十錠目 女学生たちは野球を服用する。

 というわけで、ちゅ、として奈々の相談は終わった。

 恥をかいた甲斐があるというものだ、としておこう。

「ね、頼むよ。他にいないんだよ助けてもらえそうなひと」

と、あたしの前に座ったひとはたいてい言うから、そのときも相談だと思っていた。

 どうせ相談だろ、などと思い上がっていたのかも知れない。それを思い上がりと言うかどうかわからんけど。

「ナオが自転車でこけて骨折したんだってさ。それで人数が足りなくて。頼むよ、あとひとりがどうにもならないんだよ。このままじゃ試合が出来ない」

「え、試合」

「試合だよ、さっき言ったじゃん。先輩の引退試合。野球だから九人必要なんだよ」

ああ、野球ってのは十一人じゃないのか。

 いまのいままで球技はおろかスポーツ全般興味がないから知らなかったが、季節的にどの競技も大会だとかなんだとかが活発に行われていて、運動神経があてになりそうなひとは出払ってしまっているそうだ。

「あ、いや、だからそれ以外からってわけじゃないのよ」

「遠慮しないでいいよ」

いろんなひとに聞いてみたが断られ続け、いろいろ相談に乗ってくれると聞く典なら引き受けてくれるんじゃないかとなったらしい。

「あたしは運動全く出来ないよ」

「だいじょぶだいじょぶ」

スポーツで運動が出来なくてだいじょぶなわけはないだろうから、気休めなのだろう。引退試合と言っていたし、セレモニアルな感じで勝敗は問わないのかも知れない。

 それからごたごたとあっていくらかはさせてもらえるんだろうと思っていた練習も全くできなかった。それどころかユニフォームも当日合わせるような始末だった。先輩が残していったものが何着かあるからと着せられたのだが、着ることが出来たのはだいぶ大きめだった。

「典、かわいい」

「野球選手を目指す小学生みたい」

声援が飛んでいるが、冷やかしとも言う。みんなに断られたと言うが、観客になっているひとたちがいるのは腑に落ちない。

 最初っからあたしのところに来たんじゃないかと訝しむが、ここまで来てごねるのもどうだろう。

 ファンがいるならサービスをするべきだ。軽く手を振るときゃあきゃあと歓声が上がる。

「典、大人気だわね」

「からかわれてるんだよ」

「ごめんね、無理言って」

「気にしないで」

あたしに頼まざるを得なかったという時点で、かなり深刻な悲劇的局面と言える。手助けになるならそれに越したことはない。

 大きな防具をつけた、選手よりも地味めなひとが両チームに整列するよう促す。主審なんだそうだ。

 並んでみると、相手のチームのほうが人数が多い。野球は九人でするものだと聞いていたから意外だった。おんなじ数でないと試合は成立しないんじゃないだろうか。

「私達は後攻だから、まず守備に付くよ。あ、典、グローブ持ってきてないね」

「うん」

野球には先攻と後攻があり、挨拶をしたら後攻は守備に付くらしい。みんなそのための準備をしていたが、あたしは手ぶらで来てしまった。奈々が走ってボールを受ける用の巨大な手袋を持ってきてくれた。

 申し訳ない限りだ。

 対して先攻である相手チームはバットと呼ばれる棒を持って振り回している。あれはなんとなく流していたニュース番組で見たような気がする。ホームランがどうこうと言っていたから、あの棒はホームランをするための道具なのだろう。振り回しているところを見ると、ボールを打つんじゃないだろうか。

 ははーん、なるほど。

 奈々のチームは後攻で、真ん中の盛り上がっているところに立っているひとがボールを投げている。ピッチャーというらしい。棒を持っているひと、バッターというのだが、バッターはまだ離れたところにいるから、今ボールを投げているのは練習か何かか。

 野球というのは、後攻のピッチャーがボールを投げて先攻のバッターがホームランを打つ、というところから始まるようだ。

 打ったボールが飛んでくるからあたしたちはそのボールをこのでっかい手袋で捕る。素手で捕ったら痛いからだろう。

 後攻と言いながら手順としてはピッチャーが投げないと始まらないのは矛盾しているような気がするが、これはあたしの理解が足らないからかも知らん。

 ちなみにピッチャーを努めているのが、今日で引退となる奈々の先輩らしい。わざわざあたしみたいな低能力のところに来て、奈々が無理言ってごめんねありがとね、と労ってくれた。

