聞いたことがある。荒野カラスは、にくをあさるそう屋だ。だがそのえさとなる屍肉がない場合、群れをなして生き物を襲撃し、殺してうことがあるという。

 これに襲われれば、まず助からないといわれる。

 彼らは鋭いくちばしで、最初に生き物の目玉をねらってくる。動きをふうじて、それから肉をえぐる。荷台の中にげ込んでもだ。彼らには、がある。荷台のてんじよういたしんぼうづよくつつき、穴を空けてしんにゆうしてくる。

 空をめる、真っ黒い鳥の群れにおののいた。

 この大群に襲われれば、命がない。アンたちの手にはおえない。

 アンはシャルを見やった。今回こそ、命じる必要がある。こちらも命がかかっているのだ。「羽をつぶされたくなければ、荒野カラスから自分たちを守れ」。そう命じるべき時だ。しかし。

「シャル、お願い」

 ついつい、言いかけた。が、「お願い」の言葉に、シャルの目がちらりと光る。「また、お友達ごっこをする気か?」そう、無言でなじられたように感じた。

 それを受けて、アンはかくした。

「シャル。命令するわ。荒野カラスから、わたしたちを守って。わたしはあなたの羽をにぎってる。意味は、わかってるよね」

 そう命じたが、不安をぬぐえなかった。

 シャルの羽を握りつぶすようなひどい真似まねを、自分はやりたくないと思っている。それをシャルにかされれば、彼は命令に従ってくれないだろう。

 案の定。シャルの目がおもしろがるように細まる。

「いやだ」と言われれば、アンはどうすればいいのだろうか。むなもとから羽を引っ張り出して、引きくふりでもするしかないのだろうか。

 しかしシャルはうなずいた。そして、

「馬車を止めろ」

 ひとこと言い置くと、御者台を飛び降りた。あわてて馬車を止め、飛び降りたシャルをふり返る。光を集めたけんを掌に出現させながら、彼は背中しに素っ気なく言った。

「荷台の中にかくれてろ」

 ──従ってくれた? どうして。

 荒野カラスたちが、急停車した彼らに向かって降下してきた。

「アン!」

 ジョナスも馬車を止めて、そうはくな顔で空を見る。

「ジョナスも荷台の中に入って! 早く!」

 その声に、ジョナスは転げるように荷台の中に逃げ込んだ。

「そうか! これが恩返しってもんだ。俺も鳥どもを追いはらってやるぞ!」

 ミスリルははたと手を打って立ちあがり、ぜんやる気でうでまくりした。

 アンは蒼白になった。

「無理無理無理! 死んでも無理だから、来て!」

「無理とはなんだ! 俺の恩返しに、けちをつけ……わぁ!」

 しのごの言うミスリルの首根っこをひっつかみ、御者台から飛び降り、荷台に飛びこむ。

「出ていかないでよ。恩返しするために死んだら、わたしが助けた意味がない」

 荷台のゆかに座り、ぎゅっとミスリルをきしめる。

「お、俺は、恩返し……を。……する……」

 抱きしめられたミスリルの声は先細りし、そのほおは徐々に赤くなる。ついにはちんもくした。

 アンは外の物音に耳を傾けた。

 今まで沈黙していた荒野カラスが、ときの声をあげるように、いつせいにギャアギャアと鳴く。

 その声が頭上からどっと降ってくるような感覚に襲われ、アンは思わず両手で耳をふさいだ。

 どかどかと、荷台に荒野カラスが体当たりをする音としんどうがきた。

 悲鳴をかみ殺すだけでせいいつぱいだった。

 ──助けて。……シャル!

