極安不動産
おひとりキャラバン隊
極安不動産
「あ、ここならいいかも」
東京都の郊外にあるH市にやってきた僕は、今年の春から東京の大学に通う予定の佐藤雄一、18歳だ。
裕福とは言えないサラリーマン家庭の長男の僕は、返済不要の奨学金を得る事が出来て、一人暮らしで大学に通う事を両親にも許してもらえた。
とはいえ家賃や生活費は自分で稼がなければならないので、できれば家賃の安いアパートが見つかればと思い、いくつかの郊外の街を巡って、とうとうH市に辿り着いた訳だ。
H市の中心街からは都心まで電車で1時間くらいかかるけど、この距離なら何とか耐えられると思っている。
とはいえ、都心部のマンションやアパートは家賃が高くて手が出ないと思って郊外の街を巡って来たものの、さすが東京というべきか、家賃の相場はそれほど安くはない様だ。
H市の駅を降りて、駅前のロータリーに面した不動産屋はあらかた巡ってみたものの、むしろこれまで見てきたところよりも家賃の相場は高かった。
半分諦めモードで裏通りを歩いていた時に、その看板を見つけた。
『極安不動産』
と書かれた看板が扉の横に立っており、細長い雑居ビルの2階にその店がある様だ。
僕はその店の名前に
2階に上がると、その不動産屋はすぐに見つかった。
というか、その不動産屋の扉しか無かった。
今日は3月4日。
そろそろ住居を決めて契約しなければ、4月の入学式に間に合わなくなってしまう。
「ここでいい物件が見つかればいいんだけどな」
と、誰にともなくそう呟きながら、僕は不動産屋の扉を開けて中に入った。
チリンチリンと扉に取り付けられた小さなベルが音を立て、僕が部屋の中を見回すと、目の前にあるカウンターには誰もおらず、奥に並べられたパーテーションの隙間から、60代くらいの白髪の男が現れた。
「いらっしゃい」
と無愛想に言うその男は、分厚いレンズの眼鏡をかけており、上は茶色い長袖のポロシャツ、下はチノパンの様なベージュのズボンを履いていた。
「どうぞ」
と男はカウンターの椅子に先に座り、僕にもカウンターを挟んで向い合せの椅子を指さしながら座る様に促した。
「あの、駅から徒歩15分以内で、できれば家賃の安いアパートを探しているんですが…」
と僕が早速本題に入ると、男は僕の事を上から下までジロジロと見て、
「ああ、なるほど。東京の大学に通う為に住むところを探しとるんだね」
と言って、うんうんと何度も頷いた。
「はあ…」
と僕は気の抜けた返事をしたが、オフィスの中の雰囲気から察するに、さすが歴戦の不動産屋というべきか、来客の姿を見るだけで、大方の事情は見抜いてしまう男の眼力に、少しばかり驚いていた。
「ウチで家賃が一番安い物件を2つ紹介しようかね」
と言って男はのっそりと立ち上がり、再びパーテーションの奥に姿を消したかと思うと、部屋の奥の方でキャビネットを開く音が聞こえて、紙がこすれる音が聞こえた。
なるほど、これは話が早い。
ここで一番安い物件を紹介してもらえる訳だから、その物件の家賃が予算オーバーなら、もうここでの話し合いは不要だという訳だ。
ここまでに何件も訪れた不動産屋は、こちらの予算を少しオーバーする物件ばかりを提示してきて、本当に安い物件の情報というのはなかなか見せてくれなかった。
無愛想な男だが、実はいい人なのかもと僕は思った。
ほどなくして男がカウンターに戻ってきて、手に持った資料をカウンターの上に広げた。
そこには2件のアパートの情報があり、どちらも家賃は2万5千円だった。
2万5千円!?
今まで見てきたところの半分以下の値段だ!
