或る姉妹と水牛の群れと世界の終わり
谷沢 力
或る姉妹と水牛の群れと世界の終わり
「貴方には、3分以内にならなければいけないことがあるのよ。」
妹が最期に、私に与えた言葉の一群は、そんな始まり方をしていた。
「まずは東を向いて、朝日を見て頂戴。貴方はその光を、美しいと感じるはずなのよ。」
私は東を向いて、朝日を見た。見入った。魅入られた。
悔しいけれど、完全に妹の予想通り。
「次に下を見て、地球を見下ろして頂戴。何が見えるのか、貴方が何を感じるのかは、わからないけれど、とにかく、見て頂戴。」
私は下を見て、地球を見下ろした。
地球は青くはなかった。
なんだか、茶色と赤色のドロドロが渦巻いていて、酷く燻んで見えた。信じられる気がしなかった。つい数日前まで私はあの、汚れた大地の上に両足をくっつけて立っていたのだという当たり前のことを。あの、可愛らしい妹がついさっきまででドロドロの上のどこかに立っているということも。そしてもう、妹は立ってはいないのだろうということも。
ふと手を伸ばしたなら、あの子の、やけに冷たい掌を取れる気がする。
◯
世界の終わりの始まりは、地方新聞の26面から始まった。
「バッファロー、脱走する」
見出しと一緒に、15行程度の説明が載っていた。
動物園で飼育されていたバッファローが一頭脱走した。というだけのニュース。こんなニュースを取り上げるのは、地域密着型のワイドショーか小学生くらいだ。
私はそのニュースをTwitterで見かけて、記事を開くこともないまま3秒でスクロールした。私にとっては、そんなくだらない世界の終わりの始まりよりも、欠かさず見ていた深夜アニメの感想TLの方が10倍も大事だったから。
あの頃、まだ小学生だった妹は無邪気に、バッファローについて喋った。体長が3メートルくらいであること、体重が700〜1200キログラムくらいであること。天敵としてコモドオオトカゲが挙げられること。そんな、 WIkiで調べればすぐに得られる情報を、まるで人生における重大事項であるかのようにひそひそ声で、私に教えてくれた。
◯
脱走したバッファローはたった一日で動物園の職員の方に捕縛された。二頭とも。
これはちょっとした大ニュースになった。脱走したのは一頭のはずなのに、帰ってきたのは二頭だった。なんて事件は、話題集めに日々苦労している衆人の耳目を否応なしに集める。
全国区のワイドショーが取り上げたし、新聞は(相変わらず26面だったけれど)説明を30行にした。私も、タブを開いて記事を全文読んだ。
妹は「宇宙人の作ったクローン」だとか「22世紀の道具」みたいなことを嬉しそうに話していた。
数日後、カナダ政府が「ウッドバッファロー国立公園に生息するシンリンバイソンが5000頭から10000頭に増えた」ことを発表した。
これはちょっとした世界的ニュースになった。CNNもBBCもトップで取り上げたし、新聞も1面で報じた。世界中のありとあらゆるメディアがバッファローを見つめた。
一週間たって、ウッドバッファロー国立公園に生息するシンリンバイソンの数は20000頭になった。
あの動物園に飼育されているバッファローの数は20頭になった。
バッファローはどうやら5〜6日周期で2倍になること。コピーバッファローはコピー元と全く同じ形質を持つ「完全なクローン」であること。分裂する瞬間を我々人類が認識することは極めて困難であり、増殖のメカニズムを解明するのには膨大な時間が必要になるだろうこと。をどこかの機関が報告した。
妹は「めちゃくちゃ早く走るバッファロー、マッハロー」と言ってケタケタ笑っていた。
◯
バッファローが進撃を開始したのは、彼らが増殖を開始してから五年がたった、ある春先の寒い日のことだった。
◯
人類は増えるバッファローの恩恵を存分に受けていた。
例えば、スーパーのお肉コーナーには鶏肉豚肉牛肉全てを合計してもまだ足りない量のバッファロー肉が並んでいる。
バッファロー肉は勝手に分裂し、ほとんど無限に生産することができるために生産コストがかからない上、メタンなどの温室効果ガス排出量が極端に少ないからだ。
例えば、世界から飢餓が消えた。バッファロー肉を食料困窮者に直接届けることができたし、何より、みんなバッファロー肉を食べるようになったおかげで家畜の飼料になるはずだった穀物が大量に余ったからだ。
確かにバッファローが元になって起こった争いや諍いもあったけれど、バッファロー以後の世界は概ね良くなっていた。
そんなバッファローユートピアとでもいうべき世界で、私は18歳を迎えたし、妹は16歳を迎えた。
そう、あの日は、気分が重くなるような曇天で、みんな自分の合否を気にしていて、そして私の高校卒業式だった。
3年間高校に通い続けたことを保証してくれる紙をもらった後、私は、父と母と妹と、垂れ幕の前で記念撮影をしていた。
その時、私は生まれて初めて蹄が地面を打ちつける音を聞いた。
◯
そこから先のことはよく覚えていない。
覚えているのは、父親と母親はバッファローの渦に巻き込まれて死んだということ。
私は妹の手を引いて必死で逃げたこと。
私が3年間通い続けた学舎は一瞬で崩壊して、卒業証書も渦にのまれ、つまり、私の3年間を保証してくれるものはすべてなくなってしまったこと。
それくらいだ。
テレビが、新聞が、Twitterが、あらゆるメディアが、バッファローの行軍を報じた。
