第7話 Let the Right One Slip In〈上〉



 その部屋は翠にとって空虚にさえ思われた。

 それは先程訪れたばかりの水族館を思わせる、夜と眠り――そして祈りのためだけにある部屋のようであった。

「春さんの部屋、本当にものが少ないんですね」

 廊下からリビングに足を踏み入れた翠がそう口にする。

 春の部屋には生活感というものがなかった。

 生活に必要最低限な家具は揃っているものの、そこで実際に人間が生活しているという実感が湧かない――そう、なんの匂いも味もない料理を出されたときのような感覚がしっくりくるだろうか。

 札幌に来て半年と少しだと春は語っていたが、それにしてもおかしい。

 ほとんど使われた様子のないソファに春は脱いで手に持っていたジャケットをかけた。

「文字通り、はりぼての部屋だからです。僕が一応はふつうに生活しているんだって見せかけるためだけの、朝になるまでにただ眠りにつくためだけの部屋ですからね」

 いたって当然だというように言って、春はゆるく結えていた髪を解いた。思いの外長い髪が肩に散らばる。黒い花びらのようだと翠は思った。

「翠さんも、楽にして。どうぞ座ってください」

「あ……はい」

「紅茶とコーヒー、日本茶がありますが、何か飲みますか?」

「えと、じゃあ日本茶で」

「了解。少し待っていて」

 ダイニングに行くと、春は湯を沸かし始めた。

 そのまま換気扇を回し、煙草を吸い始めたようだった。

 翠は所在なさげに当たりを見回し、観察するしかない。

「モニターの下にDVDがある筈だから、何か観たいものがあったら選んでいてもいいですよ」

「わ、わかった」

「もし無ければサブスクから候補を探しましょう」

「はい」

 テレビの下の棚を探る。確かにBlu-rayやDVDのソフトがいくつか揃えられており、そこには翠が観たことのあるタイトルも含まれていた。

 未視聴のものを何本かを取り出し、見比べてみる。

 ソナチネ、HANABI、ドールズ。これらは北野武監督作品だ。アウトレイジ。これは翠も観たことがある。日本人監督の作品では他に岩井俊二の初期作も揃えられていた。

 エレファント、ミルク、永遠の僕たち。小説家を見つけたら。マイ・プライベート・アイダホ。ガス・ヴァン・サント作品。

 ウディ・アレンの作品も揃えられているようだ。それとウォン・カーウァイの映画がいくつか。

 他にも翠が知らない古い作品が複数あった。

 些か偏ってはいるかもしれないが、春はどこか感傷的で叙情的な作風を好むようだ。

 ……うん、悪くない。翠は素直にそう思った。

 孤独な時、春は一人でこれらの映画を観て過ごしているのだろうか。

「……なんか、いいですね」

「何かいいました?」

「いえ。なんにも……おれもそっちに言って煙草を吸ってもいい?」

「どうぞ。気が利かなくてすみません」

 翠は立ち上がるとダイニングに移動する。その際、やけに機械的な箱――実験用の冷蔵庫のような家具が目についたが、あれは一体なんなのだろうか。

 やはり道具の少ないダイニングに二人並んで煙草を吸う。

 換気扇が回る音だけが響いているが、気まずくはない。

「やっと一服できました。よかった」

「水族館は火気厳禁ですし、最近では喫煙所も限られていますからね。世知辛い」

 春はそう言って先に吸っていた煙草を灰皿に押し付ける。

 湯が沸いたようで、手際よく日本茶とお茶請けの羊羹が用意されていく。

 翠が一服している間に、その翠当人をもてなす準備が整ってしまったようだ。

「リビングに運んでおきますから、吸い終わったら来てください」

「あ……すみません。すぐ消します」

「ゆっくりでいいですよ」

 ほとんど吸い終えていた煙草を消して、翠もリビングへと戻る。

 ソファの前に据え付けられたローテーブル。そこにお茶とお菓子が置かれていた。

 春はテレビの前でDVDをピックアップしている。

「どうぞ、座って」

「はい」

 翠は素直にソファに腰をかけた。

 どうにも動きがぎこちないのは言わずもがな緊張によるものだ。

「何か観たいものはありましたか?」

「あっ、ええと……じゃあ、スタンド・バイ・ミーが観たいです。それか、マイ・ブルーベリー・ナイツ。でも春さんが見飽きているなら、ネトフリで何か選ぼう?」

「いいですよ。そこにあるのは僕のオールタイムベストですから、どれでも何回でも大丈夫なんです。それに翠さんと観たら、また新しい発見があるかもしれない」

 春はそう言って子どものように微笑んだ。無防備な笑みだ。

 ここは彼の自宅で安全圏だ。だから安心して、いつもよりも幾分か気が緩んでいるのかもしれない。初めてみる類の笑顔だった。

 ……やめてよ、もう。

 翠は思う。これ以上そんな顔みせられたら、もっと好きになってしまうだろう、と。

「あ、これもおすすめですよ。ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」

「天国ではみんなが海の話をするんだぜ」

「知っていましたか」

「あれはおれのための映画です。何度も観た」

「……ちょっと不謹慎だった。ごめんなさい」

 ノッキン・オン・ヘブンズ・ドアには医師から余命宣告を受け、末期病棟に入院をする二人の患者が主人公として登場する。その一人は脳腫瘍を患っている。翠と同じだ。

 二人は意気投合して病院から抜け出し、マフィアの車を盗んで海を見に行く人生最後の旅に出るのだ。

「いいんですよ。でも、おれにはおあえつら向きだと思いませんか?」

「それは、確かに」

「おれも天国の話題にはついていきたいもの。だから、海もちゃんと見に行きました」

「もしかしてアプリのプロフィール画面の……」

「そうです。あの背景は実際におれが見た風景を撮ったものです。綺麗だったんだよ、夜明けの海。これでおれが死んでもみんなの話題についていけるって、実際少し安心した。映画の中の作り話だとしてもね」

