十六錠目 女学生たちは面白い漫画を服用する。
「ああ、登紀子が描いたイラスト見たことあるよ。上手だよね。なんかすげえプロっぽかった」
典とは今まであまり接点がなかったが、こんなに親しげに振る舞われるとは思わなかった。馴れ馴れしいの一歩手前ぐらいだろうか。
とはいえイラストを褒められたのは嬉しかった。なるべくいろんなひとに見てもらえるようにしていたから、接点がないところにまで届いたのは何よりだ。
「で、本当は漫画家になりたいんだ」
と、典。私は頷く。
「面白い漫画が描けるようになりたいの」
「ほほう。絵が上手というだけではいけないんですか」
「私は面白い漫画が描きたい」
「うううん」と、典は唸る。「それは漫画家を志そうというひとは誰でもそう思うものだろうねえ」
「それはそうだろうと思う」
「そのための努力ってのは、登紀子のほうが詳しいんじゃないのかなあ。あたしは漫画そんなに詳しくないよ」
「そうだろうねえ」
私が、さほど親しくもない典のところに来たのは、面白い漫画が描けるようになる感覚がまったくなかったからだ。
お話はいくつか描いてみた。いきなり大長編漫画に取り掛かったところで完成しないだろうし、面白いかどうかもわからない素人の大作を読むのも大変だ。
漫画雑誌は新人漫画家を発掘するためにコンテストを常時開催している。その募集要項が二十ページ前後なので、それに合わせた作品を描いた。
「面白くなかったの」
「そりゃもう、絶望的に面白くなかった」
「ううう」
家人に読ませると、両親が寝て兄が寝て猫が寝て、私も寝た。
聞いたところによると、睡眠は脳のリフレッシュのために必要なんだとか。私の作品はつまらなすぎて、こりゃ寝ちまってリフレッシュしたほうがましと判断するらしい。
何しろ作者が寝る始末なのだから。
典は笑っていいのか嘆いていいのか、ともかく根っこには気の毒なと言いたいらしいものを含んだ口元になっている。
もう笑ってもらっても良かった。どうせなら漫画を読んで笑ってもらうのがいいのだけど。
「描いてる間は寝ないんだ」
皮肉のつもりで言っているのかなと思ったけど、向かい合っている相手は真面目な顔だった。
「描いてる間は楽しいもん。出来不出来はともかくとして、私は漫画を描くのは好きなの」
「ははあ」
お金を稼ぐための手段ということであれば、わざわざ漫画を描く必要はない。すでにある物語の世界を上手に描き出せれば、十分お金になる。昔から挿絵画家というものもある。イラストというものにも流行り廃りがあるので、うまく時流に乗れば、あちこちの媒体でしょっちゅう見かける、というところまで行ける。
「でも、詳しくないあたしでも漫画家の名前、数人言えるけど、イラスト描くひとって知らないなあ。まあ、漫画みたいに名前がどーんと書いてあるわけじゃないから仕方ないか」
「実は 、場合によってはイラスト誰々とか、ポスターの下の方にちっちゃく書いてあったりする」
「あ、そうなの」
「小説の挿絵なら目次あたりに」
「あ、そうだね。でもあんまり気にしないなあ。いい絵だと思ってもこのひとの絵をもっと見たいと思って調べたりはしないなあ」
普通のひとはそうだろう。私は気になれば調べるし、なんなら画集を買ったりもする。
描くのも見るのも好きなのだからそれはそうなる。思えばエンターテインメント性のある職業は概ねそうなんじゃないだろうか。音楽家を目指すひとは、気になる曲があれば、誰が演奏しているかも気になるだろう。
「ああ、だからあたしたちから見てそういうジャンルのひとたちは幸福そうに見えるんだね。好きなものでお金を稼げるのは羨ましいでしょ」
確かに会社勤めなどする場合は、好きなこと、やりたいこと、生きていくこと、の解消法が異なっている。
「ああでも、これはみんな同じなような気がする。漫画家だって描きたいものばっかりは描けないんじゃないかな」
「そうなの」
「やっぱり読者の反応とか気になるし、プロとしてやっていくならそれが優先されるようになるんじゃないかと」
もちろんそうでない特殊なニッチのひともいる。寡作なひとは自分のペースとかクオリティを大事にしている。こういう漫画家たちも羨ましくはあるけど、私自身は読者が喜ぶなら自分の要求はひとまずおいても屈託しないだろう。
「それもこれも面白い漫画を描いてからの話だけど」
「んじゃ、ちと話を戻すけど、思い切ってイラストレーターではいかんの。どうしても漫画と言うなら、お話は誰かに考えてもらって」
「要するに原作付きということだねえ」
「そうなるのかな。うん」
「そんなのはお断りよ」
「ああやっぱりねえ」
なんのために絵を描くのか。漫画を描きたいからだ。漫画として表現したいお話をもっているからだ。
「でも、猫も寝込むほどつまらないんでしょ」
「猫は寝ただけで寝込んでない。人聞きの悪いこと言わないで頂戴」
「ちょっと整理するね。登紀子の気持ちとか信念とか漫画に描ける熱い思いとか栄光に架ける虹の橋とか」
「もういいから」
