第2話 0歳〜幼稚園卒園まで
前述の通り産まれは1995年3月4日大都会大阪弁天町。
ちょうど阪神淡路大震災があっま一か月半後ぐらいに産まれた。
そもそもあの地震の時に食器棚等が倒れてくる中、お腹だけは守ってくれた両親に感謝したい。
94,5年に産まれた人間は記憶はなくてもなにかしらであの大震災にかかわってると思う。
本当に無事産まれてくることができてよかった。
父親は地方公務員、母親は大阪の有名な水族館勤務と今聞き、特に知識がない人からすればなんでいい仕事なんだろうと思うかも知れないが、バブル期に月収を何十万も下がってでも地方公務員に転職したのはお金が好きな自分からすれば考えれないけど、転職してくれたから今の家庭環境での生活があると言えるので本当に感謝している。
シティボーイとして弁天町で産まれ、半年後に枚方市の親父の実家に引っ越した。
当時は女性が旦那の実家で一緒に暮らすのが多かったかと思うが、よくおかんは今まで我慢したなって今やっと思える。
そんな半年のシティボーイ時期から田舎に引っ越すとは思っても見なかっただろう。
とはいえ、生後半年の子どもがそんなことを考えるはずもない。
こうして、幼少期を両親、祖父母と5人で暮らしていくことになる。
ただ祖父母にしてみれば、初めての男孫。
さらに同居ときたらこんなに可愛いものはない。
おかんに怒られてもおじいが守ってくれる。
幼少期の自分からすれば、おじいは1番の味方であり、1番の理解者、1番の友達、というように当時の自分の狭いコミュニティのあらゆる1番を総なめする存在であった。
大学生の頃に、亡くなったおじいだがそれまで自分の中では世の中で唯一言われたことを素直に聞くことができるとても良いおじいだったがそれまた後ほど改めて話そうと思う。
そうこうしてるうちに公立の幼稚園に通うことになる。
年中、年長という2年制だったがここで幼稚園に行きたくなくて毎日泣いてるようなほんとにどうしようもない寂しがり屋だということが判明する。
朝はまさに戦場。あらゆる手段を用いて、幼稚園に行かないように頑張っていたのだろう。
つくづく、無意味だなと思うのと同時にあの時、おかんが無理矢理幼稚園に連れて行ってくれてよかったなと思う。
行かなくていいってなるタイプの親だったら今頃、人と話すのも苦手で嫌なことからすぐ逃げ出す人間になっていただろう。
その朝の恒例の大泣きの惨劇は一つの学期の後半には少し落ち着くのだが長期休暇後にまた大泣きという悲惨な現状が繰り返し行われる。
それは年長さんになっても一緒のことだった。
つくづく本当に大変な子どもだったなと思う。
正直、幼稚園時代はそれぐらいしか覚えてる事がないが一つ強烈だったのは、プールの時間は隣の小学校のプールを借りるという我等4〜5歳の身長では到底足のつかないプールで無理矢理飛び跳ねながら息継ぎをしていた。
今であれば大問題である。
もしかするといたのかもしれないがそこに関して問題を提起する人がいなかったのだろうか。
結局卒園するまで、弟2人が同じ幼稚園を卒園するまでも同じ方法で隣の小学校のプールを使っていたので特に変わらなかったのだろう。
特に記憶がないので、あまり確かなことが言えないがここまでが産まれてから幼稚園卒園までである。
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