アイ・クライ

pta

第1話

 俺は三分以内にやらなければならないことがあった。

 冬だというのに汗が止まらない。額を拭うと酷くべたついた感触があった。焦りもある。困惑もある。が、それ以上にあるのは驚きだった。そうか、と自分自身に苦笑してしまう。俺は想像よりもどうしようもないらしい。が、とにかく氷を食べるしかないのも事実だった。

「ねえ。なんでウルトラマンって三分で死ぬか知ってる?」

 いつの日だったか彼女の美紀にそう尋ねられたことがあった。あれは確か、付き合ってから二週間の記念日にフランス料理店でディナーを楽しんでいた時のことだ。「分からないけど」と俺は困惑しながら答えた。社会人五年目で初めてできた彼女は、とても同期と思えないほど危なっかしく、軽薄だった。フランス料理店でウルトラマンの話をするのは明らかにマナー違反で、なんなら、何らかの法に、例えばフランス料理侮辱罪とかで追い出されてしまうのでは、と本気で心配になったくらいだ。

「それはね。ウルトラマンが本気を出しているからだよ」金色に染めた短い髪を撫でつつ、美紀は嬉しそうにはにかんだ。「ウルトラマンは大きいでしょ? だからエネルギーというか、生命力をバンバン使ってるんだよ。ホースから出る水みたいに、ウルトラマンから生命エネルギーがびゅーびゅー出てるわけ」

「びゅーびゅーねえ」

「愛する人を守るためだからね。それがヒーローなの」

「なるほど」

「だから三分しかもたないの。分かった?」

 分かった分かった、と当時の俺は頷いた。別に三分経ってもウルトラマンが死ぬわけではないのでは、とそう言うつもりだったが、口を止めた。あまりのくだらなさに閉口した訳ではなく、その幼さの残る無邪気な言葉が可愛らしく、水を差したくなかったのだ。

 美紀は彼女の言葉を信じるのであれば、俺と同じ26歳のはずなのだが、とてもそうは思えなかった。俺自身も真面目で大人びているとは言えないし、むしろその逆で、チャラついた人生を送ってきたと自覚はしていた。やることなすこと適当で、我ながらよくもまあ無事に生きてこられたと思う。建設業界でそこそこ有名な今の会社に、下っ端とはいえ拾ってもらえたのも運がよいとしか言えない。

 そんな俺からみても美紀はふわふわしていて、見ていてはらはらする奴だった。俺がいないと彼女は生きていていけないのではないか。どうかしてしまうのではないか、と気が気でなく、いつの間にか目を離せなくなり、気づけば好意へと変わっていた。

「ねえ。つららって何でこんなに鋭いんだろうね」

 彼女との初デートは冬の白川郷だった。俺も美紀も伝統的な建築物のわびさびを感じることはできなかったが、見慣れない大量の雪に囲まれた街を見るのはそれなりに刺激的で、楽しかった。そんな中、土産物屋の軒先で一休みしている時に彼女はふと、そんなことを言ってきた。

「自然で出来ているのに、ナイフみたいに鋭いじゃん。地球が私を殺そうとしているとしか思えないよ」

「何か地球に恨まれるようなことをしたのか?」

「人間は生きているだけで罪じゃん?」

「深いなあ」

 でも、と俺は軒下にぶら下がるつららを見上げながら言った。「地球が人を殺そうとするなら、つららじゃなくてさ、地震とか噴火の方がいいんじゃないかな。つららだと、人を殺すのは難しい」

「たしかにー」

「あ、でも証拠は残らないか」

「証拠?」と彼女はこてんと首を傾げた。その仕草が可愛らしくて、俺はまた笑ってしまう。

「そう証拠。昔ミステリー小説で、犯人が氷のナイフを使って人を殺すってのを読んだことがあるんだ。これだと氷のナイフが溶けてなくなるから、証拠が残らないんだって」

「あ! 確かに! 天才だね天才」

「でも、別に地球なら証拠なんて関係ないかもだけど」

 だったらさー、と美紀はその大きな目を更に見開かせ、口をにぱりと広げた。口元から覗く桜色の舌がちろりと動き、八重歯が雪の白さを反射して輝いていた。

「きっとそれは、地球からの愛だよ」

「愛?」

「冷たい物ずっと触っていると、感覚がなくなってくるじゃん? それで怪我の痛みを打ち消そうとしてくれるんじゃないかな。優しさだよ。愛だ」

「だったらそもそも殺さないで欲しいけど」

「それはそう」

 長らく外で話していたせいで、俺の身体は冷え切っていたが、それでも心は温かかった。とはいえ、さすがに美紀が「かき氷食べよっか」と言ってきたのには驚いた。いくら何でも寒いので止めようと提案したが、意外にも彼女は頑固に抵抗し「寒いから食べるんでしょ」と言って聞かなかった。「寒い中かき氷を食べて、頭が痛くなるのが楽しいんじゃん」

「かき氷を食べて、なんで頭が痛くなるの?」

 俺は今までかき氷を食べている際に頭痛に襲われたことがなかったため、そう訊ねたのだが、美紀は「それまじ?」とまるで宇宙人でも見つけたかのように声をあげた。「一度経験した方がいいよ。げーってなるから」

