第八話 彼女から見た彼


「原城君かぁ……。今まで話したことはなかったけど、変わった人だったな」


 唯は先ほどまで看病をしていた拓也の家を離れてエレベーターに乗ったところで、これまで全く接点の無かった少年のことを思い返していた。

 原城拓也。同じクラスということもあって名前は知っていたし、何度か顔も見たことがある。

 印象としてはあまり目立たない位置にいる男子というくらいで、時折舞阪君とも話している姿は見かけるけどそれも細々としたもので……。

 ひたすらに目立つことがないように、というよりも目立つことそのものを避けているという表現の方が正しいかもしれない。


 そして、そんな彼だったからこそ、の出来事は衝撃的だった。

 昨日の私は日直で先生に言われた仕事を片付けるために、少し遅くまで居残りをして作業をしていた。

 周りのみんなは手伝ってあげると言ってくれていたけど、私の都合で付き合わせてしまうのも悪いと思って、その申し出を断った。


 作業自体は量があるものでもなくすぐに終わり、先生に報告まで済ませていざ帰ろうとした時、ふと外を見れば雨が降っていることに遅れて気が付いた。

 しまった、と思った。天気予報では今日は霧雨だと言っていたので傘を持っていくべきかどうか悩んだが、それくらいなら大丈夫だろうと思って持ってきていなかった。

 油断してしまった。雨の勢いはかなり強まっているし、この中を傘無しで帰るというのは体力的にも厳しすぎる。


 ただでさえ運動が得意ではないのに、こんな悪条件の中で走ったりすれば転ぶかもしれないし、そうでなくとも体調を崩してしまうだろう。

 一縷の希望にかけて昇降口に向かってみるが、依然雨が止むことはなくむしろ勢いは増しているようにさえ思えた。


(どうしようかな……。でも、ほかに雨具なんてないし……)


 もはや濡れることを覚悟で走って帰るしか手段はないのか。そう思って立ち尽くしていると、横から聞きなれない声が掛けられた。


「おい、秋篠で合ってるよな? …そんなところで立ち尽くしてどうしたんだよ」


 突然そんなことを言われて驚いたことをよく覚えている。

 クラスでも発現をする方ではない男子がいきなり自分に話しかけてきたのだからそれも当然のことではあるが。

 ともかくそんな相手に話しかけられて、彼には悪いが少し警戒していた。


 私は自分で言うのもなんだが、容姿は整っている方だと自覚している。それは別に過大評価をしているわけでもなく、純然たる事実だ。

 それゆえに、私に言い寄ってくる男子は後が絶えないし、そういう人に限ってよからぬことを考えていたリするものだ。

 好意を持って接してくれるのはいい。それはとても嬉しいし、友人としての付き合いならば私も嫌とは思わない。

 問題なのは、交際を迫ってくる相手の方だ。勇気を出して告白してくれるのなら全然マシな方で、中には無理やり迫ってくるような相手だっていた。

 その時はたまたま女子の友人が近くにいたため事なきを得たが……もう二度と経験したいとは思えない。


 そんなこともあって、私は男子に対してほんの少しだけ警戒心を持って接するように心がけている。

 ニコニコとした笑顔の奥底で何を考えているのか予測できない相手に対しては、そうするしかなかったのだ。

 なので今回もそういった相手なのかと思って話を聞いていれば……全くの逆だった。


 私が話した限りでは、原城君は少し不愛想だが接する相手のことを思いやって行動ができる男の子だと思った。

 自分の傘を半ば強制的に押し付けるという強引さこそあったが、それも私が雨で濡れるところを見ていられないからという理由があるからこそのもの。

 それに他の男子たちとは違って、一切の見返りを求めてこないというのにも内心ではとても感心していた。


 普段から私に近づいてくる人は、一つ一つの行動を主張し、その度に何かしらの対価を要求してくる。

 好意を抱いている相手に対してそうしたことをしたくなる心情は理解できなくもないが、される側としてはたまったものではない。

 そんな言動に辟易していたからこそ、彼の言葉は強く印象に残ったのだ。


 そのまま傘を貸してもらい……貸すというより、投げ渡してたよね?

 キャッチする瞬間にちょっと焦ってたんだけど、原城君だから大して気にしてないんだろうな。


 まぁそれは置いておいて。

 そのまま傘を渡された私は、明日返すことを約束して帰宅したのだ。

 そこまでは良かった。そこから傘を返して終われれば私たちが話すこともなかっただろうし、何かがあるというわけでもなかった。


 しかし、問題が発生してしまったのだ。翌日登校し、早速彼に傘を返そうと探しているとすぐにでも見つけることができた。

 だが見つけることのできた彼はマスクをしており、昨日話した時より顔色も悪いように見えた。


(えっ……何で? 私に傘を貸したから風邪を引いた? けどあの時、置き傘をしてるから問題ないって……)


 彼は言っていた。自分は傘があるから問題ないと。

 だから私は彼から傘を貸してもらったし、それを使って家まで帰った。

 それなのに今、彼はまるで大雨にでも打たれた後のように具合を悪そうにしている。


 そこで気づいた。昨日の帰りの直前。

 作業を終わらせてから荷物を取るために教室へと戻った時、そこに置き傘なんて


(私に貸したのは最後の一本だったんだ! 何でそんなこと…!)