 主審が右手を上げてうやいおー、と叫んでいる。意味がわからなかったが、プレイボールと言っていたらしい。

 バッターが進み出て、主審の近くに立つ。主審の足元には奈々のチームのユニフォームを着て、防具をたくさんつけたひとがでっかい手袋を構えている。ピッチャーが投げる球をキャッチするひとで、キャッチするからキャッチャーと言う。

 ピッチャーがボールを投げるために動作を始める。訓練された動作というのはあたしみたいなものが見ても美しくそして力強い。全身が鞭のように翻り、ボールが放たれる。

 ぱん、と乾いた音を立てて、ボールがキャッチャーの手袋に収まる。一瞬の静寂のあと、奈々のチームの観戦者たちが、凄い、速いと声を上げ、相手チームの選手たちは動きが止まり静かになっている。人間が本気で腕を振ると風を切る音が聞こえるなんて知らなかった。見事な所作に感動して、声を上げるひともいれば静かになるひともいる。スポーツの観戦というと騒がしいものだと思っていたが、やはりひとそれぞれなのだ。

 ピッチャーは自分の時間を刻んでいくように、一定の間隔でボールを投げる。先攻はバットを振るけど当たらない。なるほど、ニュースで流れるくらいだから、なかなかホームランというものは出ないのだ。

 と、思っていたら、ボールがバットに当たり、あたしのほうにボールが飛んできた。低く速い。来たと思ったらあたしの右脇をすり抜けてどこかに行ってしまう。

 悲鳴が聞こえる。いや、笑い声かも。

 慌てて取りに行ったが、見失っているから探すところから始めなければならない。

 やっと拾ったときには、遠くにいたはずの奈々が近づいていて、「典、こっちに」

と叫ぶ。

 ボールの投げ方はよく観察していた。試合が始まってからずっと見ているんだから、あのように投げればよい。

 あのように投げればボールがピぴゅーと、ぴゅー。

 ぽてぽてぽて。

 あたしから二メートルくらいのところを転がっている。奈々は凄い勢いで駆け寄り、それを拾って投げようとした。

 が、動きを止める。

 相手のチームから歓声が上がり、打ったバッターとハイタッチなどしている。なにかいいことがあったのだろう。

「典、気にしなくていいからね」

「はい」

と答えたが、気にしなくていいということは、本来は気にするような出来事があったのだろう。

 これは試合だ。敵と味方がいる。敵が喜んでいる状態というのは、味方には芳しくない有り様のはずだ。あたしはなにか失敗して、そんなことになってしまったのだ。

 やっちまったか。まだ始まったばかりなのだが。

 先輩ピッチャーもこっちに笑顔を向け、手を振っている。

 こりゃだいぶやっちまったんだなあ。あたしは軽く頭を下げつつそう思った。

 ともあれ次のバッターは打つことが出来ず、敵の攻撃は終わった。

 守っていたみんなが走り出して、椅子が並べられているところに戻る。

「先輩、よりによって典のとこに打たせなくても」

「ああごめんごめん。振り遅れてるから適当に放ったら当てられてしもた」

「ははあ」

ピッチャーは打たせたいところに打たせたり出来るのだろうか。そうすると、ホームランというものはピッチャーが打たせているのだろうか。打たせているのに守っているというのも、素人目には矛盾しているかのように見える。

 ともあれ奈々のチームの攻撃が始まる。

 相手のチームのピッチャーが投げるボールは、こちらのよりも遅いように感じられた。見る場所が違うからあてにはならないが。

 だからなのかどうか、奈々のチームのバッターはよく打った。三人が打ってふたり帰ってきた。点数を書き込む黒板のようなものが設置されていて、2と書き込まれた。打った回数と得点が合わないが、みんな何も言わないのだから素人が口を挟んでも仕方ない。