 薄く微笑んで肩をすくめてみせる。

 春はそんな翠を黙ってみていたが、やがて何本かピックアップしたDVDを抱えて戻ってきた。その中にはノッキン・オン・ヘブンズ・ドアも含まれていた。

「……僕も翠さんの話題についていきたいですからね。それに僕は夜明けの海が見られないから、君の話をもっと聞きたい」

「そんな話なら、いくらでも」

 春は翠の隣に座って、モニターの電源を入れた。

 それからスタンド・バイ・ミーを観た。

 テディの父親についてゴミ捨て場のマイロが罵倒する場面で翠は憤慨し、パイ食い競争の場面では二人して登場人物と一緒に笑い合った。

 死体を探す旅から街に戻ってきた少年たちが一人一人別れていくシーンで、翠は静かに涙を流した。

『私はあの頃に勝る友人をもう二度ともったことはない。誰でも皆、そうなのではないだろうか?』

 主人公がそう書きかけの著作を締め括ったところで、曲が流れ始め、物語は終わる。

 死体を見に行く冒険を共にするような友人。

 もしかすると、翠にとって春はそのような友人なのかもしれない。

 葬式に忍び込んで死体と対面する。これもある種の通過儀礼にすぎないのかもしれない。だとすれば翠と春は戦友のようなものだろう。

「なんかこの映画、おれと春さんみたいでした」

 翠は目元をぬぐいながらそう言って微笑んだ。

「そうですか? ……まあ、たしかに葬式ゲームなんてしていますし、ね。死体を見に行く冒険という点では同じかもしれないな」

「……ゴーディ少年と春さんは似ていますね。おれが当然クリスです」

「ちょ、僕がクリスでゴーディは翠さんですよ! 僕は、ケツっぺたにでかいのを撃ち込んでやるなんて暴言吐きませんもん。それに年長ですし」

 主人公の少年ゴーディと、その親友で兄貴分であるクリス。

 スタンド・バイ・ミーは彼らを含む四人の少年が登場し、ゴーディとクリスが少年期を平坦な戦場で成長し、生き抜く話でもある。

 死体を探しに出る旅は大人になるための通過儀礼であり、旅の前と後ではもう元には戻れなくなっている。

「でも、知ってた? 最後の銃を構える場面、原作では逆なんですよ」

「そうなんですか? それは知らなかったな」

「クリスが、俺のそばにいてくれスタンドバイミーと祈りながら、拳銃を構えてエースと対峙するんです。だから映画とは立場が入れ替わっている」

「それは……コインの裏と表のようですね」

「そうです。だからどっちでもいいってことでひとつ」

「なるほど。それならそうしておきましょうか」

 二人はそれから何本も映画を観た。

 コメディからダークなサスペンスまで、DVDやサブスクリプションから選択したものをざっくばらんに観て、笑いあい、涙し、ときに文句を言ってけなし、最後には喝采した。

 ミステリ作品を見ている途中にはあれやこれやと犯人や推理を披露し、ラストシーンの是非について議論を交わした。

 映画を観終わる頃には、翠もすっかりリラックスした体勢になって、最初の緊張感はどこかに飛んでいっていた。

「ああ、面白かった! 久しぶりに映画三昧だったな」

 選んだものを一通り見終えて、翠はまるでたらふく飯を食べたときのような満足感を覚えて息をついた。

「そうですね。僕もこんなに一気に見たのは久しぶりでした」

