リモナーダ
たらこ飴
第1話 トレイン・レック
彼女が踊るのを、私は視ていた。
ガラスの向こうのその身体がふわりと宙に舞い、空中でしなやかな背中が後ろに反って、鳥が羽ばたくように細い両腕が広げられ、音もなく着地するのを。
曲は、James Arthurの"Train Wreck" 。私が好きだと言った曲だ。自分のことを言っているみたいで、好きなのだと。
私はこんな暗い歌は好きじゃないよ。だけど、あなたが好きなら踊ってあげる。彼女はそう言って微笑んだ。
正確で、伸びやかで、乱れない動き。切なげな表情は、音楽の終盤になると、悲痛に満ちたものになる。バレエのように両腕を広げ、床につま先を立てて、一度、二度、回転する身体。
やがて、最後のサビの音色に呼応して、激しくなる身体の動き。
息が止まる。胸の鼓動が大きく聴こえる。全身が耳になったみたいに、音を聴く。目が覚めたら全く別の世界にやってきたかのように、開かれた目が瞬きを止める。
一度も合わなかった彼女と私の視線が、一度だけ交わった。
熱を帯びた、切なげな目。
最後、床に左膝をついた彼女は、何か手に入らないものを渇望するように、天に向かって右手を伸ばした。
ダンスが終わり、奥で見学していた他のサークル仲間たちから大きな拍手が巻き起こる。先ほどまで演技に没入していたレアの表情が、安堵に変わる。いかにも厳しそうな中年女性コーチの講評を真剣な表情で聞き、小刻みに頷く彼女は、プロの顔をしている。
その後彼女は、ガラス張りのレッスン室の外にいる私たちに笑顔で目配せして小さく手を振ると、奥の壁際に座って休憩を始めた。
「今日のレア、かなり良かったね。いつも良いけど、今日は特に」
隣のコレットは、目を潤ませている。
「超かっこよかったよね! 鳥肌立ったもん」
幼い頃から、従姉のレアのダンスは幾度となく観てきた。だが、今日の彼女は別格だ。彼女には3歳からバレエ、ジャズ、hip hopなどあらゆるジャンルのダンスに挑戦し、周囲の大人たちも驚くほどの速さで習得した。そこで培われた技術の他に、彼女には天性の柔軟性と、見るものを圧倒する表現力が備わっていた。それらをストイックともいえる努力で磨き上げて来た彼女の右に出る者は、きっとこの大学内にもいないだろう。
今日、彼女の大学を訪れようと言ったのはコレットだった。私たちはレアのダンスの見学が終わったあと、コレットの運転する車でクィーンズベル空港まで向かった。今日、6月13日はレアの誕生日で、フランスからサプライズでイダとルネも来ることになっていた。
あの結婚式からの逃避行のあと、私たち5人は、フランスでしばらくの間友情を育んだ。だが、レアの父、即ち私の叔父であるクラウドがウィーンのクィーンズベル音楽学校に講師として招かれたことがきっかけとなって、レアたち一家は、約一年前の8月にパリからウィーンに引っ越した。同時に、フランスを中心に活動していたレアの拠点もウィーンに変わった。当初、ダンサーとしての仕事を優先するために大学には入らないと言っていたレアも、両親の説得で舞踏科のある大学に入学することに決めたらしい。
同時期に、元々叔父の指揮するオーケストラでトランペットを演奏していたコレットも、叔父からのオファーによってクィーンズベル音楽学校に編入することが決まった。これまで私を支え続けてくれた従姉のレアと友人のコレットがいなくなったことは、かなりの痛手だった。
私が何故ウィーンにいるのかというと、元々は休養のためだった。私は父親からのモラルハラスメントが原因で、10代の早い時期から不安障害を患っていた。両親が離婚し父と離れたあとも、父に罵倒される夢を見ては、真夜中に起きるということを繰り返していた。モデルの仕事が多忙を極めるにつれ、段々と精神も疲弊していき、それとともに症状が悪化した。悪夢やパニック発作のみでなく、希死念慮や鬱症状も現れ、ある夜ついに私は、ウィーンにいるレアにこんなメールを送った。
【もう、全部終わりにしたい】
レアは真夜中にも関わらず電話をくれた。彼女の声を聴いた途端に、安心感とともにこれまで溜め込んできた感情が、一気に溢れ出た。私は泣きじゃくりながら現在の状況や本音を吐露したあとで、こう言った。
『レア、どうしてウィーンに行っちゃったの? あなたが一番の支えだったのに』
レアはそんな私にしばらく仕事を休むようにと提案した。
「良かったら、こっちに来てしばらくゆっくり過ごしてみたら?」
パリとは違う環境で休養を取ることは、今の私にとっては最善に思えた。子どもの頃からモデルとして活躍している私の周りには、常にパパラッチが張り付いていて、プライベートな時間もあってないようなものだった。遊びや旅行に出かけても、常に見張られているような感覚。そんなものにもほとほと疲れ果てていた。
悩んだ末に休養を発表した私は、3ヶ月前の2月にウィーンにやって来た。
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