 まるで進んで自分が犠牲になるかのような行動。そのことに強い疑問を覚える。

 なんでそんなことをしたのか。わざわざ自分が不利益を被ってまで貸し与える必要なんてなかったはず。

 そんな答えの出てこない思考がぐるぐると回り続け、そんなことをしている間に他のクラスメイトに囲まれてしまい、彼を問いただす時間も無くなってしまった。


(放課後に詳しい話を聞こう。もし私のせいなら、責任を取らないと)


 そこからは長かった。普段であれば集中して受けられていた授業もどこか上の空になってしまい、意識が横道に逸れてしまう。

 一分一秒を体感しながら過ごす時間はとてつもなく濃密に感じられ、そのことはさらに私の焦りを加速させていく。


 ようやくその日一日の授業も終わり、放課後になった瞬間に原城君の席を見れば……彼は既に帰ってしまっていた。

 当然だ。具合が悪いのだから学校に残るわけがないし、すぐにでも家で休みたいだろう。

 だがその時の私はそんなことにも考えが至らず、まだ教室にいた舞阪君におおよその事情を聞いてからクラスを飛び出していった。


 そこからは知っての通り。原城君のいた場所まで追いついた私は帰宅の手助けをすること言い、彼を支えていった。

 …その途中で、住んでいるマンションまで同じだったことがわかったのは誤算だったけれど。


 さすがにこんなことまであるとは予想できないよ! 確かに帰り道が一緒だなぁとは思っていたけど、それも偶然だろうと思っていたし……。

 実は最初に家が同じだと分かった時には、言おうかどうか迷ってたんだよね。いくら恩のある人だとしても、私たちの関係性はただのクラスメイトだ。

 家をばらすというのはリスクが高いこともわかっていたし、万が一のことも考えて黙っていようかと思っていたのだけれど。

 最終的には私は、彼に正直に言ってしまっていた。


 不安だった。これが正解なのかもわからなかった。

 でも実際に住んでいればいずれはばったり会うことだって会うだろうし、そうなれば今度こそ誤魔化しなんてきかない。

 そうなるくらいならばここで行ってしまった方がましだと思ったのだ。

 そして気になる彼の反応は、想像以上にあっさりとしたものだった。


 家を知ったからと言ってどうこうしようなんて思わない。その一言でどれだけ私が安心したか。

 私個人の自由を尊重してくれているその言葉は、久しく感じていなかった本心からの嬉しいという感情を蜂起するものだった。

 …それでテンションが上がって、原城君の家にまで上がるなんてことしちゃったんだけどね。何やってるの私……。


 いくら嬉しかったとしても、あれはなかった。

 どこかで感じていた責任感から彼の看病を買って出たが、さすがに自分の意思を押し通しすぎていたと思う。

 ……反省しよう。原城君もいいとは言ってくれてたけど、常識的にね。


 まぁそこでなんやかんやとあって無事に看病も終わり、いざ帰ろうとした時に向こうから呼び止められた。

 一体何を言われるのかと思えば、これまた思いもしていなかった提案。

 それは互いに近所だからといって無理に関わることはやめようというもの。

 これを聞いた途端は何故そんなことを言うのか頭が追い付かなかったけど、次第に冷静になりその意図も汲み取れてきた。


 彼は、私のプライベートを守ろうとしてくれているんだ。自宅というゆっくり休める場所まで手を伸ばすことなんてないと、そう明言することで私を安心させてくれようとしてくれているんだと気が付いた。

 …言葉遣いは少し雑だけれど、その根底はどこまでも他者を気にすることのできる優しい人。

 この数日で彼への印象は百八十度逆転したものとなってしまった。


 私としてもその提案はありがたいものだったし、お互いのためにも必要なことだろうということでその場で受け入れてしまったが……正直、今から後悔してしまっている。

 彼に興味が湧いた。彼ともう一度話してみたいと思ってしまった。


 今まで抱いたことの無い類の感情が自分の中で渦巻くのを感じるが、それに従うわけにはいかない。

 過剰に干渉しないとさっき決めたばかりだし、それを決めたのは紛れもない自分だ。それをいきなり反故にするのは筋が通らないし、彼に対しても失礼でしかない。

 …我慢しよう。原城君にも私的な時間はあるんだから、ほかでもない私がそれを邪魔したら本末転倒だ。


 そう自分に言い聞かせて内からこみ上げてくる好奇心をぐっと押さえ込んでおく。

 そんなことをしている間に自宅がある階にも着き、エレベーターの動きが止まった。


「ふぅ……。それにしても、色々あったな…」


 あまりにも詰め込まれすぎた日常の一幕。それを思い返せばキリがないほどに刺激にあふれていた。

 だがそれも今日限りだろう。お互いに決めたルールに基づいて行動していれば関わりは必然的に薄まっていき、次第に忘れていく。

 …それを寂しいと思ってしまうのは、私がわがままだからだろうか。


「あーもう! ダメダメ、こんなんじゃ!」


 弱気な思考を頭をぶんぶんと振り回すことで追い払う。心優しいクラスメイトとの奇妙な縁は心の奥にしまっておけばいい。

 それで全て解決だ。


 無理やり自分を納得させ、いつの間にか自宅の扉前にまで来ていたことに気が付き鞄から鍵を出す。

 それを鍵穴に差し込み、ガチャッという音と共に開いた扉から中へと入っていく。


「…ただいまー」


 寂し気な感情が込められた声音。それは部屋の奥へと吸い込まれていき、静かに響いているのだった。

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