弥生、牽牛は登らず

銅座 陽助

第1話

 天才科学者・寺水じすいニアには三分以内にやらなければならないことがあった。

 それは目前に迫り来た「人類滅亡」を、どうにかして回避するための方法を考え出すことである。

 いや、厳密には少し異なる。彼女の仕事は、三分以内に人類滅亡を回避する方法を考え出し、なおかつそれを三分以内に実行することであった。



 ……時は少し遡る。

 目下もっかの異常がその兆候を示し始めたのは、なにも数分前の事ではない。

 正確には日本時間2024年2月29日頃にそのさきがけが観測され始めていた。

 始めは観測機器の故障かと思われた。地表近くに出ていたはずの星の幾つかが、その輝きを失っていたのである。

 しかしながら複数地域の複数の高性能天体望遠鏡において同様の報告が連続して行われ、次第にその数と範囲は広がっていった。遂には全天の十数パーセントにおいて、殆ど何も観測することのできない「穴」が生じたのである。


 某国宇宙局をはじめとした各国の開発機関が総がかりとなって至った結論は、次のようなものだった。


『宇宙における特定帯域において壊滅的な崩壊現象が発生しており、その破壊は地球方向に向かって急速に接近している』


 計算の結果、導き出されたタイムリミットは日本時間2024年3月4日 11時59分。

 その時刻を以て破壊は太陽圏に致命的な影響を及ぼす範囲内にまで接近し、人類は滅亡する。そしてその破壊を引き起こしているのは、バッファローに酷似した未知の生命体である、と。

 あまりに衝撃的な事実に各国政府機関は情報統制を敷き、一般市民の耳にこの情報が入らないように努め、同時に各種研究機関に対しては事態への早急な解決策の提示を求めた。

 しかしながら、研究室に籠りきりになっていたニアにその知らせが届いたとき、滅亡のタイマーは僅か三分を残すばかりであった。



 「どうしてもっと早く言わないのよ!」

 研究室に駆け込んできた職員をそう怒鳴りつけそうになって、寸でのところで言葉を呑んだ。今は一分一秒が惜しい。目前の彼に割いている時間など、一ミクロン秒たりともありはしない。そもそも彼の様相を見れば、どうしてこれほどまでに彼女への報告が遅れたかは明らかであった。

 研究者の魂ともいえるその白衣は赤黒い血に濡れており、左の肩口からは鋭利な刃物で切り裂かれたかのような傷口がその口をぱっくりと開いている。黒かった頭髪は薬品で爛れたように溶着し、掛けた分厚い眼鏡もその片方のレンズは無様に砕け散っていた。瞳も、四肢も、そのすべてが何らかの暴力による破壊を受けており、全身に無事なところはどこにも無かった。


 権力闘争、である。寺水ニアの属する研究所においては拮抗する複数の派閥が日夜血みどろの戦いを繰り広げており、例えばある研究チームが翌日には同姓同名の別人だらけになっていた、例えば昇進辞令を受け取ったと思えばその場で天国まで二階級特進していた、など、そういった研究所内のゴタゴタはもはや日常茶飯事であった。

 寺水ニアはそれら何れの派閥にも属していない。四歳にてハーバード大学を首席で卒業し、十二歳の頃にはすべてのノーベル賞に名を連ねた彼女にとって、何か一つの派閥に属するというのは自分より無能な人間の下に就くことと同義であった。


 故に彼女はその単独にして圧倒的な研究成果を以て永世中立の地位を手に入れていたが、しかしながらそれは研究所のみならず、学会や政治的立場、果ては日常生活に至るまでのあらゆるコネクションを拒絶・放棄することと半ば同義でもあった。


 そしてこの現状にほぞを嚙んでいたのは、彼女以前から学会に君臨し、強大な派閥を築きいずれ劣らぬ論文数を擁する老獪なる怪人共である。そこに転がり込んできた「人類滅亡の兆し」の知らせ。これは煮え湯を飲まされ続けてきた彼ら先達にとっては千載一遇のチャンスにも違いなかった。


あの寺水ニア・・・・・・よりも先に人類滅亡を解決した』


 それは万学に通じ万物の天才とも称されるあの若造に、その生涯初めての黒星をつけてやれる、またとない機会であった。


――つまるところ、人間はプライドというのを、時に命よりも大切にするのである。


 結局、彼らは彼女に一矢報いることが出来たのか? 

 彼女が今直面している状況を鑑みれば、その結果はチェレンコフ光を見るよりも明らかであった。


 斯くしてかの呆け老人らの計画はその悉くが失敗したのである。五日そこらで人類滅亡を回避する策を立案し実行に移すなど、土台無理な話だったのだ。


 光も、次元も、星系も。その全てを破壊しながらただ地球に向かって突き進む、一匹のバッファローの如き生命体に対して、既存人類が取れる手段というのはあまりにも矮小で、あまりにも無力だったのである。



 人類滅亡を三分前にして、ニアはその全ての思考能力を用いて演算を開始する。その全てが灰色の脳細胞たる彼女の並列思考は、報告を受けてからきっかり一分ののちに、たった一つの冴えた解を導き出した。

 人類種が現在の形態を維持したままにあのバッファローを処理、或いは回避する手段は、少なくとも残り二分間の文明進歩の間に到達可能な範囲には存在しなかった。


 ――したがって、前提を変更する。

 バッファローを異物として処理しようとするから無理が生じるのだ。

 人類の定義を拡張し、バッファローを拒絶するのではなく包括する。


 「私たち自身がバッファローになることだ」


 そうなればあとは簡単である。

 存在しないモノを生み出すことには多大な労力を要し、或いは一個生命の生涯を掛けても到達し得ないかもしれない。

 しかしながら既に存在するものを模倣するのであれば、極めて簡単だ。

 それに同調し、それを解明し、己を変更して、あとは不足を補強するだけで良い。

 「手本」があれば、あとはそれに倣うだけで良い。


 故に、届く。



 ……

 …………


 そしてバッファローはついに星海を渡り、地球へと至る。


 それが通り過ぎた後には、天も、地も、或いは異なる宇宙さえも無く。


 在るのはただ、「全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れ」のみである。

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弥生、牽牛は登らず 銅座 陽助 @suishitai_D

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