三章 襲撃
日の出とともに、アンの
喚くミスリルをなだめながら、アンは出発した。
ミスリルはちゃっかり、御者台に乗っかった。
気持ちよさそうなミスリルを見おろして、シャルが
「眠っている間に、投げ捨てるか?」
「それはあんまりだから、やめてあげて。それに投げ捨てても帰ってくるよ、多分。
背後からは、ジョナスの箱形馬車も当然のような顔をしてついて来る。
しばらく馬車に揺られると、アンは太陽の位置を確かめた。
そろそろ、昼ご飯を
ジョナスも、静かに馬車を止める。
アンは荷台の脇につけた
ジョナスはその様子をしばらく
水をくもうと小川にかがみ込んだアンの隣に、ジョナスも同様にかがみこむ。
気配に気がついて、アンはジョナスに顔を向けた。
ジョナスはいつにない
「アン。わかってくれるかい? 僕は君のことが心配だった。それだけなんだ」
ジョナスは小川に手を入れると、バケツを
アンはびっくりして、バケツを小川から引きあげてしまった。そんなふうにされても、どう対処していいか困ってしまうばかりだ。けれど彼は彼なりに、
「アン」
呼ばれると、軽いため息がアンの口から
ジョナスは、いい人なのだ。
「ブラディ
するとジョナスは、ぱっと
「わかってくれたの!?」
「そのかわり、本当に危険なのよ。それは理解してね」
「でもアンは、戦士妖精を
「戦士妖精だって、
「それは、わかってる」
そう言うジョナスの表情からは、いまひとつ
ジョナスはおそらく、ノックスベリー村から外へ出たことは、ほとんどない。たまにレジントンへ、買い出しや祭り見物に行くのがせいぜいだったろう。その彼が旅に対して無知なのも、仕方ないかもしれない。
しかし昨日、盗賊に
シャルは昨日あまりにもあっさり、盗賊を追い
水をくみ終わると昼食をとり、アンたちは出発した。
そして予定通り、三日目の
その日の夕食。アンは、ジョナスも一緒に食べるように
いつものように、小さなたき火を
たき火の脇に
ミスリルは、呼ばなくとも勝手にやってきた。そして観察するように、彼らの周りをうろうろと歩き回る。
「ジョナスとキャシーに、
「名前は? つけてないの?」
「今言ったのが、彼の名前よ」
妖精を紹介されて、ジョナスは
キャシーは
ジョナスは改めて、シャルをしげしげと眺めた。
「おまえ、戦士妖精にしておくには、もったいないほど
するとシャルが、冷ややかに
「気にいったなら、かかしから俺を買い取るか?
「シャル!」
「ま、間抜けって……」
アンは自分が悪いことを言ったような気分になり、弁解する。
「ご、ごめんジョナス! シャルは口が悪くて、愛玩妖精として売れなかったらしいの。戦士妖精としても、口の悪さが原因で、安値でたたき売られてたし。間抜けだ
「うん。まあ……アンは悪くないんだから、いいよ。それより、そっちの妖精は?」
気をとりなおすように、ジョナスがミスリルに視線を向ける。
ミスリルは出番とばかりに、ずいと輪の中心に出てきた。
「俺か? 俺の名前はミスリル・リッド・ポッド様だっ!! 様をつけて呼んでくれ」
「え、さ、様づけ??」
意味がわからないというように、ジョナスは目をぱちくりさせた。
「シャルもミスリル・リッド・ポッドも、そろいもそろって、なんでそんな態度なの!? ねぇ、ミスリル・リッド・ポッド。『様』づけしろなんて、どうかと思うわよ。あきらかに、感じが良くないもの」
たしなめたアンの言葉に、ミスリルはしょんぼりした様子でうなだれた。そしてふらふらと、アンの馬車の方へ歩いていく。
ジョナスは当然のように、キャシーを紹介しなかった。
アンの夕食は、水。そして
ちらりとミスリルを見ると、彼はわざとらしく
ミスリルはやたらうるさいから、昨夜からひどく
しかしよく考えれば、恩返しをしようとする心構えは、立派だ。恩返ししようと決めた相手が
──
アンは自分の分のサンドイッチを半分にすると、ミスリルを手招きした。
「おいでよ、ミスリル。これ、あげる」
ぱぁっと晴れやかな笑顔になると、ミスリルはぴょんぴょん
そして
「俺はミスリル・リッド・ポッドだ。略すな」