「こりゃ、典に打順が回ってくるね。バット持ったことある」

「バックもあまり持たんくらいで」

「面白いこと言うねえ典は。典は右利きだよね。ここをこう持って、こんな感じで」

打ち方を教えてくれているのだが、これで打てるものなら、部活動で暗くなるまで練習してるひとたちは立場がなかろう。

あたしの前までみんな打ってしまって、打つ番になってしまった。先攻のチームはもっと短い時間で打つのを終わらせてしまっていたが、こっちはずいぶん長い。先攻後攻というくらいだからバットを振る方は攻撃をしているのだ。

 あたしも打たなければならないのだろう。野球において、ボールをバットで打ち返すのが攻撃だ。あまり積極的に前を向く性格ではないけど、与えられた役割は全うしておきたい。

 が、打つところに立って見るピッチャーの球はとんでもなく速かった。ボールをよく見てね、と助言されたが、見れば見るほど手が出ない。が、そもそも振らなければ打てない。だいたいここらあたりで手を離してるんじゃないかなあというタイミングだけでバットを振ってみた。

 こつ。

 手応えがあった。打った、と思いつつ見送った先で、あたしが打ったボールが捕られていた。素早い動きでボールが転送されて、奈々のチームからあああ、と声が漏れる。

 何が起こったのかわからないまま、打ったらそこに行けと言われたベースに立ち尽くしていた。

「典、惜しかったね。交代だよ」

「ふえ」

打っただけでは駄目なのだろうか。ともかくあたしはまた何か失敗したのだろうと理解はした。あれだけ続いていた攻撃が、あたしが打ったおかげであまりにもあっけなくきれいさっぱり終わったのだから。

 こんな感じで攻撃と守備が入れ替わりながら進行するのが野球というスポーツらしい。

 奈々のチームのピッチャーはその後は全く打たれなかった。ボールがバットに当たらないのだ。当たらなければ点数が入らない。従って、相手チームにはあたしのところに飛んできた時の一点だけしか入っていない。

 逆に奈々のチームは毎回長い時間攻撃して、毎回三から五点取って、あたしのところで交代になった。

 そんな調子だから、五回の攻撃が終わった時点で点差がとんでもないことになっていた。なんとなく相手が気の毒にも思えたが、一点を差し上げたのも、攻撃を終了させてあげているのもあたしなのだ。

 まるで敵軍のスパイのようではないか。スパイの奮闘ぶりに比較して本国の体制はあまりにも貧弱ではあったのだが。

 そんな感じで、奈々のチームの勝利で終わった。

 試合終了も整列で迎える。お互いに礼をすると、相手チームの選手が数名、泣きながら奈々のチームのピッチャーに抱きついたりしている。

「うちのピッチャー、近隣じゃ割と有名なのよ。ファンが多くてね」と、奈々が言い「今日はありがとね」と続ける。

あたしは勝手に、奈々のチームを、弱小な上に人数が揃わないかわいそうな状態だと思っていたのだが、実際にはむちゃくちゃ強いのだった。あたしを入れても勝てくらいだからひとり欠けていてもどうにかなったんじゃないかと思うけど、いくらなんでも相手に失礼だと奈々は思ったようだ。

「いや、貴重な体験をさせてもらって」

「辛かったね、ごめんね」

「いや、楽しんだよ、だいじょぶだいじょぶ」

「んでさ、私、野球やめようと思って」

ここからがいつもの、あたしの席での光景になる。女学生の奈々は、寂しそうな、さっぱりしたような、どこか力の抜けた表情。

「あんなに上手なのに。頑張ってきたのに」

「頑張ったからさ。もういいかなって」

燃え尽きた、ってことか。

 野球をする女子というのはそれほど多くはないらしく、奈々はいつも人集めに苦労していたらしい。数人頭抜けた選手がいたおかげでここ二年ほどは近隣では強いと言われていたが、