 今思えばあの頃は俺にも彼女にも余裕があった。余裕がなくなってきたのはそれから半年後のことだ。俺の余裕がなくなってきたのは単純に、仕事の都合だった。繁忙期に入ったのもあるが、直属の上司とうまく折り合いがつかず、下らない仕事が増えてしまっていた。そのせいで帰りが遅くなり、疲労とストレスが溜まっていた。時間的にも精神的にも、美紀と出かける余裕がなかった。

 そうなれば当然、美紀の機嫌も悪くなった。彼女は元々構ってちゃんなところがあり、束縛気質があった。正直に言えば、そういったところが愛らしく、自分が必要とされている実感を感じることもできたため、好ましいところだったのだが、仕事が理由ではどうしようもなかった。

 俺と美紀は徐々にすれ違っていった。とはいうものの、俺は美紀のことが好きなままだった。うぬぼれでなければ、美紀も俺の事が好きだったはずだ。

 だから、珍しく午前で帰れる今日は早く帰り、美紀に会いに行く予定だった。恋愛には多少のすれ違いは必然であり、むしろ醍醐味とも言えるだろう。

 彼女にプレゼントを買おうと思い立ったのは偶然だった。たまたま一つ上の先輩職員に「恋愛の秘訣はプレゼントの量」と言われ、丁度職場近くのショッピングモールに買いに行くことにしたのだ。件の女先輩もプレゼント選びを手伝ってくれて、もこもこの手袋を買うことができた。値段的にはそこそこしたが、痛くも痒くも無かった。最近は信じられないほど寒く、美紀もしきりに手を擦っていたため、ベストな選択のはずだった。その、満足のいく買い物に気分をよくした俺は、手伝ってくれた女先輩と駅前まで一緒に歩きながら、仕切りに礼を言っていた。高揚したテンションのまま、若干距離も近くなっていたと思う。それがいけなかった。

 先輩と別れ、路地裏を歩いている時だった。見慣れた後ろ姿の女性が電信柱にもたれかかっていて、発作的に立ち止まってしまう。凄い偶然だ、と内心で感激していたが、よくよく考えてみれば、そんな偶然があるはずなかった。

「美紀」

「仕事忙しいんじゃなかったの?」

 美紀の声は落ち着いていた。いつもの天真爛漫さはなく、どこか大人びた雰囲気で、この時の俺は、ああ、こうして人は大人になっていくんだな。感動的だな、と見当違いな感心をしていた。

「今日はちょっと早く終わったんだ。たまたまね」

「ふうん」と意味ありげな声を漏らした美紀は、「なら知らない女と歩いていたのもたまたま?」

「え」

「そんな訳ないよね!」

 美紀が何を言いたいのか分からなかった。分かったのは、彼女が僕に突進してきた時だ。

 最初は抱き着いてきたのかと思った。美紀は甘えん坊で、街の外だろうが平気で抱き着いてくるので、今回もそれと同じだと思った。

 が、違った。いつの間にか視界がくるりと回転し、真っ青な空を見上げていた。痛みは感じなかった。それどころか体の感覚がない。刺された。そう気づいたのは血まみれの美紀が泣きながら後ずさっているのを見た時だった。

 美紀は明らかに動揺していた。口をわなわなと震わせ、焦点の合わない目でじっと俺を見つめてくる。

「…ごめん」

 手にした凶器をこちらへ投げ捨てた彼女は、結局それだけ小さく呟き、走り去っていった。なんで刺した本人が謝るんだよ。なんて、そんなことすら考えられない。思考がぼやけてまとまらない。が、手元に落ちた凶器を見た瞬間、自分が何をすべきかはすぐに理解した。ふっと自然と笑みが零れてしまう。馬鹿だ。俺もあいつも。

 鈍い体を必死に動かす。自分の体とは思えないほどに体は重い。どこか遠くから遠隔操作で自分自身を操作しているような感覚だった。が、何とかナイフを掴んだ。そのまま自分の体で包むように覆いかぶさる。

「今は冬なんだぜ」

 誰に聞かせるでもなく俺は呟く。もしかすると、もはや声にすらなっておらず、ただ呻き声が漏れただけかもしれないが、そんな些細なことはもはやどうでもよかった。

「氷のナイフだって溶けやしないだろうに」

 あの時のことを覚えていたのか、とそんなどうでもいいことを考えてしまう。が、爪が甘い。甘すぎる。

 俺は何とか口を動かし、血に濡れた氷のナイフを齧った。味なんて分かる訳もない。が、ひたすらに口を動かし続ける。そうしている間にも意識は遠ざかり、瞼が重くなっていった。見ると、刺された腹から零れる血の勢いは増し、蛇口をひねったかのように溢れ出ている。気張れよヒーロー。そう自分に言い聞かせる。生命エネルギーがビュービューと腹から溢れ出ているが、気にしてはいられない。3分間くらい仕事をしなければ。愛する人を守るためだろ。

 そう自分に言い聞かせながら、ひたすら氷のナイフを食べ続ける。きっと、そろそろ完全に溶け切って、証拠が文字通り消え去ることだろう。唇は既に冷え切って、感覚がなかった。が、急に頭が痛くなる。ああ、と声が漏れた。これが噂の。なるほど。確かにこれは醍醐味かもしれないな、なんて。考えているうちに、いつの間にか意識は完全に消えていた。

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