第10話 小料理屋いすみ 店外 二

飯尾は大勢の人間の前で顔面から派手にすっ転んだ。


「ぷっ、かっこわる」


野次馬たちから小さな笑い声がもれはじめる。


「ダメよ、お侍さんを笑ったら」

「でもアレは。恥ずかしいよな」


野次馬につられ、博徒たちも指をさして笑いはじめる。


「なんだ、アイツ?またひとりで勝手に転びやがったぞ」


仲間である浪人たちといえば、気まずそうに飯尾をみていた。

かれらの目には哀れみがこもっている。

周囲からあびせられる恥辱に、飯尾は怒りで顔を赤くさせた。


「こ、この、この女っ!」


飯尾は立ちあがってめくら娘をにらむ。


「一度までならず、二度も邪魔しおって!許さん!」


野次馬たちがどよめく。

飯尾が腰にある刀を抜いたのだ。


「尼だろうと、叩き斬ってやる!」


飯尾が刀を大きく振りあげた。

しかし、振りおろす前に辰次によって止められる。


「てめェ、たいがいにしろよ」


辰次はギロリとにらみながら飯尾の手首を片手でつかんでいる。


「相手は女、しかもめくらだぞ?」


飯尾は瞬間的に臆したが、あとに引けないと思い直した。

刀はもう抜かれているのだ。


「それがなんだ。女だろうとそいつは俺を、武士を愚弄したのだ!斬り捨て御免ごめんが通じる!」


飯尾は脂汗をにじませながらニタリとした。


「この社会は我ら武家の天下。その証拠が刀に、苗字、そして斬り捨て御免の特権!庶民の無礼者を斬り殺しても許される幕府が定めたれっきとした掟よ!子供でも知っている常識ぞ。わかったら、さっさとそこを退けッ!」

「腐ってんな」

「何!?幕府おかみを侮辱するか!?」

「ちげェよ。てめェの性根が腐ってるっていってんだよ」


辰次はさらにつかむ力を強くした。

骨が軋むような痛さにおもわず飯尾は顔をしかめた。

刀が音を立てて地面に落ちた。


「おのれ、邪魔立てするか!?こうなれば、お前もー」

「この世では」


めくら娘が口をひらいた。


「男が女を刀で斬って捨てるのが、普通なのですか?それとも、これが世に聞く武士道というものなのでしょうか?」


尼もどきの娘がこぼした純粋なる疑問の言葉。

それは痛烈な皮肉と周囲にはみえた。


「尼さんのおっしゃる通りだ!お侍さま、答えてもらおうじゃねぇか!」


庶民である野次馬たちが騒ぎだす。


「あんたらの気分次第で斬られちゃ、こっちは堪らねえってんだ!」

「そうよ!アタシらそこらへんにある大根じゃないわよ!ちゃんとした人間よ!?」


生粋の江戸っ子たちが、庶民としての意地を武士どもへとみせつける。


「武士道っつうのは、武士の誇りじゃねえのかい!?その誇りが尼さんを斬ることか!?仏さまも呆れて、救えねぇって泣くってもんだ!」


そうだそうだ!と大勢の江戸っ子たちが武士たちを責めた。


「だとよ、お侍サマ。斬り捨て御免なんて言い訳、神さまには通じねぇらしいぜ?」


辰次は恐ろしいにらみはそのままに、口の端だけをニヤリとあげた。


「てめぇらは地獄行きだってな」


辰次の凄みのある悪い笑みに武士たちはゾッとした。

まるで閻魔の使いである『鬼』にみえたのだ。


「飯尾さん」


武士四人のうち一人、笹川ささがわがそっと飯尾に近寄った。


「もう、ここら辺で引きましょう」

「なんだと?町人ごときに言い負かされ、尻尾巻いて逃げるというのか!?」

「そうじゃなくて……騒ぎが大きくなりすぎてます」


野次馬たちは博徒たちの味方をして騒ぎ始めている。

この状況に、飯尾以外の武士たちは居心地の悪さを感じているようだった。

笹川に同調するように、他二人、つじ入間いるまも飯尾の説得をしはじめる。


「このままだと市中警備の役人が来るのも時間の問題です。幕府の厄介になるのは、さすがにまずいですって」

「そうですよ、飯尾さん。面倒ごとになる前に、行きましょうよ」


仲間である彼らを飯尾はキツくにらんだ。


「お前らは自分の札があるから、人ごとと思ってそんなことを言えるんだ!私のツキ札は、あのクソガキに取られたままなんだぞ!?このまま帰ってみろ。あの京あがりの浪人に、また余計な金を要求される!」

