他人の家

sayaka

真夜中、一人きりで揚げたてサクサクのとんかつを食べている最中の彼には三分以内にやらなければならないことがあった。

しかし食欲には抗えない。

やはりとんかつには塩だなと悦に入りながら、くし形のレモンを搾る。勢いづいた果汁が手からはねて、目に入ってしまったが気にしていられない。

そうして、とんかつの脂の匂いと混ざり合うフレッシュなレモンの濃厚な香りに鼻腔が満たされる。

洗いに行く余裕もないので片目をつぶり、期せずしてウインクする形になりながら、とんかつと見つめ合う。

これが至福の時間なのだろうか。

いや、ただの現実逃避なのかもしれない。


タイムリミットはあと一分もない。

それまでに、この部屋を出なければ。




目が覚めたら見知らぬ場所に居た。

明かりも何もない。

真っ暗な部屋。

「あたたた」

間抜けな声を出しながら、腕時計を見ると十二月三十日の午前三時ちょうどだった。

暗いところでも針が光るのが特徴で、彼はこの腕時計を好んでいた。

随分と長いこと眠っていたような気がしたが、最後に記憶があった時間からおよそ半日も経過していた。

「ここはどこだろうか」

なかなかありえないシチュエーションに高揚しているのか、無意味に声を出してしまう。

彼女と映画を観て別れた帰り道に、大通りの横断歩道を歩いていたところから記憶が途切れている。

そんな場所で白昼堂々と誘拐されたのだろうか。

「ゆーかい」

言葉にしてみると愉快だ、とかそういう訳ではなかった。

しかしそれしか考えられない。

誰が、一体何の目的で?

彼は疑問を一つずつ浮かべながら、やがて暗闇に目が慣れていくのを待っていた。

どうやらここはごく普通の住宅のようであり、いわゆる台所のようだった。

立ち上がり、電灯のスイッチを探す。

しかし、その必要もなく、少し動いただけで自動的に頭上が灯った。自動点灯らしい。

明るく目の前に広がる景色に、彼はふたたびよろめいてしまいそうになる。

大きなりんご型のキッチンタイマーのようなものが、時間を表示していた。

「二十三分五十八秒」

カチ、カチという音とともに一秒ずつ数字が減っていく。カウントダウン式のようだ。

しかし何の時間なのかは見当がつかない。

目覚まし時計のつもりなのだろうか、彼は首を傾げながらそれに触れようとした。

途端、ビリビリビリと大きな警告音が鳴り響く。

思わず床に尻をついてしまった。

「なんだ、これは」

ようやく目が覚めてきたのか、これは異常な事態なのではないかと彼の頭の中でも無意識の警告が告げる。

まさか爆弾が仕掛けられてはいないだろうが、何の刻限が迫っているのか分からない。

「この限られた時間でできることといえば」

彼は改めて室内を見回した。

恐らく最新式であろう大きな銀色の冷蔵庫を開けてみる。

そこには、希望が入っていた。





最後のひときれを頬張ると、皿や箸もそのまま、もちろん揚げ油に満たされた中華鍋も放置して立ち上がる。

肉を噛みながら、歯の間に挟まってしまったことが気になって仕方がない。爪楊枝かフロスか、そんな物でも見つかればよかったが、あいにく無さそうだった。

洗面室の戸棚は空っぽだった。

台所と思しき室内の充実ぶりとは裏腹に、その他の部屋には何もないようだ。

何しろとんかつ用の見事なヒレ肉から、揚げ油に使用してもいいのか躊躇うくらいの高級そうなオリーブオイル、そして眩しいくらいに磨き上げられた銀食器が一式、レモンを筆頭に新鮮な野菜や果実類が揃っていた。

その割に調理器具は中華鍋しかないのは疑問が残るが、おかげで大好物のとんかつにありつけたのだから、ここは素直に感謝しておこう。


この家の見取り図も頭に入っていない状態で、脱出を図るというのもさすがに無理があるだろうか。

彼は冷や汗が背中を伝うのを感じたが、そんなことは杞憂だったようで、いくつか廊下を曲がると玄関とみえる扉にたどり着いた。

重厚そうな洋式の扉で、なぜか内側にライオンの飾り物が設えてある。こういうものは扉の外側にあるものではなかろうか、彼は首を捻った。

室内は全体的に和室の造りだったのにも関わらず、ここだけ洋式になっているのは、かなり不自然であり、疑問符が浮かぶ。


しかし、躊躇っている場合ではない。

扉に手を伸ばし、息を整える間もなく内側から力を込める。ぐぐっと重たい抵抗を体に感じながら、外の空気が流れ込むのを口を通して胃腸にも伝えていく。


間に合ったのか、眩しさに目を開けていられない。そういえば先程目に入ったレモンがまだしみるような気がして、彼は顔をしかめた。




***


「すごい冒険だったわね」

彼女はミルクティーを淹れながら、彼の話にそう感想を述べた。

「ああ、大変だったよ。だけどあのとんかつの味は忘れそうにないな」

彼はよだれが浮かぶのを耐えながら、愛おしそうに目を細める。

「今度一緒に行ってみようか」

夢見心地の気持ちが醒めないまま、そんな提案をしてみるも、彼女は無言で首を振るだけだった。


「それより気になることがあるの」


やがて彼女が語り始めたことにより、あたたかな空気と加湿器で満たされた室内が、すこしずつ薄寒くなっていく。


「あなたが気にしないのならいいのだけど」

「いや、気にしていないよ」

気丈に返したものの、心の中では正反対のことを思っていた。

「やっぱり気になるかもしれない」

「そうね」

素直に降参しよう、いつだって彼女には逆らえないのだから。

彼は頭を振り、腕組みをして「うーん……」と声に出しながら、考え込む様子をして見せた。


「つまりこれは、とんかつを食べている場合ではなかったということなのか?」

彼は心の中で静かに思考を組み立てていたつもりだったが、そのまま口にしてしまっていた。


彼女はその言葉にフフッと噴き出す。

「そうよ、とんかつを食べている場合じゃないの」

優しく労わるような声遣いを、彼はそのまま飲み込むようにして聞いていた。


要するに、とんかつはトラップだったのだ。

とんかつを調理して、完食するまでに二十分もかからなかったと彼は記憶しているが、その時間さえなければ、もっと他のことができていたはず。

そう、たとえば、室内をくまなく捜索するとか、別の出口を見つけるとか、時間内に脱出しなければならないそもそもの要因である時限装置を止めるとかの。


「次は気をつけるよ」

「もう二度とないことを祈るわ」

そんなふうにして笑いながら、二人はすっかり冷めてしまったミルクティーを飲んだ。

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