「そうだった。ごめんね。ミスリル・リッド・ポッド」
ジョナスにも分けようとしたが、彼は自分の食事はあるといって、荷台から持ってきた。
ジョナスの食事は、アンには考えられないほど
それを見ると、ジョナスが旅に出ることを両親が承知しているというのも、あながち
これほど食べ物を細々と取りそろえるのは、家庭の主婦にしかできない芸当だろう。彼は両親に馬車や食料、ついでに護衛まで買い
しかしアンダー夫妻はなぜ、
「こんなにごちそうがあるなら、わたしのスープなんていらないわよね」
思わず、アンは
すると、ジョナスのコップに葡萄酒を
「当然です」
ジョナスがキャシーを
「
はっとキャシーが顔色を変えた。おろおろと、取り
「あ、すみません。ジョナス様。わたし、ただ」
「消えていろ」
キャシーは
妖精には、
ジョナスはすまなそうに言った。
「ごめんね、アン。うちの労働妖精は、しつけがなってなくて。君のスープは、
使役者として、ジョナスの態度は当然なのかもしれなかった。しかしアンは、キャシーが
翌朝、再び二台の馬車は走り出した。
ミスリルは嬉しげに、シャルとアンの間に座った。
「アン。俺が恩返ししてやれることがあれば、
「立派な恩返しねぇ。考えるけれど、どうせならばミスリル・リッド・ポッドの能力を使える恩返しを考えた方がいいよね。あなたは、どんな能力があるの?」
「俺の能力か?
「水滴から生まれたの? 妖精って、みんな水滴から生まれるの?」
アンは首を
「アンは、なんにもしらないんだなぁ。妖精はいろんなものから生まれるんだ。草の実や木の実、水滴や
「で、ミスリル・リッド・ポッドは水滴から生まれて、シャルは何から生まれたの?」
問われたシャルは、ちろりとこちらを見ただけで、返事をしなかった。
かわりにミスリルが答えた。
「こいつは、見たところ黒曜石だ。貴石の妖精は、
「水を!? それはすごいじゃない。見せて」
「おう!」
ミスリルは両手を胸の前に広げた。
小さな
その水をミスリルは、まるで
「すごい! 水を操れるなら、
「
「じゃあ、なにができるの」
「今、見せただろう」
「え…………。あれだけ?」
「そうだけど……なんか、……文句あるのかよ」
がっかりして、アンは
するとシャルが、皮肉たっぷりに言った。
「小鳥に水をやる時には、役に立つな」
「ううう、うるさい!! なんだ、その言いぐさは。俺を
「おまえのほうが、失礼だ」
シャルが冷たく言い返す。
「俺のどこが失礼だ」
「全部」
「なんだとぉ!?」
言い合う二人の妖精を横目で見て、アンは断言した。
「
アンは順調に、
今夜。旅の四日目の宿泊地に決めた
太陽は
今夜も、おそらく問題なく宿砦に到着できるだろう。そう思っていた矢先だった。
シャルが空を見あげ、
「おい、シャル・フェン・シャル。こいつは……」
ミスリルが深刻な声を出すので、アンは首を傾げた。
「なに? どうしたの」
それと同時に、後ろをついてきていたジョナスが馬車の速度をあげ、アンの馬車と
「ねぇ、アン。アン! 上。見て」
ジョナスが指さした上空に目をやる。
ぎょっとなった。空が黒い。
先刻から
しかし太陽の光を遮っていたのは、雲ではなかった。
何百羽という、
「これは……
これに襲われれば、まず助からないといわれる。
彼らは鋭いくちばしで、最初に生き物の目玉を
空を
この大群に襲われれば、命がない。アンたちの手にはおえない。
アンはシャルを見やった。今回こそ、命じる必要がある。こちらも命がかかっているのだ。「羽を
「シャル、お願い」
ついつい、言いかけた。が、「お願い」の言葉に、シャルの目がちらりと光る。「また、お友達ごっこをする気か?」そう、無言でなじられたように感じた。
それを受けて、アンは
「シャル。命令するわ。荒野カラスから、わたしたちを守って。わたしはあなたの羽を
そう命じたが、不安をぬぐえなかった。
シャルの羽を握りつぶすようなひどい
案の定。シャルの目がおもしろがるように細まる。
「いやだ」と言われれば、アンはどうすればいいのだろうか。
しかしシャルは
「馬車を止めろ」
ひとこと言い置くと、御者台を飛び降りた。