僕は物件の間取り図を見てみたが、片方は2Kの間取り。
もう一つは1LDKのマンションだった。
2Kの間取りの方は、どうやら木造の古い建物らしく、6畳間と4.5畳間の和室と台所があり、風呂窯付きの浴室と、トイレは和式の水洗だった。
うーん…、和式トイレは馴染みが無くて、ちょっと怖いなぁ。
そう思いながら1LDKのマンションの方を見ると、6畳間の洋室が一つと、LDKは12畳の広さがあって、浴室とトイレも別になっているし、トイレは勿論洋式の水洗だ。
鉄筋コンクリート造5階建の建物らしく、エレベーターは無いが、添えられた写真を見ると、なかなかに綺麗な建物に見える。
築4年と書かれているが、木造アパートが昭和の建築なのに対し、こちらは令和に建てられた建物で、ほぼ新築のとても良い物件だ。
というか、良すぎる物件だ。
何が何でも、このクオリティで2万5千円はあり得ないって事くらい、僕にだって分かる。
「あの、このマンションの方は、どうしてこんなに家賃が安いんですか?」
僕は当然の質問を投げかけた。
すると男は、まるで当然の事とでもいう様に平然と、
「事故物件だからね」
と言った。
なるほど、やはりそうか。
にしても、新築でいきなり事故物件扱いとは、何があったかは知らないが、この間取りと家賃は魅力的だ。
僕がそんな事を考えていると、男は立ち上がってパーテーションの縁にあるボックスから鍵を取り出し、
「ほんじゃ、見に行こうかね」
と言いながら、マンションの鍵らしきものをチャラチャラと音を鳴らして指先で揺らしたのだった。
・・・・・・・・・・・・・・
マンションまでは車で5分位だった。
車は国産の高級車で、音は静かだし乗り心地も良かった。
表現は悪いかも知れないが、あの店舗の雑多な感じからは、こんな高級車を持っているなんて想像が出来なかった。
繁盛している様には見えなかったが、もしかしたら不動産屋というのは僕が思う以上に儲かるのかも知れない。
車で坂道をウネウネと登ったが、道路とは別に斜面をショートカット出来るような階段があり、その階段は駅前の道まで続いているらしい。
登りは大変そうだが、むしろ運動にもなって良いかも知れないと思った。
周囲は山林になっていて、コンビニなどは麓の道まで行かなければならない様だ。
敷地内に駐車スペースが10台分あったが、車は1台も止まっていない。
「他に住んでる人はいないんですか?」
と僕が聞くと、
「おらんよ」
と男は言いながらエントランス扉の鍵を開け、「ほれ、ここから入れるよ」
と言って僕を手招きした。
建物は写真と同じでコンディションも悪くない感じだ。
エントランスの扉を潜ると、正面には階段があり、右方向に部屋が2つ並んでいる様だった。
なるほど。
1フロア2部屋で、5階建てという事か。
「どこでも好きな部屋を見ていいよ」
と男が言うので、僕は少し考えてから、
「じゃあ、1階の部屋から見させてもらっていいですか?」
とお願いする事にした。
男は返事もせずに「102」と書かれた部屋の鍵を開けると、玄関扉を開けて、ポケットに入れていたらしいゴムボールの様なもので扉を開け放ったまま固定してくれた。
玄関を入ると、すぐ左側に下駄箱があり、正面には2メートル弱の廊下が続き、その奥にガラスのはめ込まれた木製の扉が見えた。
廊下の左側には扉が二つ並んでおり、ひとつはトイレでもう一つは洗面所だった。洗面所の奥には浴室があり、中を見てみると、足を延ばせるほどでは無いけど充分な広さの浴槽と、レバー式の蛇口とシャワーヘッドが壁に取り付けられており、シャワーはクロムメッキされて室内にかすかに入る屋外の光を反射していた。
「綺麗ですね。それに広さも充分です」
浴室の手前にある洗面所には、実家にあるのによく似た洗面台があった。
鏡は大きなものと縦長の細いものが並んでおり、縦長の鏡は小物入れの扉にもなっていた。