「そういうのは全部ぶん投げて整理すると、登紀子は漫画家になりたい。漫画を描く技術は申し分ない。職業としてやっていこうという気概もある。漫画にしたいお話もいくつかもっている。でも肝心のお話がどうしようもなく詰まらなくておそらく漫画家になるのは難しいと」
「辛いなあ」
「お話のつまらなさを補って余りあるほど絵が素晴らしい漫画を描くってのはどうだい」
「そりゃもうお話が邪魔になるんじゃないのかしら」
おそらくその場合、お話部分を除外して楽しんでいるだろうから、イラストを楽しんでもらったほうがいいんじゃないだろうか。
「むむむ。でも、ないものねだりをあたしにされても困る。なんかこう、困るのよ。才能のないひとに才能を与えるってのは違うのよ」
「私は才能がないのかなあ」
「無いと思ったからここに来たんでしょう」
まあそうだ。見下すでもなくからかうでもなく、現実を等倍に見据えて素直に言葉にするところには好感を持った。
「でも、面白い漫画を描く才能を開発する方法なんてあたしにはわかんないし」
私も出来ない相談をしに来てしまったのだから、典の出来ないを責めるわけにもいかない。
「でも私、つまらないものしか描けないからって描くのを止めちゃったら、私も生きていけないの。私も漫画の登場人物だから」
と、告白する私の顔がアップになったコマの隣に、驚愕する典のコマ。
「なんということだっ」
ベタバックに稲妻。
「なんというあわせ鏡。そういうことなら仕方がない。あてにならないとは言え、何か悪足掻きをせざるを得ませんな。処方いたしましょう」
「お願いします」
つっても、登紀子が漫画家であろうが登場人物であろうが、彼女が紡ぐ物語はさっぱり面白くなく、ご当人が寝込んでしまうという筋金入ったつまらなさである。
「寝ただけだから。寝込んでないから」
でもまあ、漫画が面白くても、漫画を描くひとの人生が面白いかどうかはわからない。更に言うなら、面白い漫画を描くひと自体が面白くても、漫画を描くという行為自体を客観的に「読んで」面白いかどうかは考える余地がある。興味があるひとならば、漫画を描くひとの手先は研究対象だろう。が、あたしからしてみたら、机に向かって紙に何かを描き込んでいるだけのひとは、事務員さんが書類を作成している姿とあまり違いがないように思える。
「そうかあ」
と、登紀子。
ならば登紀子の毎日を面白おかしくしてやればいいか。不意に理由もなく現れた象に踏み潰された登紀子が次のコマで「いてて、死ぬかと思った」と言いながら立ち上がるというお話を描いたとして、そもそもこれは面白いのか。登紀子の言う漫画の面白さとは違うんじゃないか。
「私はギャグ漫画を描きたいわけじゃないから」
「ぬう。毎日」
「はい、毎日」
「毎日、二、三百円くらいのコンビニスイーツを召し上がるようにしてください」
「え、毎日。きつくないそれ。経済的にもダイエット的にも」
「登紀子は描くひとで描かれるひとなんだからどうにでもなるでしょう」
そう言えばそうだった。私はテストの成績が良かったご褒美にコンビニスイーツを毎日食す権利を両親からもぎ取ったのだった。
そんなもののために好きな漫画を読む時間を削ってまでテスト勉強を頑張ったのは、実はスイーツ界の元締から密命を受けていたからだ。
スイーツを絡めて漫画を描いてもらいたいんや。そや。まずはコンビニスイーツからや。身近なもんから広めていってやな、ええか、まずは関東を落としたるんや。登紀子はん、頼みますよ。
いつの間にか私は、闇のスイーツ仕掛け人として組織に加えられていた。
元締に指定された人物に近づき、仕事や学業などで軽い疲労感を感じたところでさり気なくスイーツを差し出し、やがてはスイーツから離れられなくするという活動を行う羽目になっていた。
その闇スイーツ洗脳組織が何を目的としているのか、作者である私はまだ何も考えていないし、登場人物である私はまだ知らされてはいない段階だ。
ともあれ乱暴な話だが落ちだけは決まっていて、正義に目覚めた私が組織に反抗し、元締からの刺客を返り討ちにし、元締めを倒して終わる勧善懲悪の娯楽作品だ。
元締の最後の台詞は当然、わしはお前を甘く見てたっちゅうことやな。で決まり。
で、これが面白いかどうかだが、他人に私の漫画を読ませるときは必ず、程よいタイミングでさり気なくスイーツを差し出すようにした。なに、どこで誰が読んでいようと作中登場人物の私がさり気なく差し出すのだから、気がつけば眠る前にスイーツを食している。甘いものを食べたあとなので、読後感もなんとなく幸福になるのだろう。評価は上々のようだ。
それが漫画の面白さかどうかなんて、私にとってはどうでも良い。甘いもののおかげだろうがなんだろうが、私の働きでしまいまで読んでもらえたのだから、今のところはそれで満足することにした。
しかし漫画家としての私は精進しなければならない。甘いものだけでは足りないのだ。典にちゅ、てしてもらわなくてはネームが進まない。
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