「荷台の中に
──従ってくれた? どうして。
荒野カラスたちが、急停車した彼らに向かって降下してきた。
「アン!」
ジョナスも馬車を止めて、
「ジョナスも荷台の中に入って! 早く!」
その声に、ジョナスは転げるように荷台の中に逃げ込んだ。
「そうか! これが恩返しってもんだ。俺も鳥どもを追い
ミスリルははたと手を打って立ちあがり、
アンは蒼白になった。
「無理無理無理! 死んでも無理だから、来て!」
「無理とはなんだ! 俺の恩返しに、けちをつけ……わぁ!」
しのごの言うミスリルの首根っこをひっつかみ、御者台から飛び降り、荷台に飛びこむ。
「出ていかないでよ。恩返しするために死んだら、わたしが助けた意味がない」
荷台の
「お、俺は、恩返し……を。……する……」
抱きしめられたミスリルの声は先細りし、その
アンは外の物音に耳を傾けた。
今まで沈黙していた荒野カラスが、ときの声をあげるように、
その声が頭上からどっと降ってくるような感覚に襲われ、アンは思わず両手で耳をふさいだ。
どかどかと、荷台に荒野カラスが体当たりをする音と
悲鳴をかみ殺すだけで
──助けて。……シャル!
馬が怯え
荒野カラスの鳴き声は、荷台を包むように襲ってくる。
体が
するとミスリルの小さな手が、そっとアンの頰に
「
かなりの時間が
完全な
「終わったのかしら」
「さあ……わかんないけど」
アンは顔をあげ、ミスリルを床に置くと、立ちあがった。おそるおそる
「わっ!!」
荷台の屋根から
開いた扉の向こうに見えたのは、真っ黒な
街道は黒い
その真っ黒な
「……シャル」
呼ぶと彼は、アンに視線を向けた。
ぞっとするような、それでいてうっとりするような、
手にある剣をふって
へたり込んでいるアンを見ると、馬鹿にするようにくすりと笑った。
「
「ち、違うわよ」
断固否定して立ちあがろうとしたが、足に力が入らずによろけた。
その
見あげると、黒い
吸いこまれそうな黒。なんて
「どうした、かかし。サービスをご
甘い声で意地悪な質問を
「
あわてて身を
「とにかく、あ、ありがとう。助けてくれて」
頰が赤らんでいるのを、
◆ ◇ ◆
「すごい数。これに
ドレスの
「ほんとうに、助かったね。アン。君がシャルを
言われるとアンは、ちらりとシャルをふり返って、困ったような表情をした。
「え……うん。まあね」
再び歩き出したアンの後ろ姿を見て、シャルは
アンはシャルを使役しようと、精一杯強がって彼に命じた。
しかし。彼女の命令には、使役者の
だがシャルは、アンたちを守った。命じられたから従ったわけではない。アンが荒野カラスにつつき殺されれば、彼女が握っているシャルの羽も危うい。
だからアンを守ったにすぎない。
自分の命令の弱さと、それをシャルに見透かされていることに、アンは気がついている。自分の命令でシャルが動いていないことを、彼女は感づいている。
その辺りの
──俺の羽を
アンは使役者というよりは、お荷物だ。シャルの羽を抱き込んで離さないから、けして
シャルにしてみれば、
こんな
◆ ◇ ◆
──この中には、巣に
けれどこれが生き抜くために必要なことだとすれば、これからは、こんな出来事に対する気持ちの折り合いをつける方法を、見つけなければならないのだろう。
いやなことや怖いことから、アンの目をふさいで守ってくれるエマは、もういないのだから。
しばらくすると馬も落ち着きを取り戻し、
ようやく御者台に、腰を落ち着ける。
しかしアンは空を見あげて、
「まずいわね」
太陽が半分まで、山の
荒野カラスの
このままでは、日が沈むまでに
「一難去って、また一難だわ」
「どうする。荷台の中で、夜明かしするか?」
シャルはいち早く、危険に気がついたらしい。御者台のとなりに座ると、そう言った。
「そうなったら、シャルに
「任せろ! 俺が寝ずの番をしてやるぞ! 今度こそ、俺の出番だ!」
アンとシャルのあいだから、ミスリルが「はいはいは~い」と、手をあげる。
アンは苦笑した。
「どうしようもなければ、お願いするけど。ちょっと、待って」
荷台の下から地図を引っ張り出すと、地図に
