第十二話 処理と後始末
自宅に戻った拓也はいくつかの道具を持って先ほどの場所まで降りていった。
唯の自宅は一階にあるようなので、エントランスで合流してからそこまで案内をしてもらう。
持ち込んできたのはスプレーや死骸を捨てるための袋。そして万全を期すためにクローゼットの奥から虫取り網を選んできた。
なぜ虫取り網?と思われるかもしれないが、やつらの俊敏さを考慮すれば一度網で捕獲でもしなければ用意したスプレーもまともに当たらないのだ。
迅速に事を片付けるには、これも必須のアイテムだった。
「これだけあればいいだろ。そんじゃ家に入るけど、いいんだな?」
「もう。何回聞くのそれ? いいって言ってるんだから、思い切って行ってきていいんだよ」
「そう言われてもな……。なるべく部屋は見ないようにするから」
「気にしすぎなくてもいいよ。…ジロジロ見られたいってわけでもないからね?」
そんな忠告に苦笑が漏れてしまうが、やはり異性から部屋を見渡されるというのは気分がいいものではない。
気を配るに越したことはないのだ。
「それは理解してるよ。とりあえず、退治してくるよ」
「お願いします。ここで待ってるから終わったら教えてね?」
玄関の真横で立っている唯に短く了承の意を伝えると、俺はドアを開けて彼女の家に入っていった。
「ちゃんと部屋のドアは閉められてるんだな。そっちの方が助かる」
家に入って真っ先に見えたのは、廊下から確認できる部屋の全てがピッチリと閉じられていたこと。
おそらく、慌てた状態でも他の部屋に虫が行かないようにと秋篠が閉めてから出ていったのだろう。
これなら別の部屋を見て回る必要性はなくなるし、俺も捜索範囲をリビングに集中して行うことができる。
思っていたよりも早く終わらせることができそうだ。その事実に安堵するが……また別の問題が出てきてしまった。
「…意識しないようにと思ってたけど、この家って……」
入ったばかりの瞬間こそ気が付きはしなかったが、玄関を通って廊下を歩いている間に、どこからともなく甘い香りが漂ってくるような気がした。
それはまるで女子特有の生活感を連想させるかのようなものであり、その香りが彼女の自宅だということを如実に示してくるかのような………
「…って! 何考えてんだ、俺は!」
意図せずとも危ない思考に達しかけた己の精神を殴りつけることで取り戻す。
…気軽に受けてしまったことだったが、やはりまずかったかもしれない。
自分の家では部屋の匂いなんて気にしたこともないが、異性の、それもクラスでも指折りの美少女の住んでいる空間となると無意識の内にその存在を感じ取ろうとしているのか。
…馬鹿な考えはこれくらいにしておこう。
今拓也が目下やるべきことはこの家に巣くっている虫の排除だ。
他のことに意識を逸らされ、それを見逃してしまえば元も子もなくなってしまう。
「台所…だったよな。リビングにあるって言ってたし、俺の家と間取りもほとんど変わらないなら奥側か」
廊下を直進した先にあるドア。推測が間違っていなければあれがリビングの扉で、その空間に虫もいるはずだ。
それを始末してしまえば要件は終わる。とっとと終わらせてしまおう。
「お邪魔します…っと、これは……」
ドアをくぐって中に入れば、そこには想像とはまた違った景色が広がっていた。
自分の勝手な予想では、装飾が施された華やかな部屋だと思っていたが、現実は全くの真逆。
余計な装飾品などは一切なく、ただただ無機質な場所であり、家具も一応と言わんばかりに置かれているものだけだった。
これでは体を休めるためではなく、単に過ごすための場所だとしか思えない───
「…これは俺には関係のないことだ。踏み入っていいものでもない」
想定外の光景に一瞬意識が奪われはしたが、拓也にとっては単なる他人の家。
そこに含まれる事情も、結局は他人事でしかなく無関係に過ぎないよそ者がどうこう言うべきではない。
心のどこかに感じる引っ掛かりを強引に無視しながら、俺は台所へと入った。
「いるとしたらこういう隙間……だと思うんだけど、暗すぎて見えないな」
冷蔵庫の置かれている箇所のわずか空間や、併設されている棚の真下。
やつが潜んでいるとすればそういった薄暗い場所にいるだろうとあたりを付けて探してみたが、光の届かない範囲なので明かりなしでは見えずらい。
これは誤算だった。持ってくるならライトも抱えてくるべきだったか……と若干後悔していた時。
注意深く観察していた冷蔵庫の隙間から、何か暗い影が飛び出してくるのが見えた。
「…っ! そこかっ!」
半ば無意識の内に反射的に動いていた俺は、その影めがけて持参していた網を覆いかぶせる。
狙い通り網によってとらえられた標的を今一度見てみれば……予想的中。
先ほどから潜んでいたであろうゴキブリが捕まっていた。
「幸先が良かったな。あとはスプレーで動きさえ止められればこっちのもんだ」
網にかかった以上、向こうに脱出の手はもうない。
残された選択肢は大人しくスプレーによって命を刈り取られることのみであり、それを察したのか随分と静かになったゴキに対して、拓也はスプレーを噴射するのだった。
殺虫剤をかけること十数秒。最初は何かをもがくように痙攣していたやつの動きも次第に落ち着いていき、最後は動くこともなくなったのを確認して噴射を止める。
