【KAC20241】三分で文豪の遺稿を見つけたい

金燈スピカ

三分で文豪の遺稿を見つけたい

 博孝には三分以内にやらなければならないことがあった。腕時計によれば今は十三時五十七分。三分過ぎて十四時になるとあの鼻持ちならない学者がここに来てしまう。そうしたら彼はここにある大量の原稿にあっという間に目を通して、お目当てのものを見つけてしまうだろう。博孝はそうなる前になんとしても目当てのものを見つけなければならなかった──明治時代の大文豪、鳴海悠一郎の遺稿を。


「マジかよ……」


 読書好きの独居老人の書斎は本と紙で埋もれていた。壁一面の本棚のうち一台がまるまる原稿用紙であると思われた。きれいに収納されていると言えば聞こえはいいが、何の見出しもなしに数十万枚以上も無造作に積み重ねられているだけだ。このなかから鳴海悠一郎の遺稿を見つける? 博孝は眩暈がするような心地になる。


 老人は姪に宛てて遺言状を残し、書斎の本の処分について事細かに指定した。中でも本ではない紙の資料の中には、鳴海悠一郎の「蒼い軌跡」の未発表の最終章が含まれているのだという。弁護士立ち合いで遺言状を見た姪はすっかり気が動転して、そのことをあちらこちらに話して回り、話はどんどんと広がり、友人の連帯保証人になってしまって途方に暮れていた博孝の耳にも入った。


 鳴海悠一郎の最高傑作「蒼い軌跡」は、最高傑作でありながら未完であることが読者の物議を醸し、発表当初から大いに話題になった。それは令和の時代でも同じだ。主人公は自殺を試みる恩師からの手紙を読み、自殺を止めるために家を飛び出したはずだが、汽車の中で恩師からの手紙を読み始め、その手紙が終わるところで物語も終わってしまう。主人公は恩師の自殺を止めることが出来たのか、出来なかったのか。主人公が間に合ったとして、二人はどんな会話を交わしたのか。その謎が文学ファンを百年以上にわたって魅了し続けていたのだった。


 それを売れば、借金は帳消しになる。


「……やるしかねえ」


 あと二分十五秒。博孝が老人の姪の連絡先を藁にもすがる思いで調べ上げ、鳴海悠一郎のファンだと偽って話を聞きに行くと、無欲な姪はどこそこ大学の何某教授に鑑定を依頼するとのんびり告げてきた。そしてその何某教授は今日この後に来訪するのだという。それはテレビで時々見かける、文学史の権威ともいえる教授だった。博孝はぜひ自分も立ち会わせてほしいと姪に頼み込み、電車を乗り継いでここまでやって来たが、事故による遅延で到着が当初の見込みより大幅に遅れてしまった。


 あと二分。博孝は本棚に飛び掛かって、積まれた紙束を引きずり出す。それは予想通り原稿用紙で、万年筆の黒々としたインクが、保存状態がまあまあ良いことを物語っていた。博孝はぱらぱらと紙をめくる。どこまで行っても文字、文字、文字。中身など到底読めない速度だが、「蒼い軌跡」の人物の名前がちらりとでも見えればそれでいい。この中にはない。こちらの束。あちらの束はどうだ。


「ない……ない……!」


 あと一分三十秒。三分なんて何もできないと思ったが、紙をめくるだけなら半分ほどは見られるかもしれない。そうすると博孝が遺稿を手に入れられる可能性は二分の一だ。それならば十分に手に入れられる可能性はある。三十秒は自分が思っていたよりも随分といろいろなことが出来る。例えば鉢合わせてしまった先客を、咄嗟に置いてあったガラスの灰皿で撲殺してしまうとか。


「くそっ、こっちか……!?」


 あと一分。書斎の床では、頭から血を流した先客が寝転がって呻いていたが、その声はもう聞こえなくなった。気を失ったのか、死んだのか、確認する時間も勿体ない。原稿をめくり続けると、小さな升目の中の文字たちがくるくると踊っているようだ。この癖のある「す」の書き方なんて、最高に楽しそうに踊っているじゃないか。


 あと三十秒。博孝は額の汗を拭う。やはり自力で見つけるのは難しかったか。仕方ない。でも何とかして金を手に入れないと、借金取りが何もかも持っていてしまう。


 そんなのは嫌だ。俺にだって生きる権利はあるんだ。


 緊張に指がじっとりと湿り、原稿用紙をうまく捲れないまま、最後の三十秒が過ぎた。ああ、駄目だった。眩暈がして博孝は原稿用紙が散乱する書斎の床に座り込む。玄関のあたりで話し声がする、きっとあの学者が来たんだ。腕時計を見る。十三時五十七分。確かに三分過ぎたはずなのにおかしいな、ずっと時計を見ながら作業していたじゃないか。


「うわっ!? 誰だお前!?」


 玄関からやって来た誰かが書斎の扉を開けるなりそう叫んだ。いやに聞き慣れた声だ。博孝は埃だらけで何も置かれていない床に手をついてのろのろと立ち上がる。やめてくれよ、今、落ち込んでるところなんだから。やめてくれよ……。


 後頭部を襲った鈍く重い衝撃に、博孝は昏倒した。



 


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