鏡の扉を開けてみると、そこにはハブラシ立てなどが設置された収納スペースがあり、歯磨き粉やヘアムース等もここに収納できそうだ。
洗面所には洗濯機を置く防水パンも置かれており、そのサイズは全自動洗濯機なら大抵のものは置けそうだった。
次に廊下の突き当りの扉を開け、リビングルームへと入る。
家具が何も無いせいか、広々としている様に思える。
いや、もしかしたら一人暮らしには広すぎるかも知れない。
リビングルームの右端にはシステムキッチンがあり、コンロは3口で換気扇もシロッコファンタイプの大型のものだ。
シンクも大きく、まるで新品の様に綺麗なままだ。
天井は2.5mくらいだろうか。
実家の和室よりも少し高く感じる。
おかげでリビングは面積の割に広々している気さえした。
「奥の部屋が寝室ですね?」
僕はそう言いながら、リビングの奥にある引き戸を開けてみたのだが、その途端に僕は硬直した。
「…え?」
という声が口から漏れた以外に声が出ない。
眼の前に見える景色が…、いや、見えているのかさえ疑わしいその景色が、にわかには信じられなかったからだ。
僕が見た部屋の中は、「真っ暗」だった。
いや、そんな言葉では言い表す事は出来ない。
引き戸の向こうは、まるで「何も無い漆黒の空間」が無限に続いている様でもあり、星の無い宇宙の様でもあった。
途端に僕の平行感覚が狂い出し、よもや立っている事も出来ず、膝からくずおれる様に、その場でしゃがみ込んでしまった。
「お客さん?」
不動産屋の男の声が、どこか遠くから聞こえる様な気がした。
僕の目は確かに見えている。
引き戸の枠を掴んでいる僕の手が震えているのも見えているし、自分が座り込んでいる場所や自分の膝も見えている。
だが、引き戸の向こうの寝室がある筈の空間は、まるで光さえ吸い込んでしまいそうな程の漆黒で…、いや、本当に光ごと吸い込んでいるのかも知れない。
それほどの暗闇に、僕はここで何が起きているのかが分からなかった。
僕は引き戸の枠を震える手でつかんだまま、不動産屋の男の方を振り向いた。
「寝室が洋室なのが気に入らないなら、2階より上は全部和室だよ?」
と事も無げにそう言う男を見て、僕はますます訳が分からなくなった。
「い、いや。あの…、コレは一体何なんですか?」
と僕は、まともに声を出す事も出来ず、その声は震えて裏返っていた。
「コレって何だい?」
と男は僕の横をすり抜ける様に引き戸を掴み、躊躇する事も無く、暗闇の中へと足を踏み入れ、そして闇に飲まれる様に姿が見えなくなった。
「そんな!」
と僕は声を上げたが、10秒くらいの静寂の後、何事も無かった様に男が闇の中から姿を現した。
「大丈夫かい?」
無愛想だった不動産屋の男が心配そうな顔で僕を見下ろしていた。
僕は息を荒げて額に脂汗をかいているのが自分でも分かった。
「だ、大丈夫なんですか!?」
と僕は大きな声を出していた。
確かに不動産屋の男は暗闇に飲み込まれ、そしてまた戻って来た。
誰が何と言おうと、この空間は変だ。
そもそも床が存在しているのかさえ疑わしい。
そこに平然として入って行き、何事も無かった様に戻って来たこの男の安否を気にするのは当然の事だ。
だが、男から帰って来た言葉は、
「それはこっちのセリフだよ。あんた、顔が真っ青だよ?」
だった。「車から飲み物取って来るから、ちょっと待ってなさい」
と続けた男は、少し早歩きで玄関の方に向かい、部屋履きのまま玄関を出て行ってしまった。
僕は引き戸の奥に身体が触れない様にと気を使いながら、ゆっくりとリビングの中央へと這う様にして下がった。
引き戸の向こうは明らかに漆黒の空間だ。
リビングの景色は僕にもちゃんと見えている。
もしあの漆黒の空間が不動産屋の男には見えていないのだとしたら、僕の目がおかしいのか、不動産屋の男がおかしいのか、一体どちらだろうか?
