第50話 暮れ六つすぎ 牢屋敷

気絶する辰次に冷水があびせられた。


「ここは……?」


辰次が目を開けると、両手は後ろ手に縄で縛られて土間にころがされていた。

武士らしき男が辰次を見おろしている。

手には細くしなる木の棒、むちがある。


「体を起こしてやれ」


へい、と答えたふたりの男が辰次の上半身を両側からささえるようにおこした。


「その方、名をなんという?」


武士に名前をたずねられ、とにかく状況のわからない辰次は警戒するような態度をとる。


「……アンタは?」


辰次の左側面の頭に強い衝撃が与えられる。

両側にいる男のうち、左の男に殴られたらしい。


「貴様、与力よりきさまにむかって、なんという口の聞き方だ!」

「よい、やめよ」


さすがに辰次も与力というのが何か知っている。

町奉行所のなかでも上から二番目にいる役職である。


「ここは町奉行所か?」

「いいや、まだそこにはいたっておらぬ。ここは穿鑿せんさくじょである」


穿鑿せんさくじょとは、牢屋敷ろうやしき内にある罪人を取り調べる場所だ。


「それじゃあ、ここは小伝馬町こでんまちょうの牢屋敷なのか……?」


辰次はぼう然とした。

通常、よっぽどの重い犯罪を犯さなければ牢屋敷に直行で送られない。


「お主、みたところまだ若いようだが年はいくつだ?」


与力の男に尋ねられ、辰次はためらいがちに答える。


「……18」

「そうか。ならば世の仕組み、とくに御法度ごはっとや町奉行所の仕事についてはまだ知らぬであろう。まず、私は与力でも吟味方ぎんみがたといって容疑者などの取り調べをする人間だ。本来であれば、町奉行所内でおこなう吟味だが、時刻は暮れ六つすぎで町奉行所はしまっている。軽犯罪であれば、大番屋おおばんやに容疑者を留め置くのだが、その方が重罪人の疑いがあるためこのような処置になった」

「俺が重罪人?」

「その方ら博徒の人間たち複数が武士である者たちを恐喝きょうかつし、かの者たちの家を賭場として使っていただけでなく、相手を暴行のうえで殺害、さらに火をつけようと計画していたとの容疑がかかっている」

「……は?なんだ、それ?」

「被害者である武士たち六人が連名でそううったえてきておる。これが事実であれば、非道ひどうなるばかりでなく、身分の秩序を無視した、いわば幕府に歯向かうようなおこない。そこで奉行所は同心どうしんたちを使うことにした」


同心とは与力の下にいる、いわば現場捜査官である。

そう同心が辰次の両側にいる男たちふたりだった。


「同心たちが今夜の脅迫現場へと踏み込み、その方ら全員を捕縛ほばくし、大罪の可能性ありと判断。この牢屋敷へ連れてきたしだいである」


与力が同心ふたりに目で合図を送った。

同心たちは辰次を引きづり、そばの格子窓へ彼の顔を押しつけた。


「見えるか?そこからみえるのが、地獄の一丁目と世間が噂する小伝馬町の牢だ」


まず辰次の目にうつったのは、せまい牢屋内にひしめく廃人のような男たちだった。

どの人間もおそろしく汚れており、異臭を放っているのがわかった。

なかには体の一部が腐ってただれているような人間さえいる。


「目の前にみえる、その劣悪な環境の牢屋は無宿人むしゅくにん用の牢である」


無宿人とは人別帳にんべつちょうという戸籍に名前のない人間のことをう。


「お主の仲間たちはみな、その無宿人の牢にいれた」

「なっ……!」


辰次は目をこらして虚弥蔵たちを探したが、まったくわからなかった。

ひとつの牢屋に人間の数が多すぎるのだ。


囚人しゅうじんがふえても牢屋がふえることはない」


与力が牢屋の実情について話した。


「あまりにも窮屈きゅうくつになった牢屋内でよくおこるのが、囚人同士の間引まびきだ。ツルという賄賂わいろの金をもたず、あるいは牢名ろうなぬしという牢屋内のあるじに嫌われ、夜中のうちになぶり殺しにあう。そして翌日、病死として処理される。このようなことが、とくに無宿の牢屋内でおこる。やつらはよその牢よりも凶悪で暴力的だからな」


格子窓から辰次はひきはがされ、与力の前に座らされる。


「お主のような若者が、あのようなところへいくのはあまりにもあわれにおもう。聞けば、お主の父親は博徒をたばねる大親分というではないか。どうだ?身元をあかし、父親がたしかに博徒の大親分だと証言するのなら、あの無宿の牢に送るのをやめてやろう」


