第15話 Evanescent〈上〉



 吸血鬼となって以来、神に助けを求めて縋ることはやめた春だったが、今この時ばかりは「神様なんとかして僕を無事に帰らせてください今すぐに」と願わずにはいられなかった。

 眼前の光景――カフェの片隅、向かい合わせのテーブルの対岸には腕組みをした清冽な美女・榎島朱美が座り、春をじっと睨んでいるのだから。

「それで。あなたが環波春さん、翠の恋人……でいいのよね?」

「……はい。妹さんとお付き合いをさせていただいています。環波です」

 どう切り出していいか分からず、春は聞かれたことにだけ答える形になる。

「歯切れが悪い。十点減点」

「えっ、なんか点数引かれてる。こわい」

「いくつ?」

「え?」

「年。いくつなの」

「二十六歳です。今年で二十七になります」

「それじゃ、わたしの方が上ね。今年で二十九だから」

「そう、なんですね。僕はてっきり……もう少しお若いか同じくらいだと思っていました」

「よく言われる、でも残念ながらもうすぐ三十路。アラサーってやつね。でもそれはあなたも同じこと。ねえ、自分が九歳も年下の子どもに手を出したってこと、ちゃんとわかってる?」

「それは、……はい。責任は全部僕にある。それは自覚しています。多分、僕の方が少し狡いことをしているってことも認めます」

「……そう。ごめんなさい、責めるつもりはない。でも、妹の……翠のことだから少し、いや、だいぶナーバスになっちゃって」

 朱美はそう告げると、やっと微笑みらしきものを顔に浮かべて見せた。苦味の勝る笑みだったが。

「ここ、全面禁煙だから。少し居心地が悪いのは勘弁してほしい。喫煙者だってことは翠から聞いている。わたしも仕事の時はそう」

「大丈夫です。慣れていますし。……榎島さんも煙草を吸うんですね」

「朱美でいい。少しだけね。あの子が吸うから、わたしも試してみたら、つい?」

「……翠さんのことが本当に大切なんですね。翠さんも朱美さんのことを大切にしている。僕が割って入る余地なんてないくらいに」

「それは当たり前。あの子が一人で歩けるようになる前からずっと面倒みてきたんだからね。でも、翠の人生は翠のもの。わたしに所有権はない。だからあの子があなたを好きで諦めないというのなら、それはあの子自身の決断だ。わたしはそれが上手くいくように全力で背中を押すだけ」

 朱美は中身が減らずに結露したカップへ視線を落とした。

「でも、翠の人生は自分ひとりで背負うには少し重過ぎるんだ。だから誰かが隣で支えてあげないとならない。それがずっとわたしの役目で、これからもそうだと思っていた。それがまさか人たらしの吸血鬼バーテンに持っていかれるなんてね」

「それ、は」

「ごめんなさい。わたし、環波さんに嫉妬していたのだと思う。今、話してみて気がついた」

 朱美は端的にそう告げて、軽く頭を下げた。

 そして、顔を上げた彼女は真っ直ぐに春を見つめて言った。

「だから、ありがとう。あの子の支えになってくれて、隣にいてくれて。なにより翠を笑顔にしてくれて、ありがとう」

「僕は、でも、もらってばかりで何もしてあげられていませんよ。助けられているのはいつも僕の方です。……翠さんをそんなに素晴らしい女の子に育てたのは朱美さんじゃないですか」

「ほんと、翠の話の通りで口がうまいのね。二十点減点」

「また点数が減ってる!?」

 朱美は溶けかけたフラペチーノを啜ると、微笑みを浮かべる。

「葬式で見かけたのが最初だったけど、あなた本当に綺麗な顔をしている。容姿だけなら百二十点。翠が惚れるのも無理はない」

「それは……褒めてもらえてはいないようですね」

「当然。外面がいい男なんて五万といるだけの有象無象だ。でも、あなたは少し違うようだね。相当変わり者だけど、それを差し引いても、さ。臆病だけど優しい、みたいな? それをしっかりと体現している」

 ストローを指先で弄びながら、朱美が続ける。

「翠はあなたと出会ってから変わった。あの子は明るくて朗らかなのが生来の性格だけど、生きることに無頓着だった。たかだかボランティアのくせに他の子の葬式まで出向くなんて、少し異常だとも思っていた。でも、それはきっとこわいからだったのだと思う。あの子はずっと死ぬための予行演習をしているように生きていた。でも、環波さんと付き合い始めてからは違った。よく笑うようになったし、自分のために泣くようにもなった。死のための準備なんかに明け暮れるのをやめて、自分の人生を生きるようになった。わたしにはそれが嬉しかった」

 そこまで言って、朱美はほんの少し押し黙った。

 沈黙は苦痛ではなかったが、春には朱美の様子が気がかりだった。

 朱美は少しの時間でなにかを決意したようだった。

「翠はあなたを大切にしている。わたしもそれを尊重する。だからこそ、あの子にいよいよという時がきても傍にいてくれだなんて言えません。環波さんはいつでも逃げ出していい。それは恥ずべきことじゃない。わたしたちにはあなたの人生を奪う権利はないのだから。あなたが翠を愛するほどにこれから起こることは怖くて悲しいことになると、覚えておいてほしい」