他の景色を見た後に引き戸の奥に視線を向けても、やはり同じ様に漆黒の空間しか僕には見えていない。
いや、本当に僕にしか見えていないのだろうか?
もしかしたら、僕だけが見えていないのかも知れないじゃないか?
それに、なぜあの部屋だけがあんな状態なんだ?
他の部屋はどうなっている?
そもそも、何でこのマンションには入居者が一人もいないんだ?
そうだ、そういえば「事故物件」だって言ってな。
一体どんな事故があったっていうんだ?
ここで殺人事件でもあったのか?
それとも自殺でもしていたのか?
それとも、僕のそんな想像では及ばない事故なのか?
その時、僕の肩をポンと叩かれて、僕はハッと我に返った。
慌てて顔を上げると、そこには不動産屋の男が居た。
男の手にはペットボトルのミネラルウォーターが握られていて、
「冷えてるのが無くて悪いがね」
と無愛想に言いながらも、僕を心配してくれているのはその声で分かった。
僕は大きく深呼吸をして、
「有難う御座います」
と言ってミネラルウォーターを受け取り、キャップを開けてグビグビと半分くらい飲んだ。
「あの部屋に、嫌いな虫でも居たのか?」
と訊く男に、僕はどう答えたものかと少し悩んだ。
しばらく考えた末、
「いえ、そうでは無いんですが…」
と少し言いよどみ、「このマンションに、他の住人が居ない理由を聞いてもいいですか?」
と、核心から教えてもらおうとそう訊いた。
すると男は右の眉を少し上げ、
「だから、さっきも言った通り、事故物件だからだよ。」
と言って、男はその場で伸びをした。
「どんな事故があったんです? 自殺ですか? それとも殺人とかですか?」
と僕が食い下がる様にそう訊くと、男は右手を振って、
「違う違う。ここで何かの事故があったんじゃなくて、この建物がそもそも『事故物件』なんだよ」
と言った。
この建物自体が事故物件だって?
「それは…、どういう事です?」
僕が問うと、男は長いため息をついてから、
「あんたはあの部屋に何が見えたんだね?」
と訊いてきた。
「何って…、真っ暗闇です。床も天井も壁も何も見えない。まるでそこに宇宙が広がっているかの様な、漆黒にしか見えませんよ」
僕の言葉に男は少し目を丸くした。
「ほう…、あんたにはあの引き戸の向こうがそう見えるのか」
と言いながら男は腕を組むと、「そうかそうか…、なるほど…」
と意味の無い言葉をつぶやきながら、リビングの中を何度も右へ左へと行き来した。
「そうにしか見えませんよ。あの引き戸の向こう…、あれは一体、何なんですか?」
と僕は少し落ち着きを取り戻しつつ、そう訊いた。
男は首を横向きに振りながら、
「私には、引き戸の奥は洋室にしか見えんのだよ」
と言ったかと思うと、「だが、あんたならもしかすると…」
と僕の両肩をガシッと掴んだ。
そして男は真っ直ぐに僕の目を見ると、
「家賃は要らん。その代わり、私の頼みを聞いて、ここに住んでくれんか?」
突然何を言いだすのかと思えば…
「あの、まずは事情を聞いてもいいですか?」
当然だ。
家賃がタダになるとはいえ、こんな得体の知れない部屋に住むなんて怖すぎる。
せめて事情くらいは知っておきたい。
男はしばらく黙っていたが、ひとつ深く息を吐くと、
「分かった」
と言って右手で天井の方を指差し、「他の部屋で話そう」
と続けたのだった。
・・・・・・・
「5年前の事だ」
と男は語りだした。
僕達はさっきの部屋を出て、ちょうど真上にあたる202号室の中に居た。
間取りはさっきの部屋と同じで、リビングに奥の部屋は、やはり僕には漆黒の空間にしか見えなかった。
それを男に伝えると、
「やはりそうか…」
と言っただけで、僕をリビングの床に座らせ、「長くなるが、いいかな?」