 春も同じなのか、やはり満足そうにソファに凭れて笑っていた。

「春さんも楽しそうでよかった。おればっかり楽しかったのなら、それはよくないし」

「それは大丈夫。僕も楽しかった」

 春は翠に対して優しく笑いかけてくれた。

 それで翠も踏ん切りがついて、小さな告白をすることに決めた。

「おれ……男のひとの部屋にあがったの、初めてで。本当はすごく怖かったし、緊張していた」

「そうだったんですか。僕はてっきり……それなら僕ももう少し気を使っていればよかったな」

「それはいいんです、春さんはすごく優しくしてくれた。……それに誘ってくれたおかげで、おれのやりたいことリスト、ふたつ埋まったし」

「やりたいことリスト?」

「おれにもあるんです。月並みだけど、死ぬ前にやりたいことリストってやつ。映画とかドラマとかでよくあるでしょう。死ぬ前にやりたい百のこと、とか。要するに……そういう類のやつ、です……」

 やはり少し恥ずかしくて、最後はぶっきらぼうな言い方になってしまった。

 それでも翠は微笑むと、

「だから、ありがとうございます」

 そう礼を述べた。

「……ちなみに今日は何の項目が埋まったの?」

「男の人の家に行って過ごすこと。それと、一緒に映画を観ること」

 そう。どちらも翠は初めて達成したのだった。

「そのリスト、他にはどんなことがあるんですか?」

「それは内緒。それともまた質問ゲーム、します?」

 不敵な笑みを浮かべて答える。質問に質問で返してしまった。さすがにやりたいことリストの内容を明かすのは恥ずかしく思えたからだ。

 返事はすぐには返ってこなかった。怪訝な顔で春の方をみやる。

 春は柔らかく微笑みながら、何かを言おうとして少し躊躇っているようだった。

「そんなに質問ゲームが嫌でした? あれはおれも、その……色々言っちゃって悪かったと思って……」

「この前の答え」

「え?」

「……まだ言ってなかったから。僕も君となら付き合ってもいいと思った」

 唐突な告白だった。

 今日、きっと答えが返ってくると思っていた。

 けれど、これでは不意打ちもいいところだ。

「どう思っていたって構わないと、翠さんは言っていたけれど。たぶん、僕は君のことが好きなんだと思います。翠さんはどうですか」

 春は思いの外真剣な顔をして、翠の目を見つめていた。

 灰青色の瞳には相手の気持ちを慮る気持ちと同時に、どこか切望めいた色が浮かんでいた。

「……おれ」

「はい」

「おれは……あなたが最初にお葬式にきたとき、から……その」

「聞こえませんよ。もっと言って、ちゃんと」

「あなたならいいって。好きだなって、思って、いました……だから」

「僕とお付き合いしてくれますか? その、やりたいことリストにあればですが」

 翠の手を取り、そっとくちづけると、春はそう真剣に告げてきた。

 言葉が上手く出てこない。それでも翠は懸命に頷いた。

「は、はい。……ごめんなさい」

「……どうしてあやまるのさ」

「おれ……死んじゃうのに、こんなこと、お願いして。すごく汚いことしてるって思って」

「だめですよ。もう翠さんの方から言ってしまっているんですから。後戻りなんて許しません。僕も、もう間違わないようにするから――あなたが死んでしまうまで一緒にいてください」

