生と死の間にて

雨宮 命

生と死の狭間にて

 深夜2時。突如この小説を書くことを思いつきカクヨムを立ち上げたのだが、ずいぶんと大層なタイトルになってしまった。

 だが、この物語、私の語る与太話に相応しい物は、この他に思いつかない。

 「死」とは、生の対極にして、生の行き着く先である。生きとし生けるものはすべてもれなく、これを避けることはできない。

 私には、それが怖くてたまらないのだ。今の私はまだ若く、一般的には死からは遠い場所にいるとされている。時たまひどく落ち込み人生の意味がわからなくなる他には、健康である。

 いや、そもそも、若ければ「死」からは遠いというのもあながちあやしいものだ。戦争が起こっている今、死ぬのに年齢は関係ない、そんな世界も、この世には確かに存在するのだ。恐ろしい。

 

 論点がしばしずれてしまったようなので、戻す。

 免れることのできぬ、死への恐怖。死ぬことでそれからは逃れられるのだから、『死は救済』とはよく言ったものである。

 勘違いしてほしくないのだが、私は、「死」に、救済も何も、なんの意味も見い出していない。所詮、生前に積み上げてきたものが消えるだけである。

 

 自分がいつかは消えてしまうのが怖くて、『死後何年で生き返れるか』などと検索したことがある。

 宗教団体のウェブサイトがいくつかヒットした。

 私は無宗派だが、そのときになって初めて、神に縋り、救いを求める人々の気持ちが、理解できた気がした。


 日本以外の国にはそこまで詳しくないので、どこの国かは忘れたが、安楽死を導入した国があるそうだ。なるほど、苦しんで、無理に延命して死ぬよりかは、自分で死ぬ瞬間を決めたほうが、トータルで見れば楽だろう。

 

 私は反対である。

 正確には、絶対に安楽死だけはしたくない。『ああ、これから私は死ぬのか。……いや、嫌だ、私はまだ生きていたい』などとなったらもう最悪だ。そもそもそんな感情に至る視点で、穏やかな死など迎えられる理由などないのだが。

 かの、一休宗純だったろうか、違った気もするが、多分違うのだが、昔のお坊さんも、今際の際には『死にとうない』と言ったそうだ。

 

 結局、死ぬタイミングと、人生に満足するタイミングが一致しない限り、円満な死は迎えられないのかもしれない。

 なら、私はまだだ。満足していないから、月曜日の深夜2時を過ぎて、「遺書」をかいているわけである。

 私が老人になる頃には、平均年齢は100歳を超えているだろう。その頃には、私が100歳になる頃には、私は人生に満足しているだろうか。

 

 小学二年生の頃からずっと、「死」への恐怖が消えない。自分がいなくなってしまうことが、美しい景色や本が、愛しい人々が見れなくなってしまうことが、この避けられない宿命が、この上なく恐ろしい。十分前の私のように、考えるとその度、眠れなくなってしまう。


 人はいつ死ぬかわからない。「君の名は。」のように、隕石が突然頭の上に降ってくることだって、否定できない。基本的に、明らかに荒唐無稽なものでない限り、思いつくパターンは、起こり得るものだと考えていい。

 だからといって、「死」を迎えるその時までてこ等に生きればいいかといえば、そうではない。

 私は、私達は、「死」を迎えるその時までは、生き続けなければならない。

 

 筆が乗ってきたところであるが、ここで筆を置く。数時間後には、家を出なければいけない。 「〜なければいけない」人生に縛られている自分の境遇を嘆いたこともあるが、忙しいと「死」について考えないで済むから、強ち悪いとも言えない。

 

 見返すとなんとも薄っぺらい、稚拙な文章を書いたものだが、これで今日の恐怖は乗り切ることができた。ろくに生きていない若造の論理として、ご容赦いただきたい。

 

 いつかは死ぬが、それは今じゃない。

 その事実に甘んじて、今日も私は息をする。

 

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生と死の間にて 雨宮 命 @mikotoamemiya

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