と訊いてきたが、僕が頷く前に男は語りだしていた。
「ちょうど5年前、私の娘が大学に通う為に、大学に通いやすいマンションに住みたいと言ってきたんだ」
男の話はこうだ。
当時、この辺りの土地を買い占めて分譲マンションを展開する不動産会社の社長だった男は、いわゆる「お金もち」で、派手ではないが豊かな生活を送っていたらしい。
妻と一人娘との3人家族で、男が言うには円満な家族だったそうだ。
娘が高校3年になって最初の進路希望を提出する際、父親の会社を継ぐつもりで芸大の建築学部を希望する娘と、看護学校に行かせたかった妻の間で、ちょっとした喧嘩があったらしい。
娘の希望通りの進路に進ませたいと思っていた男は、妻を説得しようと試みたそうだ。
ところが、
「あなたもあの娘にたぶらかされたのね!」
と、何を勘違いしているのかそんな事を言われ、
「たぶらかされたって何の事だい? 娘が非行に走ったというならともかく、芸大に行きたがる事の何が駄目なんだ?」
と、結局は口論の末に2人の仲は険悪になって行ったそうだ。
当の娘は芸大の試験に合格し、男に「通学しやすい物件で一人暮らしをしたい」と相談をしてきたそうだ。
男は「丁度いい場所で建築工事が始まったマンション物件があるから、そこに住めばいいだろう」と提案した。
そのマンション物件というのが、このマンションの事らしい。
マンションの工事は無事に完了し、入居者募集の広告を見た希望者が次々と男の会社に問い合わせをしてくる中、娘の進路にっずっと反対していた妻が突然、
「私もそのマンションに住むわ」
と言い出したらしい。
娘は反対したらしいが、妻の話では
「若い娘が一人暮らしなんて危ないでしょう? 家事も私がやれば安心じゃない?」
という事だったので、男は妻と娘を最上階の2LDKの部屋に住ませる事にした。
男は家族思いの男ではあったが、仕事ばかりで家族サービスが足りていない事は自覚していたそうだ。
しかし、妻が娘の面倒を見てくれるなら、それは男にとっても都合が良かったという事なのだろう。
季節は春になり、妻と娘はマンションに引っ越した。
それが4年前の事らしい。
他の部屋にも入居者が集まり、新築マンションは全ての部屋が埋まったそうだ。
男はマンションの管理人を妻に任せ、新たに購入した他の土地にも新築マンションの建築を計画するべく、仕事にまい進していたとの事だ。
・・・異変があったのはその頃らしい。
4年前、7月の夏休みシーズンに、妻と娘の様子を見に行こうとこのマンションにやって来ると、信じられない事に、最上階の妻と娘が住んでいる部屋以外の部屋には、誰も住んでいなかった。
「いったいどうしたんだ? 何かあったのか?」
と男が妻に問うと、妻は不思議そうな顔をして、
「何を言っているの? 元々他の部屋には誰も住んでいなかったじゃない」
と言ったという。
「そんなバカな!」
と男は言いながら、「あいつと同級生の住人もいただろう! あいつはどこだ? 学校か?」
と娘の姿を探したが、その時に男は既に違和感を感じていたそうだ。
そう、娘の名前が思い出せなかったのだ。
「えーと、あれ? 娘の名前は・・・」
と男が額に手を当てて思い出そうとするその姿を見て、妻は更に首を傾げてこう言ったそうだ。
「娘って、何の事? あなたに娘なんていないじゃない」
男は妻の顔を見返し、
「おいおい、何の冗談だよ・・・」
と妻の名前を呼ぼうとしたが、そこで再び違和感を感じる事になった。
そう、今度は妻の名前が思い出せなかったのだ。
「あなた、具合でも悪いの? 顔色が悪いわよ?」
妻がそう言って男の顔を覗き込むのを感じ、男は妻の名前を思い出せないままに、彼女の肩に手を置いて、