「……はい。ごめんなさい……でも、うれしい、好きです。春さんが、好き」

 拒むことなんてできなかった。翠は答える前から、ぼろぼろと涙をこぼして。それでも懸命に頷いた。

 春は両腕を伸ばすと、翠を包み込むように抱擁した。体格差から翠の体は春の腕の中に簡単に収まってしまう。

 熱かった。熱いと感じた。それがどちらの熱なのか、わからなかった。

 ぎゅっと抱き寄せられ、徐々に強く、きつく抱きすくめられる。

「……春さん?」

 春は翠の頬に手を添え、前髪を避けると、鼻先を近づけ、そっと唇を重ねてきた。

 熱く。しっとりと。

 触れるだけのキスから、柔らかく唇を喰まれ、舌先で歯列をなぞられる。

 呼吸を求めて、そして愛撫に耐えかねて口を開けると、優しく春の舌が挿し入れられる。熱く湿っていて、何だか甘い。

 翠の舌に春の舌が絡み、吸われ、唾液が捏ねられた。

「ん……ふッ、ぁ……」

 自分のものとは思えない、蕩けたような声がキスの合間に溢れている。それさえ遠く聞こえた。

 春はきつく翠に口付けると、ようやく顔を離してくれた。

「僕も翠さんが好きですよ」

 翠を抱きしめたまま、耳許でそっと囁やく。その声は思ったよりも低くて、そして真摯に響いた。

「春、さん」

「ん」

 おっかなびっくり、翠は春の名を呼んだ。

 抱きしめられた体勢では春の表情が窺い知れない。でも、素直に願望を口にしていた。

「もう一回、もっと……してほしい。キス」

 春はそれを聞き届けると、もう一度唇を重ねてきた。翠も今度は愛撫に応じ、おずおずと舌を絡ませていく。

 音がしても構わなかった。角度を変えて何度も口付け、頭がじん、と痛くなるまでそれをやめなかった。

「……すっかり遅くなっちゃいましたね」

「ほんとだ」

 抱き合い、何度もキスを交わし、やがて気づいた時には時計が二十二時半を指していた。

「今日は帰りなさい。お姉さんも心配するでしょう」

「……うん」

 翠が素直に首を振ると、春は翠の頭をぽんぽんと撫でてくれた。

「最寄り駅まで送っていきます。支度をしていてください」

 春は茶托を下げにダイニングに行き、その隙に翠は乱れた衣服を元に戻した。カーディガンを着て、スカートをとんとん叩いて皺を伸ばした。

 春が戻ってきてジャケットを羽織り、忘れ物がないかを確認してから玄関へと移動する。

「また今度、徹夜で映画鑑賞大会をしましょう」

「……はい」

 翠が小さく頷く。

 春は何かに気付いたように顔を上げた。

「あ。ひとつ忘れ物をしていました」

「え、なにかありましたか」

 言いかけた翠の唇を半ば強引に塞ぎ、翠の両腕を壁に押し付け、春はきつく翠に口付けた。

「んっ……」

 先ほどとは異なる、乱暴で無作法なキスだった。

 でも、それとは裏腹にそんな扱いをどこか喜んでいる自分がいることに、翠は初めて気付かされた。

 弄ぶようにキスを交わし、唇を離す。つ、と銀糸が二人の唇の間を伝い落ちた。

「……これから、春さんの扱いには注意しないとですね」

 翠はいじけたように見せて呟くが、まんざらでもないことは伝わるように曖昧な表情を浮かべてみせた。

「翠さんって、案外エッチですね」

「なっ! ば、ばか! これはそっちが――もういいっ。帰ろう!」

 靴を履いて踵を返す。

「鍵、開けていい?」

「……ちょっと待って」

 ドアの前に立った翠の背中を、背後から春が抱きすくめた。

「充電、させてください」

「充電って。またすぐ会えばいいのに。春さんたら」

「……いいから、少しだけ」

 翠の肩口に鼻先と唇を埋め、春が祈るように言う。そんなふうに請われたら、無下にすることなんてできない。翠は黙って春の抱擁に身を任せた。

 たっぷり九十秒はそうしていただろうか。

「これで、また会える時まで僕も元気で過ごせます」

 今度こそ翠から手を離して、春が言う。

 ドアのロックを解き、鍵を開ける。

 夜の匂いに川縁の水の匂いが混ざって漂っていた。



 翠はもう少しだけ春と一緒にいる時間が欲しくて、地下鉄を一駅分歩くように願い出た。

 そうするとすすきの界隈まで歩くことになるがいいのかと春は聞いたが、翠は構わないと答えた。

 初夏の夜の風は爽やかに澄み切っており、先ほどまでの出来事でのぼせた体温には心地がよかった。

