第2話 【黒木昭文】享年53歳 その壱

俺の人生は毎日が曇天のようなそんな人生だった。


生まれたのは、九州の宮崎なんもない田舎だった。


父親は母親と仲が悪く、母親は俺を置いていつの間にやら居なくなっていた。


ろくに学校にも行かずに、俺はどうしようもない父親を置いて東京に出てきて色んな仕事に就いた。


東京はバブル真っ盛り、そりゃ実家を継いでいれば困ることなく生きていけただろうさ。


それでも、俺はあの父親が嫌いですぐにでも一人立ちしたかったんだ。


東京に出てきてから、内装業の仕事に就いたが、バブルのおかげで遊んで暮らせる程度に給料を貰うことはできた。


俺のひと時の楽しみはピアノのあるバーで、グラスの氷を揺らしながら随分と綺麗なピアニストさんの弾く曲を聴くことだった。


俺が飲んでいるのは酒だけど、ピアニストさんに酒を差し入れするわけにもいかず、


ある日、マスターに頼んだ。


「あのピアニストさんにコーヒーを俺からプレゼントしたいんだができるかい?」


マスターは


「承知いたしました。そのように手配いたします」と言って彼女に俺からのコーヒーが届いた。


その綺麗なピアニストさんは、驚いたようにあちらこちら見渡して、手を軽く振る俺の方を見た。


まだ相当若い20代になったばかりなんじゃないかと思う彼女ともうすぐ30代にもなろうとする俺とじゃ釣り合いなんか取れないだろうからと、ちょっとした楽しみにしていたんだ。


ピアニストさんは毎日ここで弾いているわけではないみたいだが、まぁまぁ通って特定の曜日にいることは分かっていた。


もうすっかり常連って感じだった。


あまりに毎度コーヒーを差し入れしていたからか、ピアノを弾き終わり帰る前に彼女は俺の傍に来て


「いつもコーヒーをありがとうございます。ピアノがお好きなのですか?」と尋ねてきた。


正直こんなバブルじゃなければこんなところでゆっくりとピアノ演奏を聴きながら酒を飲んだりなんかできないだろう。


「あなたの演奏がとても好きで、でも毎日はいないんですね?」と聞くと、


「いつもは子供たちにピアノを教える仕事をしているんです」との事だった。


すると、「よかったらお隣失礼してもよろしいですか?」と言われ、気分が上がった。


「こんな美人さんと飲むなんて今日は俺の命日になっちゃうかもしれないな、あはは」と返すと、クスクスと笑っている。


彼女は下戸なようで酒は飲まないらしいが話す内容はとても興味深いし、笑顔がいい。


年齢はどうやら俺の8つ年下らしい。


俺は30にもなって結婚のけの字もない、彼女らしい彼女もそういえばあまりいない。


金目当てでワンナイトラブってのはしょっちゅう寄ってくるんだけど、そういう女は大抵他でも同じことをしているから、彼女なんて呼べやしない。


その頃は携帯電話なんてものは簡単には持てなくて、車につけた電話番号と家の電話番号しかなかったから、俺は何回かこんな風にピアニストさんとお店で話しながら、一人寂しく帰っては、翌朝の仕事に邁進した。


ただ見ていただけの彼女が数回会話を重ねただけで、随分と愛おしくなってくるもんだな。


仕事が終わり、今日は彼女の出番の日じゃないしなぁ・・・・・・と仕事仲間と飲んで過ごした帰り道、薄緑色のワンピースを着たピアニストさんがしゃがみこんで泣いていた。


酔っぱらっていたけど声をかけずに居られなかった。


「あ、ピアニストさん・・・・・・だよな?」


ふと俺の声に涙をぬぐい化粧もボロボロになっちまっている顔を上げた。


「あ、黒木さん・・・・・・すみません変なところを見られちゃった」と作り笑いをしている。


「なんかあったんだったら話くらいでよけりゃ俺聞くよ」というと、


「いえ、大したことじゃないんです。ありがとうございます。またピアノ聴きに来てください」とボロボロの顔のまま帰って行った。


まぁ、送り狼に見えるもんな・・・・・・。


あれから少し気になって彼女の出番の日にピアノを聴きに行った。


彼女の今日のピアノはとてつもなく情熱的で超絶技巧でいつもとは違っていた。


そして、いつものように出番が終わり俺の隣でコーヒーを飲んでいる。


顔は相変わらず綺麗だけど、どこか苦しそうな笑顔だった。


「どうした?この前もそうだけど何かあったんだろ?」すると、周りからヒソヒソと話声が聞こえた。


「あの子枕してチップ貰ってるらしいわよ」


「ピアノだけじゃ稼げないからってそんなこともしてるの?」などと誹謗中傷が飛び交っていた。


そうか、俺のせいか・・・・・・。


「あんな言葉なんてどうでもいいんです。僻みや妬みでしかないから」と彼女は言う。


「でも嫌だろう・・・・・・俺がなんか言ってきてやるよ」とそいつらの方に向かおうとした俺の袖を彼女は引っ張った。


俺はたいがい短気な方で、我慢ならないとどうしても身体が先に動いちまう。


「本当に彼女たちの言う言葉は根も葉もないこと、黒木さんに迷惑をかけたりしたくないの」とまで言われたら仕方がない。


「それじゃ、あいつらじゃなくて誰があんたを泣かしてるんだよ」とまっすぐ聞きすぎたかな?と思ったけど思ったことがどうしても口から出ちゃうのは俺の良くないところだ。


それでも、彼女は話したかったのだろう、ぽろぽろと涙を流しながら話し始めた。


「実は、親との相性が合わなくて家を出たくて、だから昼間のピアノの先生とここで稼いで一人暮らしをしたいんですが、どこも敷金礼金最初の月の家賃とかで結構お金がかかるじゃないですか・・・・・・もうこのまま家に居るのは嫌で・・・・・・あの日も家から飛び出してきてどこにも居場所なんてないから途方に暮れていたところに、黒木さんが声をかけてくれて・・・・・・なんとか家に帰ってからやっぱり話を聞いてもらえばよかったかな・・・と思っていたけど連絡先も知らないし・・・・・・」


と言う。


俺はこれはチャンスなんじゃないかと彼女に車の番号を教えた。


家にはほぼ寝に帰るようなもんだから、車の方が取りやすいだろうからと。


番号を書いた紙を受け取ると嬉しそうに綺麗でかわいい笑顔をみせてくれた。


そう、そんな笑顔でずっといてくれよ。


その時は心からそう思っていたんだけどな・・・・・・なんであんなことになっちまったかなぁ・・・・・・。

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