 馬が怯えどうようしているらしく、荷台が激しくれる。

 荒野カラスの鳴き声は、荷台を包むように襲ってくる。

 体がふるえるのを、おさえられなかった。縮こまって、動けずにいた。

 するとミスリルの小さな手が、そっとアンの頰にれた。

こわがるなよ、アン。大丈夫だ。シャル・フェン・シャルは黒曜石だ。俺たちとはちがう。傷つかないし、こわれない。ようせいの中でも、とびきり強い」

 かなりの時間がってから、ようやく、馬車にげきとつしてくるしようげきの数が減った気がした。みみざわりな鳥の声が減る。少しずつ、外が静かになってきた。

 完全なせいじやくもどった。アンとミスリルは、顔を見合わせた。

「終わったのかしら」

「さあ……わかんないけど」

 アンは顔をあげ、ミスリルを床に置くと、立ちあがった。おそるおそるとびらを開いた。

 たん。目の前をどさりと、黒いものが落下した。

「わっ!!」

 しりもちをついて、後ずさる。

 荷台の屋根からすべり落ち、ステップの上にったのは荒野カラスの死体だった。それをかくにんすると、目を前方に向けた。

 開いた扉の向こうに見えたのは、真っ黒なかいどう

 街道は黒いもうきつめたように、カラスのがいで埋まっていた。

 その真っ黒なじゆうたんの上で、白い頰に血しぶきを浴びて、シャルがたたずんでいた。

「……シャル」

 呼ぶと彼は、アンに視線を向けた。

 ぞっとするような、それでいてうっとりするような、するどい目をしていた。その姿は、黒曜石からぎ出したやいばそのもの。

 手にある剣をふってしようめつさせると、シャルは無造作に、頰の血をぬぐった。そしてゆっくりと、黒い絨毯をんでこちらにやってくる。

 へたり込んでいるアンを見ると、馬鹿にするようにくすりと笑った。

こしけたか」

「ち、違うわよ」

 断固否定して立ちあがろうとしたが、足に力が入らずによろけた。

 あやうく荷台から転げ落ちそうになったところを、シャルが抱き留めた。

 そのひように、風になびいたシャルの羽が、ふわりとアンの頰に触れた。その絹よりもなめらかなかんしよくに、ぞくりとした甘いものが背を走る。

 見あげると、黒いひとみがアンを見ていた。思わず、見とれる。

 吸いこまれそうな黒。なんてれいなんだろうと、改めて思う。見つめられると、こちらの体がけてしまいそうなほどのいろつや

「どうした、かかし。サービスをごしよもうか?」

 甘い声で意地悪な質問をささやかれ、かっとなる。

だれが!!」

 あわてて身をはなし、シャルに背を向ける。

「とにかく、あ、ありがとう。助けてくれて」

 頰が赤らんでいるのを、さとられていなければいいと思った。


    ◆ ◇ ◆


「すごい数。これにおそわれていたら、確実に命がなかったわね」

 ドレスのすそをつまんで、こうカラスの死体をまたぎながら、アンはぎよしやだいへ向かっていく。ジョナスも荷台から降りてくると、アンのとなりに並んだ。

「ほんとうに、助かったね。アン。君がシャルを使えきしてるおかげだよ」

 言われるとアンは、ちらりとシャルをふり返って、困ったような表情をした。

「え……うん。まあね」

 再び歩き出したアンの後ろ姿を見て、シャルはしようした。

 アンはシャルを使役しようと、精一杯強がって彼に命じた。

 しかし。彼女の命令には、使役者のれいこくさがない。シャルの羽を握りつぶすとおどしても、彼女がそれを実行できないことが、シャルにはわかっていた。

 だがシャルは、アンたちを守った。命じられたから従ったわけではない。アンが荒野カラスにつつき殺されれば、彼女が握っているシャルの羽も危うい。

 だからアンを守ったにすぎない。

 自分の命令の弱さと、それをシャルに見透かされていることに、アンは気がついている。自分の命令でシャルが動いていないことを、彼女は感づいている。

 その辺りのかんは、良いらしい。

 ──俺の羽をいているんだ。しっかりしろ、かかし。

 アンは使役者というよりは、お荷物だ。シャルの羽を抱き込んで離さないから、けしてりやくあつかえない。そばを離れられない。

 シャルにしてみれば、かぎをなくして開けることができない、生きた宝箱を連れて歩いているようなものだ。

 こんなたよりないむすめが、どうしてたった一人旅をしているのか。不思議だった。


    ◆ ◇ ◆


 おびえている馬をなだめたアンは、くつわを引いて、荒野カラスの死骸が散乱する場所をゆっくりと通らせた。おびただしい数の死骸。こうしなければ自分たちの命が危なかったとはいえ、これだけの数の命が消えたことを足の下に実感すると、気持ちがしずんだ。