「いや、お前・・・、娘が居ないってどういう事だ? 私とお前の子供だろうに・・・」
妻の名前も思い出せないのに娘の事を問いただすというのもおかしな話だが、その時の男にはそれしか出来なかったそうだ。
しかし、妻の言葉は男を絶望させるには充分過ぎた様で、
「あなたと私の子供って、何の事? 私、結婚もしていないし、ましてや子供なんていないんだけど?」
男は言葉を失った。
そして妻である筈のその女の姿から目が離せなかった。
リビングルームの奥にある和室の座椅子に座る妻は、
「それにしても、あなたは誰ですか?」
と今度は男に向かってそう言った。
男は信じられない思いで自分の事を説明しようとして和室に入り、妻の元に歩み寄ろうとしたが、そこで恐ろしい事に気が付いた。
「私は・・・、誰だ・・・?」
そう、自分の名前が思い出せなかったのだ。
ここに何をしに来たのか、そもそも目の前の女性が誰なのか?
それに、娘って何の事だ?
芸大に通う?
誰が?
・・・・・・・・・分からない。
そう思った男は、
「ああ、お邪魔してスミマセン。すぐに帰りますので」
と言って和室を出て、リビングルームから玄関に向かう前に、もう一度だけ挨拶をしようと和室の方を振り向いた。
「・・・・・・あれ?」
和室には誰もいなかった。
さっきまであったと思っていたコタツや座椅子などの家具も無い。
男は他の部屋の様子も見てみる事にした。
自分の名前は思い出せなかったが、自分がこのマンションのオーナーである事は分かっていた。
すべての部屋の合鍵があり、どの部屋にも入れる事は分かっていた。
そして、全ての部屋を確認してみたが、どこにも誰も住んでは居らず、ただこのマンションは存在しており、毎年税金も取られている。
自宅と事務所の場所は分かっており、自宅の表札から自分の苗字が「
色々な書類を見ているうちに、自分が不動産会社の社長である事も分かった。
しかし、数人いた筈の社員の記録は無く、帳簿の記録には妻や娘を役員登録しているにも関わらず、妻と娘の存在が記憶からも現実社会からも消えていた。
いや、元々存在していたのかさえ分からない。
何故こんな事になったのか。
その原因が「このマンション」だという事は想像できた。
だけど、男の目にはこのマンションの違和感が分からない。
だから、このマンションの違和感に気付ける者に出会えたならば、是非ともこの謎を解明してもらいたい。
・・・・・・・・・それが、男が僕に望んだ事だという訳か・・・。
最後まで話を聞き、僕はようやく事情が呑み込めた。
この部屋にもある漆黒の空間にしか見えない「和室」と呼ばれる空間が、謎を解く鍵となる場所なのだろう。
もしかしたら、あの空間自体が鍵なのかも知れない。
僕は僕の人生を大切にしたい。だけど、こんな話を聞かされて、この男の願いを断ったとしても、今後ずっとこの件を忘れる事が出来ずに気になり続ける事だろう。
ならば、結果がどうなるかは分からないが、トライしてみるのも良いのではないか?
家賃はタダで良いというのだから、あの和室さえ封印してしまえば、十分に生活できるだけの空間もあるし、意外に悪くない話なのかも知れない。
僕は意を決して立ち上がると、男の手を握ってこう言った。
「分かりました、
真っすぐに男の目を見ながら言った僕に、男はほっとした様な表情でこう返した。
「ありがとう。・・・・ところで、キワミさんってのは誰の事だい?」
・・・・・・・・・今僕は気づいたけれど、もう春になるというのに、男の手は驚く程に冷たかったのだった・・・・・・・・・
極安不動産 おひとりキャラバン隊 @gakushi1076
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます