クラウディア

福山窓太郎

マレーア、ラ・コスタ通りの下宿


 その少女が発見されたのは、黎明れいめいには程遠い、夜更け過ぎのことだったという。



「それで、その子どもは結局死んだのか?」


「いや、それが生きていたそうです。今朝早く、修道院で目を覚ましたと聞きました」


「そりゃすごい。まるで奇跡だ」


「いやだな、奇跡だなんて」

 友人にしてかつての同僚であるブルーノが、長椅子に寝転んだまま声を上げた。


「奇跡以上ですよ!」



 昨夜の夜遅く、マレーアの港を発った一隻いっせきの漁船が、地平線の向こうに人影を見たという。不思議に思った船長が船を近づけていくと、水面に一人の少女が浮かんでいた。意識はないが、かろうじて息はある。


 彼女は美しい最新流行の洋服を身にまとい、まるで海で眠るのが当然なのだと言わんばかりの優雅さで、静かに溺れていたのである。

 

 心やさしい船長は彼女を海面から引き上げ、あわててインテルノ通りの修道院へ担ぎこんだ──というのが、一連の流れであるらしい。



「それじゃ今頃、連中は大騒ぎだろう」

 船乗りのヒューイ・スコットは、窓の下を見やってそう言った。


 ヒューイのいる下宿の二階の窓からは、マレーアの往来おうらいがよく見えた。


 まだ日が昇ったばかりだというのに、誰もが他人にぶつかりそうになっては、狭い通りを急いでゆく。荷車の車輪が敷石を叩く音、行商人たちの大声、怒号……。港から運ばれてきた魚類の匂いに混じって、わずかにアルコールの酸っぱい香りが鼻をついた。


 イドル王国屈指の貿易街というだけあって、街中がまるでせわしない濁流だくりゅうのような様相を呈している。


「連中というのは、修道院しゅうどういんの連中のことを言っているんですか?」


「奴らはなんでも騒ぎたがる。雷が落ちたときの演説なんて、特にひどかったろ」

 ヒューイはからかうように言った。


「たしか『天は民の魂の堕落を悲しみ、危ぶみ、その涙は雷鳴となりて響く』、でしたね?」

「まったく大袈裟な連中だ」


 ところで修道院というのは、イドル国内各地に点在している宗教施設のことだ。創世の神が残したとされる『本』の精神──このあたりは長くなるので割愛かつあいする──にならい、祈り、労働し、清く正しく生活するための施設である。


 ブルーノは少し考えを巡らせたのち、ていねいに首を振った。

「……でも、身寄りのない子どもが修道院に預けられるなんて、よくある話でしょう?」


 ブルーノの言うとおり修道院は、孤児院としての役割も兼ねている。


 おそらく噂の少女──海から生還した少女も、例によってしばらく修道院で暮らすことになるのだろう。働くあてがないのなら、そのまま住み込みの修道女ソレッラになってもいい。


「彼らも、その手のには慣れているはずです。きっと一日も経てば、騒ぎはすっかり収まりますよ」


「そうだといいがな」


「おや、含みのある言い方ですね。ほかに気になることでも?」


「いや。取るに足らないことさ、ブルーノ」

 あいまいに返事をしながら、ヒューイは大きくあくびをした。


 ところで今朝は、じっさい恐ろしく眠かった。このところ日雇いの仕事をいくつか掛け持っていたせいだろう。わざわざ朝から訪ねて来てくれたブルーノには悪いが、話の続きはまたの機会にしてもらおうか。


 そう思って口を開いた矢先、

「あっ!」

 ヒューイが別れの挨拶を切り出すより前に、ブルーノのほうが長椅子から飛び上がる。


「しまった、もう行かないと!」

「今朝はずいぶん早いじゃないか」


 羊毛で編まれた帽子フェルトロを乱暴に掴み、ブルーノは続けた。


「今日はこれから、マレーア商会で大切な会合があるんです。あのフェデリコ卿も臨席りんせきする場に、ぼくみたいなのが遅れちゃまずいですからね」


「あの素晴らしく退屈な集まりか」


「居眠りでもしてお歴々のご機嫌を損ねないよう、せいぜい努めますよ」


 それでは、とブルーノが部屋を出ていったのとほとんど同時に、ヒューイもベッドに倒れ込む。すでに睡魔の限界は超えていた。


 薄れゆく意識のなかで、先ほどの少女の話が脳裏をかすめた気がした──海に浮かんでいたという不思議な少女。春先の海水は冷たかっただろう──そんなことを自覚する間もなく、ついにヒューイは意識を手放した。

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