「……それは」

 春は続きを紡ごうとして、躊躇した。

 朱美の言葉はそれほどまでに真摯でいて、そして強い意志を宿したものだったからだ。

「でもね、時が許す限りあの子の良き友人であり、恋人でもあるように振る舞ってあげてほしい。これも本音。だから、とりあえずはよろしく、ね?」

 朱美は春に向かってそっと手を伸べた。

 春もその手を取って握り返した。握手を交わして、手を離す。

「これでおあいこ。晴れて共犯関係成立だ」

「本当に頼りになるお姉さんですね」

 朱美は柔らかな笑みを浮かべて見せた。

「引き留めて悪かったね。環波さんも今日は仕事なのでしょう」

「いいえ。こちらもお時間を下さってありがとうございました。そうだ、これを」

 春は店の名刺を朱美に渡した。

「僕の仕事先のバーです。隠れた名店……と僕が自分で紹介してしまうのは恥ずかしいですが。僕はともかく、マスターの作るカクテルは本当に美味しいですよ。よければいつか、いらしてください」

「ありがとう。今度、連れといっしょにひやかしに行く。自慢じゃないけど、どちらもお酒は強い方。覚悟していて」

「それは手厳しいな」

 春と朱美は店を出ると軽く挨拶をし、それぞれ別の方向へ歩き出した。

 朱美はこれから帰宅するのだと言う。

 病院併設のコーヒーショップにいたのは花火大会の間、病室に残された翠が泣いたりしていないかを心配し、近場に留まっていたからだった。杞憂だったみたいだけど、と朱美は最後に付け足して笑っていたが。

 春も〈proof〉に向かうべく、すすきの方面へと急いだ。

 朱美と話をすることができてよかった。春は素直にそう感じていた。

 翠に対する想いを再確認し、またひとつ覚悟することができたからだ。

 翠――そしてルリと向き合う、そのための覚悟を。


 §


「おかえり。お客さんが増えてきたところだから、助かるよ」

「ただいま戻りました。忙しい日にすみませんでした」

 春が病院から店に戻ると、小此木は笑顔で迎えてくれた。

「で、花火はどうだった……って聞くまでもないみたいだね。ひどい顔だ」

 春の表情から何かを読み取ったらしく、小此木は苦笑いして肩を竦めてみせる。

 春も苦笑して答えるしかない。

「実際、ひどい状態なので」

「どういう状況? 環波くんが落ち込むのは……まあ分かるけどさ。彼女ちゃん、そんなに厳しい状態なわけ」

「ちゃんと会って話もできましたし、最後の方は笑ってくれたんですけどね。少し、記憶が曖昧になっているところがあるみたいで。それに、手や脚の――運動機能の障害が出ているようでした。前よりも弱っていることが分かるくらいに」