与力がここまで丁寧に説明をしていたのは、辰次に自白じはくをうながすためだったらしい。


「もしくは今回の罪について認めよ。ほかの博徒たちは罪を否定しているが、やつらとともに脅迫、殺人、放火のはかりごとをしていたと認めれば、明日の拷問ごうもんも受けずにすむぞ」


与力がむちひとふりすると、空気をするどく切り裂く音がした。


「これで叩かれたものは、身体中の皮膚はやぶけ、肉はえぐれ、骨はくだける。それでもかぬものはあれが使われる」


与力がさししめしたのは拷問道具であるいしであった。

鋭い凹凸おうとつがある石板と、平らな分厚い石版が何枚もある。


「あのノコギリのような石板の座布団に正座させられ、ひざに何枚も石板をのせられるのだ。お主のいままでの人生のなかで、経験したことのない激しい痛みとなるだろう。命を落とす人間さえもおる。どうだ、おそろしいであろう?」


辰次は口をぎゅっとしばって、なんとしても言葉を出さないつもりだった。

だが、心うちは『拷問』というものに恐れを感じていた。


「罪を認め、お主の名と父親の名をいえ。それか父親が博徒の大親分だと認めよ!さすれば、拷問も牢屋で酷い目にあうこともないぞ」


辰次は牢屋と拷問を前にし、『死』という恐怖をじっとりと感じている。

今すぐにその恐怖から逃げ出したいとおもった。

それでも、ここで与力の言葉に従えば、辰次は死んでも自分を許せないだろうとおもった。

辰次は眉間に力をこめ、与力をにらみつける。


「うるっせえッ!俺は絶対になにもいわねェ!テメーとあの武士どもの思い通りになんか死でもさせねえよッ!」


与力はわずかにたじろぎながら、辰次の胆力に感心した。


「……度胸のある男だ。仕方がない。あの無宿の牢で一晩過ごせば、考えも変わるやもしれん。連れていけ」


同心たちにかかえられ、辰次は与力のあとに続いて穿鑿所を出た。

外でひとり、同心とおもわしき男が立っていた。


「ご苦労様です」


頭をさげる男に、与力はややおどろいた表情をした。


「お主、まだ帰ったのではなかったのか?」

「時間外で働く与力であるあなた様をさしおいて帰るなど、やはり気が引けまして。戻ってまいりました」

「律儀だな。気にせずともよい。これは私個人が気になってやっておることだ」

「といいますと?」


与力は辰次からはやや離れ、聞かれぬように声をひそめた。


「今回の訴えは、六人の武士連名として一人の与力が受け取っている。その与力の男、賄賂を受けとって片方へ都合のいいようにさばききをしているとの噂がたえない人間でな」

「では、今回も同様に賄賂を受けとっているとお考えで?」

「うむ、あやしいとは思っている。なんせその与力、さほど証拠もないというのに、すでに島流し、もしくは死罪までを要求しておる。何をそこまで急ぐのか。に落ちない。それにあの若者」


与力はチラリと後ろをふり返り、辰次をみた。


「与力として何人も罪人を見てきたからわかる。目つきはするどいが、まっすぐとしてくもりのない良き青年の目だ。あれは悪人の目ではない。面構えもしっかりしており、心あるものだというのがわかる。仮に博徒だったとしても、江戸の市民であるならば公正な裁きを受けさせたい。明日、ちゃんと話す気になってくれればよいのだが……」

「あなた様のお考え、ご立派とおもいます。ですが本日はもうお疲れのご様子。私がこの者を牢屋に入れておきましょう」

「だがお主の方こそ顔色がよくないぞ?」


男の顔は病人のように蒼白そうはく気味であった。


「大丈夫でございます。この者を牢に入れましたら、私もすぐに帰りますゆえ」

「そうか?では頼むとするか」


与力の男は去っていった。


「お主らも帰ってよいぞ。弱った罪人ひとり、牢にいれるくらい、私ひとりでできる」


時間外の労働から解放される。

そのことに同心ふたりは喜んで辰次を男に任せて帰っていった。


「いくぞ」


男に背中を押され、辰次は連れてかれてゆく。

辰次は迷う。

これは好機なのではないか?相手はひとりである。


(けど、ここは牢屋敷だ。見張りや門番だっているのにどうやって逃げる?この縄はどうする?縛られてるから手も使えねえ。それに叔父貴たちを置いて一人で逃げるなんてできねえ……)


考え悩む辰次は、自分が無宿の牢屋前をとっくに通り過ぎていることに気づかなかった。

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