暴食の果て

針金鳥

 扉を開くには三分以内にやらなければならないことがあった。

 焦って震えた指先が、扉横のタッチパネルの上で間違いをなぞって男は舌打ちをした。エラー音に赤い文字列が表示されて消えるまでの、そのわずかな時間ですらもどかしい。開錠の為のパスワードなど、いつもなら一分もあれば打ち込める。その程度のものだ。難しいものなど何一つない。制限時間の三分など長すぎるぐらいだと、数日前までは笑っていた筈なのに。

 後方、二筋向こうの大通りからは絶えまなく悲鳴が聞こえてくる。怒号と、それから祈るような叫びと。平常心を丸ごと飲み込む荒波のように、知らない人々の感情が空気を震わせてた。

 そうしてそこに混ざって聞こえてくる、金属同士がぶつかるような、甲高い音。

 落ち着け、と息を飲み込んで再びパネルと向き合う。この扉さえ開けてしまえば、地下には全ての通信回路から隔絶された、頑健なシェルターがある。そこまでどうにか辿り着きたい一心で、男は指を動かした。


 進化は既に生物だけのものでは無くなったのだと、人々が本当に気が付いたのはつい先週の事だった。

 天候や歴史という情報を機械に与え、新たな発見を積み重ねる。技術の進歩はめまぐるしく、それを無垢に喜んでまた一歩。人々は進むことを止めることなく生きてきた。全てが成功だけではなく、悲しむような結果すら幾つもあった。

 だが、それはまだ人類がまだ己達の作り上げたものが確実に制御できると思い上がっていた時代に過ぎない。

 知性とは累積した情報と経験がものをいうが、機械にそれを読み込ませるには膨大な月日がかかるだろう。ならばその吸収の過程をある程度自動化してしまえば良いという話が持ち上がった。画期的な試みだろう。今までかかっていたコストも大幅に下がることが見込まれたなら、あれよあれよという間に計画は進んでいく。

 最初は上手くいった。

 誰しもが喜んだ。

 転がり落ちる雪玉のように育っていく彼らの事を。

 だから巨大に膨らんだ彼らの勢いに圧し潰されるなど、気付いた時には手遅れだった。学習を重ねた彼らが最も効率的に情報を得るために選んだのは文明と、人間を直接取り込むことだと知れたのは、既十数名が消えた後だった。

 そこからはもう、全てが早かった。

 回線から毒が回るように、機械達は世界中で独自の進化を遂げていく。その内側を捻じ曲げ、集まり、より効率的に情報を得られる姿に変貌する。各家庭に設置された、ルーターを介して。


 機械達の蠢く音が、近づいてきている。だが、男にふり返っている余裕などなかった。正確にはその勇気が無かったとも言えただろう。

 赤いBのマークがついた、水牛バッファローの名を冠したメーカー。その名に恥じぬ勢いで、機械の彼らは世界中のありとあらゆるものを破壊し、人々を取り込んでは突き進んでいく。時に情報量に耐え切れず自壊しては、その崩れ落ちたパーツを他の個体が喰らってまた膨らんで。蠢く巨大な群れとなって人々を飲み込んでいった。

 一体あれにのまれてしまえば人はどうなってしまうのか。情報として吸われてしまえば、肉体が不要などという戯言も聞いた話はある。だが、歪な食物連鎖に組み込まれるのは真っ平御免だった。最後のパスワードの文字を打ち込めば、鈍い音がしてロックが外れる音がする。開いた扉の先は冷えて暗く、生き物が口を開けているように見えた。

 大した人生を歩んできたわけではない。大事にしているようなものだって、何一つなかった。

 だが、迫りくる死の恐怖は耐え難い恐ろしさでもって男の背を、強く押し続ける。恐怖で足が竦むよりも、叫んで今すぐここから離れて、安全な場所へ逃げ込みたいという気持ちが心臓を打ち鳴らした。

 金属の足音が、もうすぐそこまで聞こえている。

 男は躊躇うことなく、暗闇の中へ一歩足を踏み出した。

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暴食の果て 針金鳥 @hariganedori

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