どうやら世界中、全てのバッファローが、全てを破壊しながら突き進み始めたようだった。
そしてそれを、人類が止めることはできない。
バッファローユートピアは、一日にしてバッファローディストピアに裏返った。
◯
バッファローが走り出してから数日の間は「大物科学者」とか「人類滅亡論者」とかがひっきりなしに登場していたテレビも、もう砂嵐しか映さなくなった。
それからさらにしばらくすると、テレビはもう、暗闇しか映さなくなった。
人類が数千年かけて作り上げた文明は、急速に瓦解していった。
バッファロー達が巻き上げた塵は大気を覆い、日光を遮った。
星は見えない。
お天気は、曇り時々雨、常に雷。
世界の平均気温は四度も下がった。
いろんな生命が死に絶えた。
けれども、バッファロー達は走り続ける。
死んだ側から、コピーが生まれる。コピーが死んだら、コピーのコピーが走る。そうして彼らは走り続ける。
きっと、この世の全てを、自分自身さえも破壊し尽くすまで止まることはないのだろう。
そんな世界で、私は20歳を迎えたし、妹は18歳を迎えた。
私たちは、まだバッファローに踏み潰されていない廃墟を転々としながら細々と生きている。
毎日缶詰とかなんとかを食べて生きている。
◯
寒さを凌ぐため、窓に段ボールを貼りながら妹が言った。
「ねぇさん、ねぇさん。私たちは、いったい、どこまで生きるのでしょうね?いつまでもこうして、廃墟をねぐらにして生きていって、いったい、どこへいくのでしょうね?」
私は、埃を被った布団を叩きながら言った。
「さぁね。それはわからないけれど、きっと、いくところまでいくのだろうね。私は、お前が生きている限り、生き続けてしまうのだろうね。けれども、お前が死んだら、私も、死んでしまうのだろうね。」
妹は私に近づいて、言った。
「それは、いけない。ねぇさん。あなたは、生きなければらならない。いいえ、私からのお願いよ。」
そうして、キスをした。
私達は目を瞑って、手のひらを組み合わせた。
妹の掌は、やけに冷たかった。
◯
世界は、滅んだ。
滅亡した。死んだ。
全てを破壊しながら突き進むバッファロー達によって。
もう、人とすれ違うこともなかった。
世界には私達しかいない様だった。
◯
ある時、打ち捨てられたロケットを発見した。正確には、今まで使っていたねぐら《・・・》が打ち捨てられたロケットだったということを発見した。人工冬眠装置も発見した。
私たちは、ロケットを飛ばすことにした。
最後の人類として、宇宙空間に打って出ることにした。
人工冬眠をすれば、数百年くらいなら生きることができる。そして、どこか私たちより遥かに優れた知的生命体に助けてもらうのだ。
それは、途方もなく絶望的な計画だった。
けれど、妹は言った。
「1秒でも長く、1%でも高い確率で、あなたに生きて欲しいのよ。」
それは、切実な願いだった。けれど、その願いを叶えることはできなかった。
いくら宇宙工学が発展したバッファローユートピアの時代であっても、乗組員だけでロケットを飛ばすことなんて、不可能だ。
どちらかが、地上に残って、管制しなければならない。
だから、私も言った。
「1秒でも長く、1%でも高い確率で、お前に生きて欲しいのだ。」
それは、人類最後の姉妹喧嘩だった。
そして、妹が勝った。
気がつくと私は、耐圧服を着せられて、暗くて狭いところに押し込められていた。
私は、力一杯叫んだけれど、通信回線は切られていた。
轟音がした。
体全体に、力がかかる。6G、約300キログラムの力がかかる。
「さようなら」
刹那、回線が開かれ、その一単語だけが、私の耳に流れ込んだ。
彼女の震えた声の後ろに、蹄の音が聞こえた。
◯
フッと力が抜けて、体が楽になった。
第二宇宙速度に達したのだろう。
これから3分後に、私は人工冬眠に入る。
ただ、生きるためだけに。
「カチッ」という音がした。
見ると、カセットデッキが壁に括り付けられていて、そこから音が再生されている。
懐かしい、ついさっきまで聴いていたはずの声が聞こえた。
◯
「貴方には、3分以内にならなければいけないことがあるのよ。」
妹が最期に、私に与えた言葉の一群は、そんな始まり方をしていた。
「まずは東を向いて、朝日を見て頂戴。貴方はその光を、美しいと感じるはずなのよ。」
私は東を向いて、朝日を見た。見入った。魅入られた。
悔しいけれど、完全に妹の予想通り。
「次に下を見て、地球を見下ろして頂戴。何が見えるのか、貴方が何を感じるのかは、わからないけれど、とにかく、見て頂戴。」
私は下を見て、地球を見下ろした。
地球は青くはなかった。
なんだか、茶色と赤色のドロドロが渦巻いていて、酷く燻んで見えた。
「それから、星達を見て頂戴。見上げて頂戴。どうか、私のことを思いながら。」
私は星達を見た。見上げた。
そして、妹について思った。想った。
久しぶりに、本当に久しぶりに見る星は、綺麗だった。
もう何も考えられなくなるくらいに、綺麗だった。
けれど、私には一つだけ、疑問があるの。
宇宙には大気がないから、瞬かないはずなのに、
こんなにも星たちがゆらめいて見えるのは、どうして?
或る姉妹と水牛の群れと世界の終わり 谷沢 力 @chikra001
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