第五十三話 献身の真心


「……よし、こんなもんだろ。もう動いてもいいぞ」

「ほんと? ありがとね!」


 やっと唯の髪を拭き終わり、わずかに残っていた湿ったさもなくなったので、彼女を解放してやる。

 ただ拓也と同じように髪のべたつきが完全に取れたわけではないので、後でお湯か何かで洗い流さなければいけないのは変わりない。

 あくまで今やったことは、水気を取っただけなのだから。


「まだ若干ベタベタしてるのは取れてないから、後でシャワーで流しておけよ? わざわざ言わなくても大丈夫だろうけど」

「えへへ。ちゃんと手入れはやっておくよ。まだまだ髪も傷めたくはないからね!」


 そう言ってストレートの美しい髪を撫でる唯の姿は、なんてことのない仕草でさえ様になるほどに美しく感じられる。

 実際、相当な手間をかけてその艶や指に絡むこともないサラサラとした滑らかさを保っている唯のロングヘアは、膨大な苦労を重ねて保たれてきたものだろうし、その断片を思うだけでも尊敬できる。


 そんな唯の姿を温かい目で見守っていると、背後から颯哉が声をかけてきた。


「…なぁ拓也。もうわざとやってんのかと言いたくなるんだが……一言だけ言わせてくれ」

「なんだよ藪から棒に。どうした」


 一通り用事が済めば、神妙な面持ちで話しかけてきたので何事かと思って聞く態勢に入る。

 いきなりそんな顔つきになって何を言われるのかと思わず身構えてしまうが……放たれた言葉は予想の遥か斜め上のものだった。


「…お前らはもっと周りを見ろ。じゃないと死人が出る」

「本当に何の話だよ」


 突拍子が無さすぎて即答してしまった。

 それに周りを見ろと言われても、何でそんなことをこいつから言われなければならないのか。

 そう思って反論しようとするが、その前に颯哉から更なる言葉が重ねられる。


「あのな。俺からしたら気づいてないお前の方に驚愕だが、お前たちの行動で周囲に甚大な被害が出てんだよ」

「何が言いたいんだよ……。別に何もおかしなことはしてないだろ?」

「これ以上は俺の口からは何も話さん。あとは自分で考えて気づけ。というかさっさと気づいてこのもどかしさをどうにかしろ!」

「ええ……。なんだよその無茶ぶりは」


 なぜか腹を立てたようにまくし立ててくる颯哉の圧力に言い負かされ、返事を返すことすらできずに強制的に会話が終了させられた。

 隣でそれを聞いていた唯も不思議そうに首を傾げているが、正直俺自身もそんな気分だ。


「まあまあ。二人には二人のペースがあるんだから、それくらいにしておきなって。もどかしいってところには同意するけどね」

「真衣まで何言ってんだよ……」

「べっつにー? ただ私たちは誰かさんの背中を叩いてやりたいだけだもんねー」

「意味がわからん」


 意見を同じくしているらしい真衣にまで理解できないことを告げられ、拓也の脳内はさらに困惑を極めていきそうだ。

 だがこんなところで考えていたところで答えが出るとは思えないので、放っておいてもいいだろう。


「まあそれは良いけど、これからどうするよ。このまま解散するか?」

「俺と真衣からしたら何もよくないんだが……そうだな。どっか寄って行ってもいいんじゃないか?」

「さんせー! まだ歩くのにも体力戻ってないし、どっかで一休みしていこーよ」

「いいんじゃないかな。焦って帰るほど時間に余裕がないわけでもないし、私もそれでいいよ」

「なら、どっかで場所探すか。この辺も飲食店とか結構あったし、ファミレスとかでもいいだろ」


 朝方に散策していた時に、周辺の地理はあらかた把握しておいたので、どこに何があったのかは大雑把ではあるが記憶している。

 その記憶通りなら割と休める場所も豊富だったはずなので、休み場所としては事欠かないはずだ。


「ファミレスかぁ……。ドリンクバーでまた混ぜ合わせでもする?」

「お前がやると暗黒物質しか作らないだろうが。却下だ却下」

「ちぇー。つまんないな。なら唯ちゃんと飲み比べでもしようかな!」

「えっ!? 私!?」

「唯を巻き込むな。それで体調を崩しでもさせたらマジでシャレにならないだろ」

「ちゃんと飲めるものにしますー。それならいいでしょ!」


 真衣の言っているドリンクの混ぜ合わせとは、その名の通りファミレスのドリンクバーで様々な種類の飲み物を掛け合わせて飲むことだ。

 それ自体は別に美味いものが出来上がることも多いのでまだ許容しているのだが……問題はハズレを持ってきた時だ。