もう網を取ってしまっても問題はなさそうなので、試しに取り外してみれば逃げ出す様子もなく、完全に退治できたと見ていいだろう。
「死骸は袋に入れて縛ってっと。…ふぅ、これで完全に終わったな」
もちろん一匹を始末したからと言って安心できるわけではない。
始末した個体をそのまま放置していればまた別の個体が寄ってきてしまうので、処理をする際にもしっかりと袋か何かで隔離しなければならない。
固く封を締め、万が一にも開けられないように念には念を入れて二重袋にしておく。
ここまでの過程を経て、ようやく一段落できる。
「早く秋篠にも伝えてやるか……。あいつも安心したいだろうし」
現在も外で待っているはずの家の主に、無事に終わったことを伝えるために再び玄関へと戻っていく。
…そういえば、この死骸の処理どうするか。袋には詰めたけど秋篠は絶対にやりたがらないだろうし、俺がやるしかないか。
あれだけ虫が苦手な彼女がもう死んでいるとはいえ、この後始末をこなせるとは考えにくい。
別にいいか。先ほどまでの作業ならばいざ知らず、処理くらいならばゴミ袋にでもまとめて捨てればいいだけだ。
そこまでの手間でもない。
玄関に着き自分の靴を履いてドアノブに手を掛ける。
鍵を開けたままにしていたドアを開ければ、すぐ横には立った状態で待ち続けていたのであろう唯がこちらを見て顔を明るくしていた。
「原城君! もう終わったの?」
「終わったよ。しっかりと始末してきたし、ゴキもこの通りだ」
そう言って死骸の入れられた袋を見せれば、少し青ざめた顔で礼を言われた。
「ひっ…! あ、ありがとうね! その…袋は近づけないでもらえると嬉しいな」
「…ははっ! ごめんごめん。少し遊びすぎた」
彼女の反応見たさに悪戯心が働いてしまったが、さすがに度が過ぎてしまえばいじめとも何ら変わりはないのでこの辺りでやめておく。
そうして袋を後ろに下げれば、不思議なものを見たと言わんばかりの表情を浮かべた彼女に見つめられていた。
「……どうした? 顔になんかついてるか?」
「ううん、そうじゃなくて……原城君ってそうやって笑うんだなぁって思って」
「笑うって…。そんなに不思議なことか?」
「不思議っていうのとはまた違うけど……珍しいなって思ったんだ!」
思い返せば、彼女と話しているときにまともに笑っていたことなど無かったかもしれない。
看病の時はそんな場合ではなかったし、その後は話す機会すら生まれることはなかった。
こうして思い起こしていくと、感情を表に出すことも少なかっただろう。
「いいと思うよ! 全然笑わないよりも素敵だと思うし……そっちの方が自然な感じがする!」
「…あんまそういうことを軽々しく言うな。変な形で勘違いされたら困るのはお前だろ?」
ストレートに褒めてくる彼女の言葉は、どんなものよりも拓也の感情を揺さぶってくる。
湧きあがる羞恥心を誤魔化しながら忠告すれば、あっけらかんとした様子で彼女は佇んでいた。
「原城君ならそんなことはしないでしょ? だから言ったんだよ」
「男に対して言うなってことだよ。信用してくれてるのはありがたいけど、俺の方もいつ襲い掛かるかは分からないんだからな?」
「そんなこと言う時点で襲われることもないと思うんだけど……」
今回の一件を通して唯は拓也のことを妙に信頼してしまったようだ。
それ自体はありがたいし、嬉しくは思うのだが……彼女の側のスキンシップの近さが問題だった。
当たり前のように紡がれる言葉は俺の理性を動かしてくるし、幼い見た目からは想像もできないほどに感じられた色気は暴力的な魅力を出していた。
俺とて無敵の理性を持っているわけではないんだ。
こんなことを続けられれば確実に持たなくなるし、いつか取り返しのつかない事態を引き起こしてしまうかもしれない。
それを危惧して提言したというのに、彼女の心には響かなかったようだ。
「…まぁいい。ともかく、今後は対策くらいはしておけよ? ゴキブリホイホイなり何なりでもいいけど、何もせずにいたらまた寄ってくるかもしれないしな」
「…そ、そうだね」
ゴキを見つけてしまったときの景色を思い出してしまったのだろか。
一瞬にして強張った表情になってしまった彼女には申し訳ないが、そんな姿に思わず可愛らしいと思ってしまったのは自然なことだろう。
「…む。何か馬鹿にされてる雰囲気を感じたんだけど」
「気のせいだろ。じゃあ無事に片付いたし、俺は家に帰るよ。今度からは気を付けろよな」
「あ……」
用事も済んだため、お互いにこれ以上一緒にいる理由もない。
なので俺も俺の家に帰ろうとすれば、どこか寂し気な雰囲気を纏わせた唯が声を漏らしていた。
「は、原城君!」
「うおっ!? ど、どうした?」
いきなり大きな声を上げられて、驚愕した最中で振り返ってみれば……覚悟を決めた面持ちでこちらを見やっている彼女がいた。
どことなく気迫を感じさせてくるその様は、こちらの意識を否応にも引き付け───
「そ、その……これから原城君の家に行っちゃだめ、ですか…?」
───絞り出されるように紡がれた誘いは、拓也の思考を停止させるには十分すぎた。
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