第6話 私と競輪⑥

「おはよう、今日は早いね」

と言いながら微笑む姿はとても可愛らしく、つい見惚れてしまいましたが、

すぐに我に返ると慌てて準備を始めます。

(いけない、こんなことじゃダメだ! しっかりしないと!)

と思いながら黙々と作業をしていると、後ろから肩を叩かれました。

振り返るとそこには美香さんの姿があり、その手にはコーヒー牛乳が握られていました。

それを差し出された瞬間、私の胸は大きく高鳴りました。

だって、これはまさに欲しかったものそのものだったからです。

喜びを隠しきれないまま受け取ると、早速口に含んでみました。

そうするとその瞬間、何とも言えない幸福感に包まれたのです。

あまりの美味しさに感動すら覚えるほどでした。

その後も、夢中で飲み干してしまいましたが、それも無理のないことでした。

それくらい美味しかったのですから仕方がありません。

そうして一息ついたところで、今度は自分の番だと思い、お返しに缶コーヒーを差し出しました。

そうすると、彼女は嬉しそうに受け取ってくれたのです。

それを見てホッと胸をなで下ろしていると、不意に話しかけられました。

その内容というのが、先日の落車に関することだったのです。

最初は心配して声をかけてくれていたのですが、次第に愚痴のようなものに変わり始め、

しまいには泣き出してしまったのです。

これにはさすがに驚きましたが、なんとか宥めようと試みたところ、逆に抱きついてきたではありませんか。

これには困り果ててしまいましたが、同時に嬉しいとも思ってしまった自分がいます。

そこで思い切って抱きしめ返してあげることにしました。

そうすると、驚いた様子で顔を上げましたが、その顔は涙で濡れていたので拭ってあげました。

その後しばらく抱き合ったままでいましたが、落ち着いた頃合いを見計らって身体を離すと、

恥ずかしそうに俯いたまま黙ってしまいました。

その姿はとても可愛らしく見えたのですが、これ以上一緒にいるわけにもいかないと思い、帰ることにしました。

別れ際に手を振って見送る彼女の姿はどこか寂しげでしたが、私は気づかないふりをして立ち去ることにしました。

帰り道、一人になると途端に寂しさが込み上げてきましたが、ぐっと堪えて足早に家路を急ぎます。

途中で何度も振り返りたくなったりもしましたが、我慢して先を急ぐことにしました。

そしてようやく辿り着いた時には、嬉しさのあまり涙がこぼれそうになりましたが、我慢することにしました。

その後は入浴を済ませてから眠りにつきましたが、なかなか寝つけずに苦労したことは言うまでもありません。

翌朝、目が覚めると同時に枕元の時計を確認すると、時刻は朝の七時を指していました。

ベッドから起き上がると、すぐさま支度を整えて競輪場へと向かいました。

途中、コンビニに立ち寄って朝食用のサンドイッチを購入すると、それを持って競輪場へ到着しました。

入場ゲートをくぐると、そのまま中に入ってロッカールームへ向かいます。

そこでユニフォームに着替えてから、本馬場へ向かうことにしました。

コースに出る前にウォーミングアップとして軽くジョギングしてからスタート地点に立つと、

スターターの合図に合わせて一斉に飛び出しました。

私は先行逃げ切り型の選手だったので、最初から飛ばさないと追いつけなくなってしまう可能性があります。

ですから、なるべく体力を温存しながら走るように心がけています。

最初のカーブを抜けてバックストレッチに入ったあたりで、少しずつ前との距離を縮めていくことができました。

そして最後の直線に入ると、一気に加速して先頭に立ったものの、ゴール直前でかわされてしまい、

惜しくも2着という結果に終わりました。

しかし、この結果でも十分満足できる内容だったと思います。

何故なら、今回のレースで得た賞金のおかげで今月の家賃を払うことができたからです。

つまり、これでようやく借金を返済することができたことになります。

そう思うと、嬉しくて涙が出そうになりましたが、必死に堪えて平静を装うことにしました。

それから帰り支度を済ませると、再び更衣室に戻って汗を流してから帰宅することにしました。

家に帰った後は、まずシャワーを浴びてから昼食をとり、午後からは部屋の掃除をしたり、

買い物に行ったりして過ごしました。

そして夜になったら夕食を食べて早めに寝ることにしました。

翌日、いつも通りに競輪場へ出勤すると、従業員たちが慌ただしく動き回っていました。

何かあったのかと思っていると、 そこへ所長が現れ、私にこう告げました。

「実は、昨日のレース中に落車事故が発生して、一台が破損してしまったらしいんだ。

それで、その修理費を誰が負担するかという話になっているんだが、何か意見はあるかね?」

それを聞いて私は考え込みました。

(どうしよう、私には関係ない話だと思ってたから何も考えてなかったよ……)