「ですが、もし幕府の厄介になると藩に連絡がいってしまいますよ」


笹川のその一言に、飯尾はぐっと唇を噛みしめた。


「赤松殿に迷惑がかかるのは、飯尾さんも望まないでしょう?」


上司である男の名前を出され、飯尾は悔しそうに歯がみをした。

ピーっ、と笛が遠くで鳴った。

誰かが叫ぶ。


「警備の役人だ!」


いっせいにその場の全員が浮足だった。

蜘蛛の子を散らすように、わーっと誰も彼もが慌てて逃げてゆく。

辰次は舌打ちをする。


「チッ、ここまでか」


喧嘩の終わりを悟り、辰次も逃げようとした。

が、強い力で引き止められた。


「お待ち下さい」


尼娘こと、めくら娘が辰次のそでを引っ張っていた。


「えっ!?お前!?」


袖をつかむ彼女の白く細い手首を辰次は凝視する。

彼女の意外なまでの力強さにおどろいていた。


「どちらへ行かれるのですか?」

「逃げるに決まってんだろ!役人がきてんだよ!いいから、袖を離せ!」


辰次はめくら娘をふり払おうとするができない。

物理的にできない。

どれだけ強くひっばっても、彼女から袖を取り戻せないのだ。


「いい加減にしろ!袖がちぎれるわ!」

「侠客さまのところへのご案内は?」

「またそれかよ!そんなに親父に会いたいなら、俺についてくればいいだろ!?」

「あなたさまに?」

「そうだよ!親父は家にいるよ!それで、俺はこれから家に帰るんだっ!わかったら離せ!」

「お連れ下さい」

「はァ!?」

「私もお連れ下さい」

「だから、勝手についてくればいいだろ!?」


あ、とそこで辰次は自分の失言に気づいた。

彼女が盲目であるのを忘れていたのだ。


「わかったよ。そのまま、それ、握ってろ」


辰次は彼女に袖を許した。


「いっとくけど、おもいっきり走るからな。ついて来れるか?」

「大丈夫です。体力には自信があります」

「そんなふうには見えないんだけど」


病的とはいかないまでも、めくら娘は全体的に白くて繊細な印象であった。


「まぁ疲れたらいえ。てきとうに休んでやる」

「わかりました、侠客さまの息子さま」

「その呼び方やめろ。うざってぇ」

「では、なんとお呼びすれば?」

「辰次」

「辰次さま?」

「さまはいらねぇって。俺がそんな大層な身分じゃねぇのは、見えなくたって、今までのでわかったろ?浪人に喧嘩売る、ただのロクでもねぇ人間だよ」

「では、辰次さんとお呼びしても?」

「好きにしろ。それでおまえは?」

「わたし?」

「名前だよ。尼じゃねぇなら、ちゃんとしたこの世の名前があんだろ?」


めくら娘が小さくうなずいた。


「朱色のさぎとかいて、朱鷺と申します」

「へぇ、朱色」


彼女がもつ朱塗りの杖が辰次の目に入る。


「いい趣味してんじゃねぇか」


杖の朱色は、赤を基調に黄が混じる、鮮やかながらも柔らかさをもった色だった。


「鷺って田んぼに出る、あの綺麗な白い鳥のことだよな」


鷺は長い首と脚をもつ美しい水鳥だが、くちばしは鋭く攻撃性が高い面もある。


「朱色したバカでかい強い鳥か。女にしちゃ粋な名前だな」

「いき?」


笛の音と赤い提灯がだんだんと近づいてきている。


「来やがったな。そろそろ行くぞ!」

「いき、とはなんですか?」


辰次はめくら娘を連れて駈け出す。


「朱鷺!」


坊主頭が逃げる人々の波に逆らって、めくら娘を呼びとめた。

貫昭かんしょうだった。

野次馬に混ざって事態をハラハラと見守っていた彼は、めくら娘の姿をみると安堵したような表情になった。


「お坊さま?」

「無事でよかった!心配したぞ。怪我はないな?」

「はい」

「そうか。ところでその者は……?」


めくら娘が袖をにぎる相手をみて、貫昭は眉をひそめた。


「侠客さまの息子さま、辰次さんです。これより、侠客さまの元へ連れて頂けるそうです」

「親分殿の息子、辰次……?まさか、俊応様がいっておられたあのー」


悪童か、という言葉を貫昭は飲み込んだ。

めくら娘が深々とお辞儀をする。


「お坊さま。ここまでお導きいただき、ありがとうございました」


辰次が袖を引っ張り、めくら娘を急かす。


「おい、もういいか?急がねーと、捕まっちまうぞ」

「はい。ではお坊さま、これで失礼いたします」


悪童がめくら娘をさらうように連れて走っていく。

いや、並んで一緒に駈けてゆく。

そんな二人の後ろ姿を貫昭はぼう然と見送っていた。


「そうか、お主の縁はそこに繋がっていたのか……繋がるとも思えぬ者同士が繋がるとは、この世は実に不思議なものよのう」


自分の役目は終わったと感じ、貫昭は夜空を見上げる。

笛の音が今宵の馬鹿騒ぎの終わりを告げている。

まんまるな月が浮かぶ、綺麗な満月の夜であった。

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