『法照寺怪談会』御蔵の通夜

あれは、私がまだ二十代半ばの頃。

義祖父の葬儀に参列する為、夫の郷里

須磨に夫婦で帰省した時の話です。



私のという人は、子供の頃から

不思議な体験を沢山して来た人でした。

私自身も、彼からの煽りを受けたのか

随分と不思議な事を経験しました。


夫とは  で知り合ったんです。


当時、彼は営業課で私は事務課の

窓口業務を担当していました。

 わざと時限ギリギリに振込伝票を

持ち込んで来る  に

ガツンと言ってくれた事から、よく

話をするようになったんです。

 大らかで優しくて、見た目も良くて

ユーモアも待ち合わせていて。彼が

今も生きていたら…そう思うと。


あら、ごめんなさい。話が少し傍に

逸れてしまいましたね。




そう。彼の祖父が亡くなったという

報せを受けて、私達は急遽、新幹線で

新神戸まで行き、山陽本線を使って

須磨へと入りました。


夫の実家は元々が財閥の流れを汲む

資産家でしたが、祖父が家長として

全権を掌握していたような、何とも

ふるい家でした。義両親はそれに関して

特に何も言いはしませんでしたが

随分と苦労はあったと思うんですよ。

 只、私に対しては優しく接して

くれました。


実は、夫は彼等の  なんです。


彼は、既に二人の息子がいる義父母に

生まれて間もなく迎えられました。でも

それを決めたのは亡くなった祖父だと

いう事でしたから、夫は 旧家の持つ

ヒエラルキー からは若干

外れていた、と言えるでしょうか。




「佳う、お帰りなさいました。」


須磨の駅では、実家の運転手が私達を

出迎えてくれました。

「国井のおっちゃん、久しぶりやなあ!

元気そうで何よりや。」「坊も大きく

なりましたな。」「アホぬかせ!もう

成人しとるわ、俺。」「はははは。」

運転手の国井さんは夫がまだ中高生の

頃、学校まで送迎して貰っていた

運転手さんです。

「奥方様も、相変わらずお綺麗で。」

「…暫くお世話になります。」

実は私、若い頃はとても人見知りで、

特にノリの良い関西弁で話して来る

夫に対しても、当初は何となく住む

世界が違う様な気がして、やんわりと

避けていたんです。

 銀行の窓口業務は 仕事 だから

割り切ってやっていたので、それ程

困りはしませんでしたが、こうして

プライベートで人と話をするのは余り

得意ではなかったんですよね。


ともあれ、夫の実家に行くなんて凄く

気を遣うもの。それに今回は祖父の

葬儀で来ているだけに、身内としての

振る舞いがいいのか、それとも呼ばれる

側の振る舞いがいいのか。何だか微妙な

立ち位置だと思っていました。



「…そんな事より。通夜が終わっても

今夜は絶対に表に出たらあかんぞ?」



突然、夫がそんな事を口にしました。

まるで心の中を見透かされた様で、

ほんの少し驚いたのですが、それは

の事でもありました。

 車はもう屋敷の車寄せに到着していて

運転手の国井さんが、トランクから

荷物を取り出しています。


「何で?」「何でもや。祖父さん、

あちこち顔が広すぎるから。通夜が

終わっても弔問客が仰山来るよって。」


夫が 突拍子もない のは日頃から

知ってはいましたが、流石に今回は

余りに抽象的過ぎてサッパリです。

それでも彼の言う事で、今まで

事 は一度もありません。

「わかった、外には出ないわ。」


         …でも。


私は一抹の不安を胸に、夫に促され

大きな屋敷へと足を踏み入れました。

門から続く長いながい白壁には鯨幕が

海風に棚引いて、山の端に夕日が

朱々と燃えていました。


   じき、夜の帷が降りる。




夫の実家は二階建ての広い日本家屋に

白壁の蔵が一つ、そして今回亡くなった

義祖父が茶道や詩吟の趣味を嗜む為の

離れが、庭を挿んでありました。


先ずは義両親にお悔やみの挨拶をして

お通夜の支度に加わろうとしましたが

お手伝いさん達がやるからと、早々に

喪服に着替える様に言われて。


 そうこうしているうちに、お通夜が

始まりました。


既に仕事を引退して久しいにも関わらず

沢山の政財界や文化人たちの参列に、

私は目を丸くしていましたが、夫は特に

気に留める風もなく、黙って私の隣に

座っていました。






通夜も滞りなく終わり、故人と縁の

ある人々は、精進落としに場を替えて

まだ残っています。私は今度こそと

義母に手伝いを申し出ました。

「…ほんでも、手伝いの者がおるし。

貴女も疲れたやろ?芳邦はお客様の

お相手をせなあかんから…そうや、

香炉を御父様の離れから持って来て

くれはる?」どうやら弔問客に

香道のお仲間がいて、香を焚く事に

なった様なのです。

「分かりました。」言って、直ぐに

ハッとしました。に行くは一旦

庭に出なければ行けません。夫から

《今夜は決して外に出てはいけない》と

言われたのを思い出して、私は思わず

身震いしました。

 けれども一度、了解してしまった以上

やっぱり無理ですとは、流石に言い

辛かったんですよね。


外、とはいえだからなどと

変な理屈を自分で決めて、結局私は

庭に出る事にしました。





須磨の夜は、何とも気持ちが騒めいて

寧ろ何かに集中している方が幾らか

気が楽でした。海が近いせいか、磯の

香が微かに感じられます。

「…。」そっと窓を開けて、戸外の

夜気を深呼吸した、その時でした。


  何だろう。あの人達は一体?


亡くなった義祖父の離れから、提灯を

下げた人達が『蔵』の中へと次々に

入って行くのが見えました。

皆、喪服を着てはいますが、お通夜も

精進落としも、こっちの屋敷でやって

います。それに、幾ら大きな離れとは

いえ、あれほど次から次へと人が出て

来るなんて、あり得ません。


茫んやりとした喪服の列は、静かに

蔵の中へと吸い込まれて行きます。

蔵の入口にも、御霊燈が仄暗い光を

放っては、無言の彼等を淡々と迎えて

います。


     一体、あれは…。




「もう、ええから。こっち来ぃ。」


「ッ?!」後ろから声をかけられて、

私はびっくりしました。沓脱石の上の

草履に片足を入れる、丁度その直前で

私はその場に尻餅をつきました。

「…いやだ、脅かさないでよ。」

「すまん。」夫が、神妙な顔で私を

助け起こしてくれたんですが、何だか

物凄い焦燥感が見て取れました。

そこでふと、夫からいた

事を思い出したんです。「ごめん。」

「…いや、俺の方こそな。ちゃんと

見といてやらな、あかんかったわ。」

「香炉、あれじゃ取りに行けないわ。

御義母様から頼まれてるのに。」

「構わん。」夫はそう言うと、

いつの間にか手に持っていた袱紗を

私にそっと渡してくれました。


中にあるのがだと、私には

わかっていました。




彼が、此処で過ごした幼い日々が

 一体 どんなもの だったのか。


私にも少しだけ理解が出来ました。



私は との人生 を選んだけれど

それを後悔した事は一度もありません。








【櫻岾】『法照寺怪談会』

 公益財団法人櫻護

 常任理事 小淵沢真理子 語る。




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