 淡々と告げたつもりだったが、小此木は春の口ぶりや表情から何かを読み取ったらしい。

「今日、このまま上がっても平気だよ。西山さんもヘルプで入ってくれてるし」

「いえ、大丈夫。タイムカード切っちゃいましたし、今夜はしっかり働きますよ」

「……わかった。それじゃ、お願いするよ」

「はい。ありがとうございます」

 ドアベルが鳴り、グループ客が入店する。

 春はいつも通りの控えめな笑顔で彼らを迎え入れ、接客を開始した。

 その夜は小此木の見込み通りで花火大会から引き上げた客が多く訪れ、零時を回っても客足が途切れることはなかった。

 最後の客が席を立ち、春たちがようやく一息をついた頃には午前二時半を過ぎていた。

「おつかれちゃん。西山さんはそのまま上がって、環波くんは一服してきてもいいよ」

 グラスを片付けながら小此木が言うので、春はその言葉に甘えて裏口から外に出た。

 七月最後の金曜日。街はまだ眠らないようで、すすきのの喧騒は相変わらずだ。

 深夜だというのに生ぬるい空気は、もうとっくに夏本番になっていたことを嫌でも春に思い知らせてくる。

 春は長い前髪をかき上げつつ、煙草に火を点けた。ほどなくして紫煙が上がる。

「はろー。いい夜だね、春」

 聞き慣れた声が響く。闇の中から一歩を踏み出す影があった。

 現れたのは幽けき美貌。殺人者の青年だった。

「……こんばんは、殉哉くん」

「あは。なんか久しぶりだねー」

 あっけらかんとして微笑む殉哉に対し、春は複雑な心境を抱く。

 姿を見せなかったのは彼もまた自分が傷つけたからだと思っていたからだ。

 内心を押し隠し、春は返した。

「久しぶりなのはきみが店に顔を出さないからでしょう。というか僕の周りにも、むしろ札幌にいなかったんじゃないの」

「ご名答。ちょっと野暮用でね、道東の方まで出かけていたんだ。なに、春ってば、おれがいなくて寂しかったの?」

「……誰が。きみのことなど、誰も案じるものか」

「相変わらずひどいなぁ」

 そう言いながらも殉哉はどこか愉快そうに笑う。

 ポケットを弄って煙草を取り出すと、殉哉もそれに火を点けてふかし始めた。

「ねえ、どうなの。最近は。あの子は元気? それとも、もうくたばった?」

「……うるさいよ」

「あはっ、まだなんだァ。頑張ってるっていうか、案外しぶといねぇ。でもいいね、そういうのは――殺したくなる」

 隣に立つ殉哉からは本当に殺気が感じられた。この青年は本心から言っているのだ。

「きみに翠は殺させない」

 春もまた本心から告げる。

「へえ。でも、おれがやらなくてもあの娘は放っておかないかもよ?」

「わかっている。僕はルリにももう誰も殺させはしない。これは僕が決着をつけなければならないことだ。わかっていて先延ばしにしてきた。その分の罪は背負うつもりです」

「なんだ。ちょっと見ない間に春、変わっちゃったんだね」

 春は何も答えず、淡く微笑むのみ。

 対する殉哉はほんの少し寂しげな表情になった。

 それに気づかないふりをして、春は言葉を続けた。

「だから、殉哉くんにお願いしたいことがある。これは僕から殺し屋のきみへの依頼です」

 意を決した春が告げると、殉哉は唇の端を釣り上げ、三日月のような笑みを浮かべた。

 それは殺しを生業とする彼の本性からの微笑みだった。

「なんなりと、王子様」



「休憩は終わりかい」

 春が店内に戻ると、小此木はいつものようにグラスを拭いていた。

「ええ。ありがとうございます」

「殉哉くんは帰ったの?」

「……気づいていたんですか」

「ぼくが何年すすきのでバーテンやってると思っているんだい。あの手の子の気配くらいは読み取れるよ」

「そうでしたか」

 春としては複雑な気分だ。小此木はきっと全部理解した上でことの成り行きを見守っていたのだ。

「では、僕のことも知った上で雇ってくれていたんですか?」

「まあ、ある程度まではだけれどね」

 小此木は曖昧な笑みで答えた。

 丁寧に磨いたグラスをふたつ取り出し、カウンターに並べる。

「それでも、きみを〈proof〉に入れてよかったと思っているよ。真面目だし、よく働いてくれる。それに見た目がいいから、きみ目当てのお客さんもたくさん来てくれるようになった」

「それは……買い被りすぎですよ」

「どうかなぁ。まあ、最初――初めて会った頃のきみはボロボロで、もっと危うかったと思う。ぼくがここで声を掛けなければ、この子は裏の社会へ真っ逆さまに落ちてしまいそうだと思った。だから雇い入れた」

「それは……」

「でも、今は違う。半年前と違って、地に足がついているように見える。なんと言うか、他人と向き合って、他者のために傷つき、真に悲しむことができるようになったんだなと感じているよ。変わったね、きみは」

 淡く微笑むと、小此木は並べたグラスに丸氷を入れて、メニューには載せていないコニャックを注いだ。そして片方を春の前に差し出した。

「飲もう。たまにはいいでしょう。ぼくの奢りだよ」

「……ありがとうございます」

「環波くんの変化とこの先の未来に」

 そう言って、小此木は自分のグラスを春のグラスにこつんとぶつけた。乾杯のつもりらしい。そのまま一口を飲んだ。

 春もそれに倣って口をつける。

 甘く芳しい酒の香りが口内に広がり、高度数のアルコールが喉を焼いた。

「美味しいけど、少し強いお酒ですね」

「それでも今はこれが必要だろう?」

 茶目っ気たっぷりに小此木が片目をつぶってみせた。確かに違いはなかった。

「僕の変化、か。変われるんですね、僕」

 自覚していなかった自身の変化を指摘され、春は得も言われぬ気持ちになっていた。

 もう自分は一生このままだと思い込んでいたからだ。

 それがまさかこのような形で変わることになるとは思ってもみなかったのだ。

「ああ。それはぼくが保証する。きみは変わったし、これからもそうあり続けるだろうよ」

 顔色ひとつ変えずに、小此木は自分の杯を開けてしまって、もう一杯を注ぎ入れる。

 小此木の言葉は頼もしく、春の胸を熱くさせた。泣いてしまいそうなくらい、熱く。

 二人はそうしてしばらくの間、酒を酌み交わした。



 太陽はまだ昇らない。

 ただ朝の気配――冷えたアスファルトの匂いや川の音、夜の底に蟠っていた冷たい空気が濃くなった気がして、春は家路を急いだ。

 まずは眠ることだ。

 そして次の夜が来たら、今度こそ彼女を迎えに行こう。

 ずっと向き合えずにいた過去を探して、すべてを清算するときがきたのだ。

 自らの影のいない道を歩みながら、抱いた決意を確かめるように春は自宅へと引き上げていった。


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