 彼女の強すぎる好奇心や冒険心から生み出されてしまった、ダークマターとでも表現すべきあれは、もう二度と味わいたいとは思えなかった。

 残すわけにもいかないので気合いで飲み干してやったが……最悪の記憶だな。


「真衣のドリンク組み合わせか……。俺も辛い目にあってきたもんだ」

「…ねえ、拓也くん。舞阪くんが遠い目になってるんだけど、何があったの?」

「…あんま気にすんな。少し昔に悪夢を見たってだけだ」

「それは気になるんだけど!? え、私そんなの飲ませられるの?」

「唯ちゃんにはちゃんと飲めるの渡すよ! そんな怖がらなくても大丈夫!」


 昔を懐かしむように、遠くを見つめだした颯哉に関しては……うん。

 一つだけ言うことがあるとすれば、彼は真衣と付き合っている分、その機会が多かったというだけだ。


「それじゃ、ファミレスに向けてしゅっぱーつ! って言いたいけど、道わかんないから案内してくれる?」

「…最後まで締まらないな、お前は」


 行き先までのルートも知らずに歩き出そうとしていた真衣に呆れながらも、拓也が先導して目的地へと向かって行く。

 がやがやと賑やかな一行は、一時の休息の場へと歩いていった。





     ◆





「ふぃー……。何とか席が空いてて助かったな」

「まだ夕飯時前だしな。こんなもんだろ」


 道のりを歩きながらどこがいいかを話し合っていたが、特に店選びにこだわりがあったわけでもなかったので手ごろな場所を選び、入店した。

 店内はがら空きというほどでもないが空き自体はある状態で、時間的にも程よい具合といったところか。


「何頼むかな。あんましガッツリいくと夕飯食えなくなりそうだし……」

「親に連絡しておけば大丈夫じゃないか? ここで夕飯を済ませても別に怒られはしないだろ」

「…それもそうか! ならここで食べて帰るとするわ」


 事前に報告と了承さえ取っておけば、特段悪いことでもないはずだ。

 それこそ、切羽詰まった予定でもない限りは問題ないだろう。


「颯哉がそうするなら私も食べていこうかなー。拓也と唯ちゃんはどうするの?」

「ん、俺たちか? そうだな……」


 真衣に聞かれたので、正面に座っている唯の方をちらりと見れば、彼女も困ったように苦笑していた。

 ぶっちゃけ俺たちに限っては、夕食なんかは自由に決められるのでそこはお互いの意思次第だ。


 まだ今日の買い出しもしていないので家で食べなければいけない理由はないし、それに唯だってプールで遊び疲れているのだから、これから料理の支度をするというのはなかなかの重労働になってしまうだろう。

 それを考えれば、ここで夕食としてしまってもいいのかもしれない。


「…もう時間も微妙だし、食べていくか。唯もそれでいいか?」

「え? あ、うん! 拓也くんがそれでいいなら……」

「あ、外で食べるの嫌だったか? それなら無理にとは言わないけど」

「そ、そうじゃなくって! …その、お昼に拓也くんがお魚が食べたいって言ってたから、それを作ってあげられないのかって思っちゃって……」

「………」


 そんな一言に、この場の全員が一瞬沈黙してしまう。

 それは彼女のあまりの献身っぷりに驚く……というのもあったが、それと同等以上に唯のいじらしさから目が離せなくなったから。

 少しずつしぼんでいくような小声ではあったものの、その言葉は拓也の耳にもばっちりと届いており、彼女がそこまで拓也のことを考えてくれていたことに照れくさくもあった。


「…もー! 可愛すぎるしいじらしすぎ! やっぱ唯ちゃんは最高に良い子だよ!」

「ちょっ!? 急に抱き着かないで!?」


 そして感極まったように自身のいる方に唯を抱き寄せていく真衣に、困惑しながらもされるがままにされている。

 そんな光景を眺めながら当の拓也はというと……賑やかな女子たちとは打って変わって、颯哉と共に静かな会話を繰り広げていた。


「…お前、愛されてんな。大事にしろよ!」

「…うるせえな」


 笑顔で親指を立ててくる颯哉にぶっきらぼうに言葉を返すが、それにも大した覇気は込められていない。

 それもそのはず。今見せられた唯の献身っぷりによって、拓也の心臓は今までにないほどに鼓動が早まっていた。


 自分のことをここまで思ってくれていることが嬉しいことは違いないが……こうも正面からぶつけられると、羞恥も混ざり合って複雑になるものなのだと実感させられる。

 騒がしい食事時。そこには、様々な感情が渦巻いているのだった。

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