第4話 不安の部屋

 音が、聞こえなくなったのが、合図だった。


 トクリトクリと一定間隔で聞こえていたはずの、彼の刻む心音がいつの間にかアルビの世界から消えていた。どこにもいかないと言っていたのにと考えたのは一瞬で、きっと離れたのは彼の意思ではない。そうだと頭では理解していても、心では裏切られたのだと錯覚してしまう。ぎゅうっ、と心臓のあたりを強く掴まれているような感覚に、アルビはただ泣きそうだった。


 コンコン、と自室のドアがノックされる。アルビはまだ覚めきらない頭のまま「はい」と短く答える。少しして「失礼します」という声とともに、数人のマスカレードたちが入室する。その光景を見た瞬間、アルビの頭は一気に冴え渡った。


「ご気分は如何ですか、我らが王よ」


 先陣を切ったのは、先ほどの老いたマスカレードだった。


「……マスカレード……。なんで」

「まだ雪も溶け切らぬ中、室外に出るなど……またお風邪を召されますぞ?」

「……引かないよ。今日は、日も出ていたし」


 アルビの言葉は、自分で思っているよりも自信が無かったのかどんどんと尻すぼみに小さくなっていった。アルビは、マスカレードたちが苦手だった。


 表情のない口角。抑揚のない声。読めない感情。唯一分かることは、性別と年齢層についてのみ。そして、アルビがまだ生まれて間もない頃からずっとこの箱庭に在しているということだけ。そんな謎めいたマスカレードたちのことが、アルビは苦手だった。


「……けほっ、けほ……」


 不意に胸の辺りがざわついたのか、アルビは空咳をした。風邪など引かないと強気に発言した手前があったために、アルビは自分が情けなく思えた。ああほら、とどこからか呆れた複数の声が彼の耳に届いた。マスカレードはアルビのための使用人ではあるが、アルビに敬意を持ち合わせてはいない。それは彼個人に対して接しているわけではなく、彼の存在そのものに対して接しているからかもしれない。『アルビ』という存在の、ただ『世話』という仕事をこなすためにだけいる使用人マスカレード。その名前を持つだけあって、今アルビの目に映る彼らの表情全てが、のように見えた。



「けほっけほっ」


 アルビの空咳は止まるどころか悪化し、アルビ自身どうして止まらないのかと気持ちが焦り始めていた。息をするのもやっとらしく、マスカレードの一人が背中を摩っている。これで少しは治まってくれるだろうかと期待をするが、その期待は空しく終わる。なかなか咳が止まらないので、見兼ねた老いたマスカレードが薬湯を煎じてこいと近くに控えていた女マスカレードに命令した。女マスカレードはそのまま、その命令を聞き届けるとアルビの部屋を静かに出て行った。


「すぐに持って参りますからな」と作り物の笑顔を貼りつけた老いたマスカレードがアルビの体を労わるようにしてベッドへと横たわらせた。妙に慣れた手つきだったために、アルビはそのマスカレードに不気味さを覚えた。今すぐにでもこの部屋から追い出してやりたいと考えていたアルビだったが、体は想像よりも体力を消耗していたらしく、彼の体は大人しくベッドに沈み込んだ。

 少しして女マスカレードが煎じた薬湯を持って戻ってきた。ふわりと臭う薬草の臭いは、知らない臭いのはずなのに、どこか懐かしく感じるのは何故なのか。


 ——例えるならばそれは、熟れた甘いのような臭いだった。


 その思考に至った瞬間、アルビの体から体温が一気に引いた。アルビは必死に薬湯を拒んだ。脳裏に過ぎる姿が、飲んでしまえば記憶の中から薄れてしまうような気がしたのだ。しかし、マスカレードはそれを許さない。アルビの暴れる体を抑え、口から溢れようが関係なく、薬湯を無理矢理流し込んでいく。地上で溺れそうになるのはこれが初めてではない。以前にも、この薬湯を拒絶したことがあったアルビだったが、あの時はこの比ではないほどの酷い飲まされ方だった。薬湯と言うからには苦味が付き物だが、アルビはその苦味が嫌なわけではなかった。甘い臭いが嫌なわけでもなかった。ただそこに、アルビノの面影が見えることが嫌だった。

 薬湯を吐き出しそうになるのを強引に圧し込められるうちに、アルビの意識は段々と薄れていった。抵抗からくる体力の消耗によるものからなのか、はたまた、薬湯の中にを混ぜられたからなのかまでは特定が難しいが、急激に訪れた脱力感に体は従っていく。全てをマスカレードに委ねたアルビの体はどんどんとベッドに沈んでいく。そしてついに彼の意識が世界との繋がりをふっつりと断たれたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る