テネシーワルツが終わるまでに

茜あゆむ

第1話

 ジェローム・フェルダーには三分以内にやらなければならないことがあった。

 毎月末に訪れるダンスホールで、彼はいつものようにラウンドテーブルの前に車椅子を停めて、妻のトキコが踊り耽る姿を眺めていた。トキコの今日のパートナーは見も知らない青年で、を丁寧にリードしている。

 そう、テネシーワルツである。三分間の短い曲、哀愁と古い時代への憧憬の入り混じった、なんてことのないカントリーソングである。トキコのお気に入りの一曲で、いまも彼女は眩しいほどの微笑みをたたえて、静かに踊っている。そのテネシーワルツが終わるまでに、ジェロームは決意を決める必要があった。

 ジェロームは長いこと足が悪く、トキコのダンスの相手はいつも友人か、時折街を訪れる旅人だった。踊りの好きなトキコを、ただ隣に座らせておくことはジェロームにはできないことだった。彼女はいつも楽しそうに踊ったし、そのよろこびをジェロームに分け与えてくれた。彼はトキコが踊る姿を眺め、いつも深い愛情を感じることが出来た。ダンスホールへ向かっていくトキコの背中を、ジェロームはいつも慈愛のこもった瞳で見送った。

 けれど、いまトキコを見つめるジェロームの瞳は、静かな炎に揺れていた。それは、普段なら気にならない些細な違い。トキコの瞳に込められた熱。いついかなる時にも、ダンスを楽しみながらもジェロームを忘れることはなかった。ダンスの合間に視線を投げかけ、トキコは意識の端に必ずジェロームを置いていた。だが、いまはトキコの意識はダンスにすべて注がれている。彼女の目の前の青年は、実に巧みにトキコをリードした。

 そんな雑念を振り払うように、ジェロームはまぶたを閉じた。テーブルに立てかけた杖をたぐり寄せ、柄を握り締める。それもこれも、テネシーワルツが悪いのだ、と一人呟く。

 テネシーワルツは、恋人を失う歌だ。友人に紹介した恋人は、テネシーワルツという短い曲の内に、その心を盗まれてしまう。

 ジェロームの中に予感がなかったといえば、嘘になる。いつトキコを失うことになるのか、それはむしろ予感というより、必ず来る未来の予言として、ジェロームは実感していた。

 踊ることのできない夫を、いつか妻は置いていくだろう。毎月ごとに異なるパートナーにトキコを任せるたび、ジェロームはその予感を強く感じていた。それでも、やさしい妻はその来るべき時を、いつまでも、いつまでも先延ばしにしてくれていたのだが……。

 約束の時は、必ずやってくる。受け入れなければならない。

 ジェロームはせめて最期まで、愛しい妻の姿を焼き付けようとまぶたを開けた。白いワンピースのロングスカートが優雅に揺れる。彼の妻は、ほんとうに美しかった。特に、ダンスの中にあって、彼女に勝るものはないと確信するほどに。

 美しい歌、美しい踊り、美しい思い出。

 トキコはただ踊るのではない。いつも彼女のダンスには、色があった。感情が見えた。臨月で踊れない月も、彼女はダンスホールへ来たがった。出産の月には、よろこびを発散させるように踊った。子どもが巣立った月は、かなしみをたたえていた。ジェロームが足を患うと、彼女の踊りにはまた別の色が混じるようになったことに、彼は長い間気付いていない。

 友人たちは、むしろジェロームのために、トキコをダンスへ誘う。トキコが彼にだけ見せる色を、みんな見たがった。それを言い表す言葉は、もしかするとこの世界にはないのかもしれない。胸が切なくなるような、目を逸らしたくなるような、眩しさと温もりのまじったそれを、彼らは、愛と名付けた。

 トキコの愛は切なく、苦しい。

「はじまりのテネシーワルツを、あなたと踊ってみたい」

 いつか彼女が口にした、最初で最後の望みがそれだった。

 テネシーワルツには、別のが出てくる。彼女はそれを『はじまりのテネシーワルツ』と呼んだ。それを踊ると、恋人を失ってしまう曲ではなくて、静かでゆたかなワルツ。いつからか、かなしみをまとったワルツの本当の姿として、トキコは理想のテネシーワルツを夢見た。

「この曲の中にはね、現在と過去の時間が同時に存在しているのよ」

 トキコはそうも言う。恋人を失ってしまったときの曲としてのテネシーワルツと、恋人とともに踊った美しい思い出の曲としての。確かにそこには、二つの時間が同じ曲に折りたたまれて、しまわれている。

「だから、この曲を踊るとき、私は二人のパートナーと踊るの。目の前にいるやさしい友人と、思い出の中のあなたと」

 ジェロームは深く息を吸って、拍手を送った。演奏はフェードアウトしていって、ホールにはまばらな拍手の音が響く。パートナーたちは身を寄せ合って、静かな睦言を交わしている。トキコの、パートナーと囁き合う姿もあった。口元に手を当てて、微笑むトキコがジェロームの方へ視線を向けようと顔を傾ける。

 ジェロームの前を、数人のパートナーたちが通り過ぎ、彼の視界からトキコが消える。彼らが行き過ぎたあと、トキコがジェロームのもとへ戻ってくる。だが、パートナーの姿はなく、トキコは一人だった。

「すごく、久しぶりに踊ったような気分」

 グラスのサイダーを一口で空けて、トキコは爽やかな汗をハンカチで拭った。

 ジェロームは杖を突き、テーブルを支えにして、立ち上がろうとした。トキコは彼の身体を支える。

「どうしたの?」

「最期に、もう一度、踊ってくれないか?」

 トキコは曖昧な笑顔をうかべて、最期? と問い返す。

「もしかして嫉妬してるの?」

 ジェロームは無視して、ホールの方へ歩き出す。トキコは彼に付き添いながら、

「じゃあ、少し待っていてくれる?」

 と言って、バンドの方へ歩いていき、何かを頼む。顔なじみの彼らはトキコの頼みを、二つ返事で了承し、演奏を始める。ホールには、ドリフターズの『Save the last dance for me』が静かに響く。

「ラストダンスを私に……」

 戻って来たトキコは、やさしくジェロームに微笑んで、

「だって、最期なんでしょう?」

 と言った。

 ジェロームは杖に身体を預けて、目元を指で抑えた。かすかに身体を震わせて、嗚咽を漏らした。

「さ、踊りましょう」

 トキコは彼の手を引いていく。老いた手に手を重ねて、二人の影は連れ添うようにぴったりとくっついている。

「いつぶり以来かしら、ね?」

 ジェロームは小さく、すまない、と呟いた。

「あなたと踊れて、私は本当に幸せよ」


+++


 照明の落とされたダンスホールの隅で、ジェロームとトキコは寄り添いあって座っている。非常灯だけが照らすダンスホールは、互いの顔がどうにか見えるほど薄暗く、トキコはジェロームの肩に頭を預け、重ねた手を慈しんでいる。

「ね、今日が最期じゃなくて、また踊ってくれる?」

 テーブルのシャンパンの泡が静かに弾けていく。ミモザ色のシャンパンはかすかに発光しているようにも見えた。ジェロームはグラスを手に取り、唇を湿らせる。

「君が良ければ」

「いいに決まってるじゃない」

 と笑うトキコは指を絡ませて、目線の高さまで持ち上げる。

「いつまでもあなたと踊っていたいくらいよ」

 ねえ気付いていた? と彼女は言う。今日のパートナーのこと。

「あなたがタイムスリップしてきたみたいだったわ」

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テネシーワルツが終わるまでに 茜あゆむ @madderred

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