第七話 不干渉の約束


 秋篠に上半身の裸を見られるというハプニングこそあったが、そこからは特に何かが起こることもなく。

 ベッドにくるまって休んでいる俺だったが、正直退屈で仕方なかった。


 もちろん安静にしていなければならないということは理解しているし、わざわざ動こうなんて思ってもいないが何かすることはないかと部屋を見渡してしまうのだ。

 寝室にあるのはせいぜい学校から持って帰った教科書に、興味本位で購入した本が何冊か。

 その本ももう読み終わったものであり、読み返そうとは思えなかった。


(今までだったらきつくても自分で何とかするっていうのが当たり前だったし、それを疑問にも思わなかったけど……こうしてると、頼れる人がいるっていうのは恵まれてるんだな)


 少し耳を澄ませば、キッチンの方から何かを煮ているような音が聞こえてくる。

 秋篠が何かを作ると言ってくれていたし、大人しくそれを待つのがいいということは理解しているのだが、付き合っているわけでもない女子が家にいるという事実は、なかなか脳を休ませてくれない。


 …家に、自分だけではない誰かがいる。

 そんな随分と忘れてしまっていた、当たり前のように感じていたことがあるということが、人をこんなにも安心させてくれるとはつゆも思っていなかった。


(あとでちゃんと……秋篠にお礼、言わないと………)


 やっと気を落ち着かせることができたことゆえか、安心感を感じられたからなのか。

 俺の意識は静かに暗闇に落ちていき、その瞼を完全に落とす頃にはすっかり眠りについていたのだった。





     ◆





(………ん? この匂いは……)


 再び意識を目覚めさせた時、拓也は真っ先に鼻腔を抜けるほのかな香りに気が付いた。

 何の匂いかはわからなかったが、ふんわりと漂ってくる柔らかな空気は熱によって重たくなっている体にも食欲を目覚めさせたようだ。


「……あ、起きた? ぐっすりだったね」

「……秋篠?」

「そうだよ。いきなりだけど、お粥食べる? 勝手に食材使っちゃったことは申し訳ないけど……」


 お盆に乗せられた食器にはまだ温かいことを示すように煙が立ち上ったお粥が乗せられていた。

 見れば卵でとじられており、病人の腹にも優しく満たせるように気遣ってくれたことが窺える。


「卵粥か…。ありがたくいただくよ」

「無理はしなくていいからね? まだ熱いから、ゆっくり食べて」

「あぁ……っと。タオルまで乗せてくれてたのか」

「熱が下がって無さそうだったから、念のためと思って乗せて置いたんだけど嫌だったかな?」

「全然。むしろ熱もいい具合に下がったみたいで助かったよ」


 ベッドから起き上がれば頭に違和感を感じたため、手を当ててみれば濡らしたタオルが掛けられていた。

 寝ている間にかけられたであろうタオルは時間が経ったことで乾いてきており、それに伴って俺の体調も大分戻ってきたようだ。


「ならよかった! でもまだ万全ではないだろうから、ご飯も食べてね?」

「あぁ、いただくよ」


 手渡された卵粥を、一緒に添えられていたスプーンですくって口に運んでいく。

 彼女の忠告通り、まだ出来立てなのだろう。しっかりと食べられるように口で冷まし、いい具合になってきたと思ったところでいただく。


「……おぉ、美味しい」

「ほんと!? よかったぁ~……」


 俺が素直な感想を口にすれば、秋篠のやつも安心したように笑みを浮かべている。

 実際、このお粥は手放しで称賛できるくらいに美味いと感じた。


 お粥というのは病人食という言葉もあるくらいなのだから、それに合わせて味も薄く作られるものだと思っていた。

 だが秋篠が作ってくれたこのお粥は、確かに普通の食事と比べれば味は薄めかもしれないが、物足りないかと言われれば全くそんなことはない。


 煮詰められた卵や米は今の状態でもしっかりと飲み込めるようにバランスを調整されており、腹に満たされていくことが実感できる

 そして何よりもその味だが、全体にまんべんなくさっぱりとした風味が足されており、それがまた味のレベルを押し上げている。


「これ……もしかして醤油か?」

「そうだよ。さすがに卵とお米だけじゃ物足りないだろうし、少し加えたんだ。本当はお出汁があればよかったんだけど、それはないみたいだったから……」

「うちにはそこまで揃えてないからな…。でも、これでも十分すぎるくらいに美味いよ」

「そ、そっか。ならよかった」


 俺の賞賛を受け止めてもらえたのか。彼女はその頬をほんのりと赤く染めながら今も食事を続ける俺を見つめ続けている。

 その視線をくすぐったく感じ、あえてこちらからも視線を返してやれば、彼女も口角を上げて笑みを返してくる。


(……っ! 落ち着け…。あんま妙なことは考えるな……)

