傷つくことに慣れたくない
井上うずら
第1話
公演中止を喰らった。
一昨年からゆるく宝塚にはまった。観たら絶対好きだろうなと思っていたジャンルなのであえて遠巻きにしていだが、見事に沼落ちした。すみれの園の瘴気は芳しく、そしてものすごく強力な吸引力がある。
はまったものの、時は絶賛のコロナ禍であり、幕が上がるということが当たり前ではない時勢だった。
公演中止の報を目にすることも日常となり、あらまあ大変ね。演者さんも人間だし、どうぞ行かれた方は美味しいものでも食べて帰ってくださいね。などと柔らかい言葉を添えて、マジで他人事だとおもっていた、その公演中止を週末に喰らったのだ。
週末のこと、あと一駅で宝塚だ〜!というところでツレが「え?」と嫌な声を出した。人身事故か?と胸がざわついた。「どうした?」と尋ねると公演中止の報だという。私もツレは関東住まいでこの日は5時起きして総本山である兵庫県宝塚市の宝塚大劇場に向かっていたのである。
慌ててLINEを開くとこのコロナ禍で、幾度となく見た宝塚歌劇団の詫び文が連なっていた。
とはいえあと数分で宝塚というところまで来ていたので、我々は電車を降りホームから続くエスカレーターに足を向ける。オタクたるもの同族を感知する能力が長けるものだ。特にヅカオタは老いも若きも一定のオーラがある…なんか漠然とちゃんとしている感というか、宝塚に女同士でキャピキャピ来ているのなんてヅカオタだけである。
周囲を見てもまだ気づいていないのか、みな今日目にできるであろう公演の話をしているらしかった。もしかしたら私が目にした公式LINEが誤っているのかも知しれないと望み半分、半分は食欲で腹が減っていたのもあって(劇場に食堂が併設されている)、ざわつく胸は切り離しひとまず宝塚大劇場を目指した。
劇場に着くと正面玄関前にスタッフが立っていた、オタクの現場でよく見る最後尾札のようなものを持ち「本日の公演は中止となりました」云々を寒空の中告げていた。あいにくバグった令和が冬モードをキツめにかけていたので現地はとても寒く、スタッフの女性はスカートに薄いタイツ一枚で痛ましかった。そんなスタップに「ザ!ヅカマダム」という感じの女性が青ざめた顔をして「えっ、中止なんですか?」と詰め寄っていた。女性の顔は悲壮感に溢れ、薄手のタイツ一枚の足元よりも酷くくたびれて見えた。
ほどなく食堂の席につき、私はたこ焼きを、ツレはラーメンを注文した。たこ焼きは花組・トップスターの「柚香光」にかけて、柚風味のつけだれがついており、とてもおいしかった、飲むように食べた。
宝塚のたこ焼きは冷凍品ではなく劇場の食堂で焼かれたものだ、熱々でふわりと柔らかく美味しい。毎度驚くことだが関西の方は本当にたこ焼きをよく食べる。この日も隣のコテコテ関西マダムと思しき二人組が、私と同じ柚風味のたこ焼きを食べていた。本当にどこでもたこ焼きを食べるんだなと目を見張った。
「遠方から来る人は大変やな、まあ関西観光して帰らはるんやろな」
たこ焼きマダムは、そんなふうにまさに私の状況を言い当てていた。あなたの隣その遠方からの観劇者がいるんですよーと思いながら私は壁に貼られたトップスターのポスターをぼんやりと眺めていた。
場は途方に暮れるヅカオタで混んでいて、右も左もがっくりと正気の抜けたヅカオタばかりだった。年齢のことを言いたくはないが、妙齢の女性がしょぼくれている姿は寒々しい、私の背筋も自然と丸くなってしまう。しょぼくれた妙齢の女を一人この場に増やしてしまった。
話が前後するが宝塚には五つの組がある、花・月・雪・星・宙と。ヅカオタと言っても大抵は贔屓・推しの組があるのが常で、私は雪組を最愛の組としている。
この日の公演は花組だったので、推しではないがトップコンビの退団公演かつ初めてとれた花組の大劇場公演のチケットだった。人並みに悔しい気持ちは大いにあった。これが自分の贔屓の組であったら多分人目を憚らず泣いていたと思う。喚いてさえいただろう。公演が飛んでしまうということはそういうことだと思った、大の大人が泣いてしまうくらいのことだと。けれど周りを見ても泣いている人はいなかった。コロナの弊害なのか「しょうがない」と思うことに慣れてしまったような、そんな気配があった。私も「しょうがないよね」と口に出してツレに向けて言ってみた。本当はしょうがないと思っていないのに。ツレは「ほうだね」と惚けた声で相変わらずラーメンを啜るばかりだった。
話は変わる世界中を旅する某インスタグラマーをフォローしている。彼女がニュートラルに生きる方法としてインスタで語っていたのが「期待しすぎないこと」というものだった。正確なニュアンスは覚えていないが。
期待しすぎない、求めすぎない。そんな状態でいると、何かトラブルがあったとき「そういうものか」と受け止められ、トラブルなく進んだ時は「+」でいられると言っていた。いかにも現代的な軽やかなマインドだなあと思う、真似したくもある。
私は人並みに期待をする、期待しすぎてその期待したものを得られずに傷ついたりする。期待しすぎた自分恥じたりもする。それを繰り返し、その繰り返しにうんざりとする。疲労ばかり溜まって、心底自分が嫌いになる。
それでもどこか人生に期待はしたいと思う、落ちると分かっていても当落メールを開くまではいつだってSS席・最前・どセンターは私のものだと思うくらいに私は身に余る期待し続けている。
コロナ禍以前の宝塚を私は知らない、毎日当たり前のように幕が上がっていた時代があったんだと思うと異国の話のようで像をなさない。演者も生身の人間なのだから風邪もひくし、怪我もするだろう。コンディションが整わないことはあって、公演中止は仕方がないと思う、頭ではそう思う。思うけれどやはりその痛みに慣れてしまった自分では居たくない。仕方ないねで済ませられるのが大人なのだろうけれど、仕方ないと飲み込んでばかりの自分には、またそれを他人に強いる人間にはなり切ってしまいたくない。
「こんちくしょう交通費三万円を返せ!飛んでしまった公演を返せ!悲しい、バーロー、ねぎらいの言葉なんてクソ紙にもなんねえよ」
そんなふうに、少しくらいは毒づきたいので毒づかせていただく。
とにかくこの数年で諦めることになれる世界になってしまった気がする。それはそれで成熟したものかもしれないけれど、面白さには少し欠ける。もっと感情の起伏があっていいはずだ。
私は期待し、それが外れて傷ついてそんな自分に嫌気がさして、うんざりする私であるだろう。残念ながらこれからも。そして期待通りだった時には「やっぱりね」と、鼻高々に胸を張りたい。
公演中止は悔しかったし往復の移動がことに疲れた、友達からの「大変だったね」というねぎらいの言葉も「はいはい、テンプレート」と思うほどには気持ちがささくれていた。けれどそれでいいのだとも思った。だってそれが私の生きた感情だからだ。
帰りに新大阪駅で「くくる」のたこ焼きを食べた、関西のたこ焼きは柔らかで本当に美味しい。関西の方がやたらとたこ焼きを食べる気持ちが、私も少しわかった気がする。公演中止は苦しいけれど私はまた宝塚へいき、そして大劇場のたこ焼きと「くくる」のたこ焼きを食べようと思う。次回は観劇後の満ち足りた心地で頬張りたいと切に願いながら。
傷つくことに慣れたくない 井上うずら @oghnto
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