私が黙っているのを見て不安になったのでしょう、周りの人達の視線が集まっていることに気づきました。

みんな無言ですが、明らかに期待している様子が窺えます。

それを見た時、私は覚悟を決めました。

そして恐る恐る手を挙げながら言いました。

「……わ、私が出します!」

その言葉を聞いた瞬間、周りが一斉にざわつき始めました。

無理もないことです、いきなり部外者である私が名乗り出たのですから当然の反応と言えるでしょう。

そんな中、所長が口を開きました。

「……本当にいいのかい? 後悔することになるかもしれないよ?」

念を押すように問いかけてくる言葉に、私はしっかりと頷き返しました。

それを見た所長は少し困ったような表情を浮かべていましたが、

やがて諦めたかのように溜息をつくと、こう言いました。

「……わかった、そこまで言うなら任せようじゃないか。

ただし、条件がある。君にはこれから毎日、一日あたり1000円ずつ借金返済のために支払ってもらうことにする。

それができない場合は、この仕事は辞めてもらうことになるからね、いいね?」

その言葉を聞いてもなお、私は迷うことなく了承しました。

もとより覚悟の上です、今更引き返すつもりなどありません。

そして、すぐに仕事に取り掛かることになりました。

まずは壊れたというマシンを見せてもらいましたが、想像以上に酷い状態でした。

フレームは完全に折れ曲がり、ホイールやブレーキも完全に潰れてしまっていて、

とても走ることができそうな状態ではありません。

(こんなになるまで無茶するなんて、よっぽど負けたくなかったんだろうな……)

そんなことを考えながら、私は必死で作業を進めました。

それから数日後、何とか全てのパーツの交換が完了し、走行可能な状態にすることができました。

試運転ということで、早速走らせてみることになりました。

初めはゆっくりと慣らし運転をしていたのですが、徐々にスピードを上げていき、

ラスト一周というところで全力を出し切って走りきりました。

(やった! 直った!)

そう思った瞬間、周囲から大きな歓声が上がったので驚いて振り返ると、

そこには大勢のお客さん達が詰めかけていました。

その中には、あの鈴木さんの姿もあります。

彼女は涙を流しながら喜んでくれて、私も嬉しくなりました。

その後も何度か走っては皆さんの前で披露するといったことを繰り返していましたが、

さすがに疲れてきたため休憩をとることにしました。

椅子に腰掛けて休んでいると、そこに誰かがやってきました。

それは美香さんでした。

どうやら彼女も見に来ていたようです。

私が頑張っている姿を見て感動したらしく、泣いてくれました。

そんな彼女の姿に、私も思わず貰い泣きしそうになり、慌てて目元を拭いました。

そんな私たちの様子を、周りの人たちは微笑ましそうに見守っていました。

その後、もう一度コースに出て走り始めると、観客の皆さんからの声援を受けながら全力で駆け抜けました。

もう以前のように転倒することはありませんでした。

むしろ以前より調子がいいくらいです。

これならきっと優勝することができるはず、と確信したところで最終コーナーに差し掛かりました。

そこで勝負をかけるべく、私は腰を上げると一気に加速していきました。

そうしてホームストレートを駆け抜けると、見事1着でゴールインしました。

その瞬間、大歓声が巻き起こり、場内アナウンスでも祝福の言葉が伝えられました。

その様子を見届けた後、私はホッと胸を撫で下ろしました。

(よかった、勝てた……これで借金を返せる……!)

喜びに浸っていると、急に疲労感に襲われてその場に座り込んでしまいました。

心配した人たちが駆け寄ってくる中、私は笑顔で手を振り返すことで応えました。

ようやく手に入れた自由でしたが、まだやるべきことがあります。

だから休む暇もなく、次のレースに向けてトレーニングに励むことにしました。

最初は慣れなかったパドリングも段々とスムーズにこなせるようになり、

スラロームなどもスムーズにこなせるようになりました。

おかげでタイムも縮まってきています。

まだまだ遅い方だとは思いますが、それでも着実に成長していることを感じられて嬉しかったです。

それに、何よりも借金を返すことができたことが嬉しくてたまりませんでした。

そんな日々を過ごしているうちに、あっという間に半年が経過してしまいました。

その間、一度も休みを取らずに走り続けていたせいか、すっかり身体が引き締まって筋肉質になっていました。

また、それに伴い体重も増えましたが、特に気にするようなこともありません。

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