 ──この中には、巣にひなを残してきた荒野カラスも、いたかもしれないんだ……。

 けれどこれが生き抜くために必要なことだとすれば、これからは、こんな出来事に対する気持ちの折り合いをつける方法を、見つけなければならないのだろう。

 いやなことや怖いことから、アンの目をふさいで守ってくれるエマは、もういないのだから。

 しばらくすると馬も落ち着きを取り戻し、つうに馬車が走れる状態になった。

 ようやく御者台に、腰を落ち着ける。

 しかしアンは空を見あげて、まゆをひそめた。

「まずいわね」

 太陽が半分まで、山のかげかくれていた。東の空はすでに、あいいろに暮れかけている。

 荒野カラスのしゆうげきのために、時間をとられすぎてしまったのだ。

 このままでは、日が沈むまでに宿しゆくさいにたどり着くことは難しい。

「一難去って、また一難だわ」

「どうする。荷台の中で、夜明かしするか?」

 シャルはいち早く、危険に気がついたらしい。御者台のとなりに座ると、そう言った。

「そうなったら、シャルにずの番をお願いしなくちゃならない。今、荒野カラスを追っぱらってくれたばかりなのに、そんな負担かけられない……」

「任せろ! 俺が寝ずの番をしてやるぞ! 今度こそ、俺の出番だ!」

 アンとシャルのあいだから、ミスリルが「はいはいは~い」と、手をあげる。

 アンは苦笑した。

「どうしようもなければ、お願いするけど。ちょっと、待って」

 荷台の下から地図を引っ張り出すと、地図にかれた街道を指で辿たどる。

 四日目の宿と決めていた宿砦は、まだ先。

 しかし宿砦の手前。アンたちが今いる場所から少し先に、宿砦とは別の書き込みがあった。

 医者宿とある。

 ジョナスも馬車を並べると、不安げに空を見る。

「アン。もうすぐ、暗くなる。宿砦まで、とにかく走るしかないかもね」

「暗くなるとすぐに、じゆうが活動するわ。暗くなってからの移動は危険よ。その前に、安全な場所にげ込まなくちゃ。もう少し走れば、医者宿がある。そこに逃げ込みましょう。もしこの医者宿がはいぎようしていたら、仕方ない。危険を承知で宿砦まで走るか、街道のわきに馬車を止めて、荷台の中で夜をやり過ごすか。どちらかにしましょう」

 告げると手早く地図を片づけた。ジョナスが首をかしげる。

「医者宿って、なんだい?」

「名前のとおり、お医者さんの家よ。へんぴな場所で開業しているお医者さんが、旅人を宿しゆくはくさせてくれる宿なの。とうぞくたちも、お医者さんのお世話にはなるでしょう? だから盗賊も、めつに手を出さないから、お医者さんの家は安全なのよ。ただし、お医者さんが死んでたり、引っしてたりしたら、無くなってることがあるから。旅では、あまり当てにしない方がいいのだけれど……あってくれるように願うわ。とにかく、急ぎましょう!」

 馬にむちを当てた。ジョナスも、さすがに表情を引きめて、馬車を発車させた。

 太陽はなほど、みるみる沈んでいく。

 東からわき出してくる暗い空に、おそろしさを覚える。

 もっと速くと、馬に鞭を当てる。しかし、アンの馬は年寄りだ。乱暴に扱いたくなかった。

 エマならば、馬の呼吸から馬のろうを的確に読み取り、ぎりぎりの速さで走らせることが出来た。アンはまだ、それほど熟練していない。

 せまってくるくらやみに、あせりがつのる。

「もっと速く……、無理かな? でも、どうしよう。ママだったら、ちゃんとやれるのに」

 前を見すえながら、思わずつぶやく。

 シャルがちらりとアンを見やる。

「その母親は? どこにいる」

 質問が、胸にずきりとした痛みをあたえた。それをねじ伏せるように、アンは無理にがおをつくった。そして、つとめて明るく言った。

「ママは死んだの。言ってなかったかな」

 無表情なシャルの顔に、わずかにおどろきが見えた。

「銀砂糖師だったママは、半月前に死んだ。わたしとママは、ずっと国中を旅してたから、わたしには故郷なんてないの。身寄りもママ以外いない。ママが死んじゃって、さて生活どうしようかなって考えて、わたしは銀砂糖師になることに決めたの。秋の終わりにルイストンでかいさいされる砂糖品評会に出品して、銀砂糖師になるつもりなの。銀砂糖師には、今年なりたい。その理由、わかる?」

 シャルはかたをすくめた。わからなくて当然だ。

 アンは続ける。余計なことを考えないように、迫り来る闇に視線をすえて。先を急ぐことだけを考えようとして、口を動かす。

「冬にプル・ソウル・デイがあるでしょ。その年くなった人を、天国へ送るお祭りの日。そのお祭りの時に、わたしは銀砂糖師になった自分の手で立派な砂糖菓子を作って、ママのたましいを天国へ送るの。わたしの手で作った、国一番の砂糖菓子でね。そしたらママも安心して、天国へ行けると思わない? いい考えでしょ」