「…どうかしたの? また顔が赤くなってきてるし、熱上がっちゃった?」

「……いや、そういうわけじゃない。ただの自意識過剰だから気にしないでくれ」

「?」


 俺の返答の意味がよく分からずに秋篠は頭上にクエスチョンマークを掲げているが、こんなことを正直に言えるわけがない。

 …まさか、彼女の艶を感じさせる笑みに見惚れていただなんて。


 こんなところで余計な感情を出してしまえば、俺を信用してくれて家にまで来てくれた彼女に対して裏切ることになってしまう。

 そんなことはしたくないし、してはいけない。

 だからこそこの顔にこみ上げてくる熱を誤魔化すように、風邪によって錯覚してしまった感情を打ち消すように、俺はお粥を掻き込んでいった。




「ふぅ……。ごちそうさまでした」

「はい、お粗末様でした。…それにしてもすごい食欲っぷりだったね。それだけ食べられれば問題もなさそうだね」

「あとはゆっくり寝ておけばそのまま治ると思う。…ここまで改善したのは秋篠のおかげだ。頭が上がらないよ」

「そんないいって。さっきも言ったけど、私は私がやりたいからやっただけだから」


 彼女はそう言うが、やはり受けた恩には報いるものだ。幼いころから両親にはそう教育されてきたし、俺自身もそうすべきだと思っている。

 関わりが薄くなる今後にそんな機会があるかどうかは微妙なところだが、いずれ返せる時も訪れるだろう。


「もう快方に向かってるみたいだし、私もそろそろ帰ろうかな。あんまりお邪魔してちゃ悪いもんね」

「そうだな。こっちとしてもお前にうつしたくはないし、そうした方がいい。玄関までは送ってくよ」

「そんないいよ! 病気なんだから休んでて!」

「そうもいかないって。秋篠は俺にとっても恩人なんだから、用が済んだらそれでおしまいなんてのは俺の気が済まないよ。…せめてこれくらいはさせてくれ」

「…もう。じゃあ、玄関までだからね? それ以上はしなくていいから!」


 そこに関しては折れるつもりはないと目で訴えかければ、その意思が通じたのだろう。

 早々に妥協点を作ってくれた彼女に感謝しつつ、俺もベッドから起き上がって出迎えに玄関まで歩いていく。


 やっぱり、多少動いても問題はなさそうだな。万全というほどではないけど、これなら明日まで体力を持たせることだってできるだろう。


「よいしょ…っと。お邪魔しました! まだ安静にしてなきゃだめだからね?」

「わかってるよ。…あ、そうだ。秋篠」

「ん? なぁに?」


 並べられていた靴を履いてから閉じられていた鍵を開け、扉をくぐって出ていこうとしていた秋篠を直前で呼び止める。

 呼び止められた彼女は何があったのかとキョトンとした様子で立ち止まり、俺の言葉を待っている。

 彼女には本当に感謝している。その心に嘘偽りはない。

 そして、感謝しているからこそ伝えておかなければいけないことがあった。


「俺たちは同じ場所に住んでるってことだったけど……それで無理に関わるのはやめておこう。互いに不干渉……は難しいかもしれないけど、それでも無理に関係を持つ必要もない」


 俺の提案が予想の斜め上の事だったのか。秋篠は目を丸くしながら話を聞いていた。


「その方がお互いのためでもあるし、平穏に過ごせると思う。…俺から言いたいのはそれだけだ」


 ともすれば俺の発言はひどく自分勝手なものに聞こえるだろう。ここまで自分の都合で彼女を振り回しておきながら、その果てに関わらないようにしようなんて言っているのだから。

 一体どの口がと言われてもおかしくないほどに、自分勝手な言葉。


 しかし、秋篠の反応はそんな予想とは裏腹にご機嫌さを醸し出した声であった。


「…原城君は本当に優しいね。それ、私のために言ってくれてるんでしょ?」

「…なんのことだかわからないな」

「誤魔化さなくていいよ。全部わかってるからね。…お互いに関わらないようにっていうのも、私のプライベートを守るためのものだし、その上で私たちが溝を作らないようにしてる。…違った?」

「気のせいだよ。俺はただ、自宅でもクラスメイトと関わり合いになることが重荷になるって思っただけだ」

「ふふっ。それが優しいって言ってるんだよ。…ならその優しさに甘えて、提案を受けるよ。二人とも無理に話すこともない。ただ、完全に縁を断つわけでもない。それでいいんだよね?」

「自宅でもストレスが溜まるなんて嫌だしな。それでいこう」

「……そうだね」


 完全に関わらないようにすることは、このマンションに住んでいる以上不可能だ。朝に何かのタイミングで鉢合わせることだってあるだろうし、そういった不可抗力によるものは回避しようがない。

 なのでその折衷案として、話したくなければ話さなくてもいいというルールを作ったのだ。

 これでお互いのプライバシーは守られるだろうし、これまでと変わらない日常を送ることができる。


 そう思い彼女に言葉を送ったわけだが、俺が最後に言ったことを聞いた途端。気のせいに過ぎないかもしれないが……秋篠の表情に、ほんの少しの影が差した気がした。

 そこにどんな思いがあったのかなんて知る由もないし、軽率に踏み込んでいい領域とも思えなかったので流してしまったが、そこが少し引っ掛かってしまった。


「とにかく今日はありがとな。さっきの事とこれだけは言っておきたくてさ」

「うん。もう風邪ひいちゃだめだからね? ちゃんと頼れる人も近くに作っておいた方がいいよ! それじゃあね!」


 その言葉を最後に、家の扉が閉められる。

 再び一人となった空間には静けさが戻ってくるが、単なる思い過ごしか、その場には賑やかな空気が残っている気がした。

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