 二人は並んで川沿いを歩き、すすきの方面へと向かっていた。

「今日の春さんは少し強引でした。次からはもう少し紳士らしく振る舞うように」

「……どういうふうに見ていたかわかりませんが、僕も余裕がなかったんですよ。いつ返事をしようか、そもそもしてもいいのかと、ずっと考えていましたから」

 そんなことを言う春は翠から目を逸らし、都合が悪そうに答える。

「余裕、なかったんだ」

「悪い? 君のことだから、僕もとても悩んだんですよ。これでも」

「それなら許します。おれ、春さんにとって、もっと都合の悪い女の子になってやりますから。だからこれから覚悟していてください。ね?」

「それは手厳しいな。……左手を拝借しても、彼女様?」

「よい。許す」

 翠の手を取り、春が指を絡めてくる。

 翠はくすぐったそうに笑い声を上げる。そんな翠の様子をみて、春も苦笑いしている。

 誰かとこうして手を繋いで歩くなんて初めてのことだった。歩きやすくはないが、これはこれで心地の良いものだと翠は思った。

「……翠さんは、その……キスは初めてだったんですか」

「いえ。前に一度だけ。でもそれきりでしたけど。なに、初キスじゃなくて残念だった?」

「正直にいうと、はい」

「でも一回だけだから、数では春さんの勝ちです。それに」

「なんです?」

「……これ言うの、すごく恥ずかしいけど、き、気持ちよかった、から。キス」

 自分で言っていて頬を赤くしながらも、翠は自分の気持ちを正直に告げていた。

 春の前ではどうしてもそうなってしまうようで、翠にとっては何だか悔しくもあった。

「そんなことを言われると、もっとしたくなる」

「ここではダメです」

「わかってますよ。……でも、次はもっとしましょう。キスだけじゃなく、もっとたくさん、いろんなこと。僕はいろんな翠さんが見たいですから」

「ばっ、ばばばっばかッ! そういうの禁止って言ってるじゃないですか!」

「恥ずかしがっている翠さんもかわいいのに」

 春から手を離して腰のあたりをばしばし叩くが、春は動じずに軽く笑ってみせるだけだった。

 これも大人の余裕なのだろうか。本当に悔しい。

「でも春さん――」

「しっ!」

 すすきの界隈に差し掛かる路地に入ったところだった。

 翠の言葉を鋭く遮り、春が前に身を乗り出す。

 春は明らかに緊張した面持ちで、あたりを睥睨している。

 翠も異変を察知して、一歩、春の後ろに下がって声をひそめた。

「……どうしたんですか」

「おかしい。なにかが……血の匂いがする」

「……え?」

 春は確かに血の匂いがする、と言った。それを翠は感じ取ることができない。

 だが、春の様子は明らかにおかしい。

「この先に何かある。翠さん、僕から離れないでいてください」

 翠は無言で頷くしかない。

 息を、そして気配を殺すように歩き、路地を抜けようとしたときだった。

 赤く。そしてどす黒く。

 激しく血に塗り潰され、捻り殺された死体がそこにあった。

「なッ……ぅ」

 小さくえずく翠を後ろに庇いながら、春が呆然と死体に向き合う。

「なに、これ……どうして」

 動揺して声を上げる翠に死体を見せまいとしているのか、それとも自らも恐れているのか。春は微動だにしない。

 翠にも分かるくらいに血の匂いが濃くなった気がした。

 二人はその場から立ち去ることも、その場に留まり誰か――そうだ、警察を呼ぶこともできずにいる、が。

「逃げて! 早く!」

 突然春が叫んで、翠は強い力で突き飛ばされた。

 刹那、頭上から降ってきたが春に向かって襲いかかった。

「春さん!」

「いいから、早く! 走って――!」

 その厳しい声に我に返り、翠は慌てて走り出す。

 逃げて、そして誰か――人を呼ばなくちゃ。その前にここから離れなくちゃ。

 でも、春さんはどうなる?

 なんであんな死体が。そも、どうしてあんなことが起きている?

 ……札幌市で起きている連続殺人事件。

 〈雨男レインブリンガー〉――怪物。

 連日報道されているあのニュースが翠の脳裏を過ぎる。まさか、あれは――。

 懸命に走りながら、翠の眦を涙が伝い落ちていく。

 混乱する思考を抱え、半分よろけるようにしながらも翠は必死に街への道を急いだ。



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