 まくし立てるように、一気に陽気な口調でしやべった。そうして言葉でふうじないと、胸の中にあるなにかが、あふれてくるような気がしたからだ。

 今年の砂糖菓子品評会に間にあいたい理由。

 今年、銀砂糖師になりたい理由。

 それは最高と認められた自分のうでで、最高の砂糖菓子を作り、母親を天国へ送りたいから。

 たったそれだけの理由だった。

 感傷的だと、自分でもわかっている。

 けれど必死だった。今はそれだけが、アンの望みだった。

 目の前にある、なにか。エマのためにできる、なにか。それにすがって走り続けていなければ、足もとが次々にくずれて、底のない暗闇に落ちていきそうな気がする。

 なにかをさぐるように、シャルがアンを見つめていた。彼は、黒曜石から生まれたらしい。確かにそのひとみは、黒曜石のようにれいで深い。

 その目に心をかされそうで、アンはシャルの目を見ることが出来なかった。

「ものから生まれるなら、ようせいは一人で生まれるんでしょう? それも、いいかもね」

 心の中に、ふっとすきがひらいた。

 急がなくてはいけないという焦りが、いつしゆん、遠のいた。

 胸の中で、からからと風がく音さえしそうだった。

「ママとかいると、いなくなったとき大変。心臓が無くなったみたいな気持ちになる。最初からいなければ、こんな気持ち知らなくてすむ」

 呟くように言った。するとシャルが、静かにこたえた。

「一人で生まれても、別れがないわけじゃない。だれかがいなくなるときの気持ちを、妖精も知らないわけじゃない」

 それだけ言うと、シャルはだまりこんだ。

 アンの心の中にあるのと近い感情が、シャルの中にある。ちんもくはそれを確信させた。

 しかしその沈黙が、いたたまれない。

 これ以上言葉を続ければ、自分の中でせき止めている感情があふれそうだ。

 アンが必死でせき止めている感情は、どうしようもないどく。シャルの中にも、確かに孤独がある。もしそれがれあえば、孤独が一気にあふれ出し、押しつぶされそうだった。

 アンは前だけを見つめ続けた。


    ◆ ◇ ◆


 ──それで、母親がいないのか。

 かたくなに前だけを見つめるアンの横顔に視線を向けながら、シャルはなつとくする。

 アンが無意識に孤独をなぐさめてくれる相手を求めていることも、納得できた。

 彼女は、ひとりぼっちだ。やせっぽちの十五歳の女の子が、たった一人なのだ。あまりにもたよりない。その孤独感は、どれほどだろうか。

 暗闇が体にしみこむような、あつとうてきな孤独感。シャルもそれは知っていた。

 砂糖菓子品評会に出て銀砂糖師になれば、孤独でなくなるとでもアンは思っているのだろうか。

 それとも、そうやって目の前のぎりぎりの目標を追っていなければ、彼女自身が崩れてしまうのだろうか。

 おそらく、後者だろう。

 ──そうであるなら、追えばいい。

 思い出すのは、羽をもぎ取られたときの痛み。そしてその後の、様々な出来事。

 羽をなくしたことよりも、苦しかったべつ

 ──リズ……。

 あの時シャルも自らを支えるために、目の前のぎりぎりのものに向かって走り続けた。

 そうしていれば、なにも考えずにすんだ。

 その間は、幸せではなかったが、不幸でもなかった。

 崩れてしまうのであれば、追わせてやりたい。たとえ相手が人間でも、同じ思いを知る者として、そう感じた。

 ミスリルは心配そうに、黙ってアンを見つめていた。

 その時。かたかったアンの表情が、ぱっと明るくなった。

「あっ! 見て、あかりよ!」

 空全体があいいろに染まりきろうとしている、暗いかいどうの前方右手。山のかげを背負うようにして、高い石のへいに囲まれた、こぢんまりした家が現れた。医者宿だ。

 形も大きさもぞろいの石を組み上げた塀が、一カ所だけ開いていた。門だ。門には分厚い、観音開きの木製とびらがつけられている。

 門の中。石組みのかべに、木の屋根をせた建物が見える。窓からは、暖かい色の明かりがれていた。

 石の塀に取りつけられた分厚いもんが、今しも閉じられようとしている。アンがさけんだ。

「待って!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る