「先輩が卒業したあとまた人集めしなくちゃなんないのかと思うと憂鬱でさ」

あたしに応援要請をするくらいだから、奈々はそういう役回りでもあったのだろう。

「野球を楽しむためだっていろいろやってみたけどね」

部外者は色々と考えるし言いたくなる。部活動なんだから先生にも何か言われるだろう。奈々を引き止めるのならばそれは他の人の役割だ。

「でさ、野球やめて何しようかなって相談を典にしたいわけ」

「ははあ。せっかくだからゆっくり考えたらいいんじゃないの。あたしのあれは、もうちっとやべえ状態でないとうまくいかんので」

「やべえ状態ねえ。なんかいらいらするから部活のバット十本とボール三十個盗んで自分の部屋に転がしてあるわ。部活のみんな知ってるけど、なんかやべえって内緒にしてくれてんの」

「そいつはやべえっすねえ。もはや精神科の領域じゃないかと思うんだけど、処方してみましょう」

「お願いするわ」

実際に自分でやってみたせいか、あれやこれやと擦り合わせをする必要がないようで、すぐに答えが出た。

「のらくらさん、乗鞍之宮神社はご存知ですか」

「知ってるよのらくらさん。そういや昔はお祭りとか行ってたなあ」

「毎日そこまでジョギングしてください」

「けぇ、結構な距離あるよ」

「野球やめたら時間あるじゃないですか。ま、気が向かないときは無理しなくてもいいですし、やりたくなければやらんでもいいです。どうせあてにならんプラセボですからねえ」

「わ、わかったよ。やってみるよ。なんか怖いよ顔が」

「あ、ボールとバットは返却しておいてくださいね。事情はともあれ犯罪ですからね」

「わ、わかったよ」

走り始めてみると、ただ走るのは案外楽しいもんだなと思い始めていた。

 ボールとバットはすでに返却した。

 野球というのは守備と攻撃で全く違う運動になる。道具も取り替える。攻撃隊と防衛隊に分かれたほうが合理的ではないかと思うくらいだ。出場できる選手に制限がなければ、プロはそうなっていてもおかしくない。現に代打がいるし、守備固めで起用される選手はいる。

 つまりそれだけしちめんどうくさいゲームなのだ。しちめんどうくさいところを面白いと思っていたのだ。

 だからただ走れって言われたときは、すぐ飽きちゃうんじゃないかと思った。野球部ではよく走ったけど、体力づくりとしてなのだ。好んでやったわけじゃあない。

 学校の外を走ると、当然だけど景色が変わる。頭の中の情報が次々と入れ替わる。気をつけていないと車や人にぶつかりそうになる。全力ではいけないが、歩くってのもなんか違う。女学生がひとりで走るなら毎日コースを変えたほうがいいというのをネットで見かけた。おかしなのに尾けられる可能性があるらしい。

 社会というのは危険に満ち溢れているわけだ。

 学校が絶対安心ではないけどさ。

 だから、ちっとも退屈はしなかった。野球に戻りたいとも思わなかった。このままだと廃部だと言われたけど、私がいたときだって試合すら危ない有り様だったのだ。人数が揃ったから帰ってきてくださいという話ならわからなくもないけど。

 でも、心残りがまったくないのだから、そもそも飽きてきてたのかも知れないけど。

 神社に到着して、たまにはお賽銭を投げて柏手を打って、ま、なんとなく無事で、とお願いする。ときどきは巫女さんがいて、あ、どうも、となんとなく頭を下げる。

 なんとなく下げていた頭だけど、会話のきっかけになってしまった。

「私も昔、野球やってたよ」

「あ、そうなんすか」

「私のときもひとが集まんなくてね」

その結果、ではないんだろうけど、巫女になるのか。人生ってのはどうなってんのかなあ。

「巫女は面白いっすか」

「やってみる」

「いや」

「やってみれば」

「いやあ」

「一緒にやろうよ」

「はああ」

「んで、野球も一緒にやらない」

「ええっ」

この巫女さんは、神主さんの娘さんなんだそうな。そんでもって近くにクラブチームがあって、旧知のひとから誘われているんだという。

 私はまた、野球をやることになりそうだ。なぜなら、この巫女さんが好きになったからだ。先輩も誘ってみようか。そしたら私は好きなものに囲まれて、野球をすることができる。部活のみんなも誘ってみようか。

 バットやボールを盗んで、いや返却はしたが、今度は部活のみんなを盗む計画なのだ。後ろめたさに耐えられない。

 典がいけないのだ。ちゅ、くらいしてもらわないと。

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