四日目の宿と決めていた宿砦は、まだ先。
しかし宿砦の手前。アンたちが今いる場所から少し先に、宿砦とは別の書き込みがあった。
医者宿とある。
ジョナスも馬車を並べると、不安げに空を見る。
「アン。もうすぐ、暗くなる。宿砦まで、とにかく走るしかないかもね」
「暗くなるとすぐに、
告げると手早く地図を片づけた。ジョナスが首を
「医者宿って、なんだい?」
「名前のとおり、お医者さんの家よ。へんぴな場所で開業しているお医者さんが、旅人を
馬に
太陽は
東からわき出してくる暗い空に、
もっと速くと、馬に鞭を当てる。しかし、アンの馬は年寄りだ。乱暴に扱いたくなかった。
エマならば、馬の呼吸から馬の
「もっと速く……、無理かな? でも、どうしよう。ママだったら、ちゃんとやれるのに」
前を見すえながら、思わず
シャルがちらりとアンを見やる。
「その母親は? どこにいる」
質問が、胸にずきりとした痛みをあたえた。それをねじ伏せるように、アンは無理に
「ママは死んだの。言ってなかったかな」
無表情なシャルの顔に、わずかに
「銀砂糖師だったママは、半月前に死んだ。わたしとママは、ずっと国中を旅してたから、わたしには故郷なんてないの。身寄りもママ以外いない。ママが死んじゃって、さて生活どうしようかなって考えて、わたしは銀砂糖師になることに決めたの。秋の終わりにルイストンで
シャルは
アンは続ける。余計なことを考えないように、迫り来る闇に視線をすえて。先を急ぐことだけを考えようとして、口を動かす。
「冬に
まくし立てるように、一気に陽気な口調で
今年の砂糖菓子品評会に間にあいたい理由。
今年、銀砂糖師になりたい理由。
それは最高と認められた自分の
たったそれだけの理由だった。
感傷的だと、自分でもわかっている。
けれど必死だった。今はそれだけが、アンの望みだった。
目の前にある、なにか。エマのためにできる、なにか。それにすがって走り続けていなければ、足もとが次々に
なにかを
その目に心を
「ものから生まれるなら、
心の中に、ふっと
急がなくてはいけないという焦りが、
胸の中で、からからと風が
「ママとかいると、いなくなったとき大変。心臓が無くなったみたいな気持ちになる。最初からいなければ、こんな気持ち知らなくてすむ」
呟くように言った。するとシャルが、静かに
「一人で生まれても、別れがないわけじゃない。
それだけ言うと、シャルは
アンの心の中にあるのと近い感情が、シャルの中にある。
しかしその沈黙が、いたたまれない。
これ以上言葉を続ければ、自分の中でせき止めている感情があふれそうだ。
アンが必死でせき止めている感情は、どうしようもない
アンは前だけを見つめ続けた。
◆ ◇ ◆
──それで、母親がいないのか。
かたくなに前だけを見つめるアンの横顔に視線を向けながら、シャルは
アンが無意識に孤独を
彼女は、ひとりぼっちだ。やせっぽちの十五歳の女の子が、たった一人なのだ。あまりにも
暗闇が体にしみこむような、
砂糖菓子品評会に出て銀砂糖師になれば、孤独でなくなるとでもアンは思っているのだろうか。
それとも、そうやって目の前のぎりぎりの目標を追っていなければ、彼女自身が崩れてしまうのだろうか。
おそらく、後者だろう。
──そうであるなら、追えばいい。
思い出すのは、羽をもぎ取られたときの痛み。そしてその後の、様々な出来事。
羽をなくしたことよりも、苦しかった
──リズ……。
あの時シャルも自らを支えるために、目の前のぎりぎりのものに向かって走り続けた。
そうしていれば、なにも考えずにすんだ。
その間は、幸せではなかったが、不幸でもなかった。
崩れてしまうのであれば、追わせてやりたい。たとえ相手が人間でも、同じ思いを知る者として、そう感じた。
ミスリルは心配そうに、黙ってアンを見つめていた。
その時。
「あっ! 見て、
空全体が
形も大きさも
門の中。石組みの
石の塀に取りつけられた分厚い
「待って!」
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