エスケープデート
七村メイナ
第1話 現実逃避の誘い
三時限目終了のチャイムが校内に鳴り響く。五十分の沈黙と数枚の紙と向き合う時間から解放された高峰学園の生徒達は、各々声を発して付近の席の仲間とテストについての出来を語り合う。
「
三年五組の教室、教卓前に少し曇った表情をして座っている小庭アカネは、左隣に座る
「ほら、早く席に座れ」
二日間の実力テストが終わり、担任の
「よし、明日からまた普通に授業だから、忘れ物等気をつけろよ」
アカネは、この言葉も圧をかけられているようにしか聞こえなかった。それは、年末の三者面談の時に成績が少し低下していると言われ、滋田と母親であるミナコから『努力が足りない』と指摘され、勉強への意欲も薄れるきっかけになっていた。
終礼が終わると、アカネはゆっくりと立ち上がり、考え込んだ表情で廊下に出る。
「アカネ、お疲れ」
三年三組の松本ユウナが声をかけると、アカネは少し安堵の表情を浮かべて彼女の名前を口にする。ユウナは同じく進学を目指す親友であり、勉強に対して憂鬱になっているアカネにとって、心の支えになっている。そんなユウナは、カバンから小袋に包まれたミルクチョコレートを取り出し、アカネの冷えた掌を出させて握らせる。
「ありがとう」
毎日差し入れのように渡されては、自分も何かしてあげないといけないという複雑な感情が生まれるが、今は彼女に甘えてしまうアカネ。すると、アカネは彼女のニッコリとした表情を申し訳なさそうな目で見る。
「ごめんね、いつも何かしてもらっちゃって」
照れくさそうに謝るアカネを見てユウナは驚いた表情を浮かべるが、彼女の真面目な性格に笑みを取り戻し、彼女の横に移って手をつなぐ。
「ユ、ユウナ?」
「今から時間ある?」
「あ、あるけど何しに行くの?」
「ファミレス。お腹空いたでしょ?」
つながれた手を優しく引っ張られるがまま、放課後によくお世話になる有名チェーン店であるファミレスについていく。
ドリンクバーと一緒にミニクロワッサンを一つずつ食べながら二人だけの話をすることが放課後の彼女達の癒やしで、今日も向かい合いのテーブル席でアカネはアメリカンコーヒー、ユウナはメロンソーダと好みを口にして一息吐く。そして、ランチとして同じミートドリアを注文し、届くまで待つ。ユウナはスマートフォンを机の上に置き、両肘をついて都会の街を歩く人々の姿を何も考えずに見つめるアカネの横顔を見る。すると、アカネはその目線を痒く感じて笑みを漏らす。
「そんなに気にする?」
「だって、いつもそうだから誰か知り合いでもいるのかなって思うじゃん」
特に気になる人物が歩いているわけでもなく、その光景を見ているだけだ。ただ、何も考えていないわけでもない。
「大学って、いいことあるのかな?」
唐突に漏れる本音。すると、注文していたミートドリアが早くも席に届けられる。ユウナは、彼女を本音から少しでも離れさせようと出来たてのミートドリアを食べるよう促進する。アカネは黙って頷き、渡されたスプーンで少量を掬い、口に運ぶ。
「美味しいね」
流石のユウナも重い空気を無理に散らすことに限界を感じている。美味しいはずのミートドリアも、少し苦くなってくるとユウナは単刀直入に、提案を持ちかける。
「私と、長崎に行かない?」
突然の旅の誘いなのかと耳を疑うアカネは、冗談だと笑みを零す。しかし、ユウナは本気であることを伝えようと、鞄から茶封筒を取り出し、アカネの食べている途中のミートドリアの器の側に置く。
「どうしたの、これ?」
「開けてみて」
言われるがまま封を開け、一枚の直筆の手紙に目を通す。中身は、ユウナが自らの両親に宛てた絶縁を示した内容だ。長文ではなく、理由もない絶縁宣言で最後には『さようなら』と書かれている。
「この手紙、私に見せてどうするの?」
「わかってほしいの。半端な覚悟で誘っているわけじゃないって」
ユウナの目は、いつもの和ませてくれるような優しさを捨て、人生をかける燃えるようなものだ。それでも、アカネは二つ返事で賛同できない。
「わかるけど、私もユウナもお金なんて持ってないでしょ? そんな状況で長崎まで逃げようなんて、無理だよ」
アカネは読んだ手紙を封筒の中に入れ、折り直して突き返すように置く。そして、残っているコーヒーを飲み干す。
「でも、嫌でしょ?」
ユウナは返された封筒を鞄に戻し、ゆっくりとチャックを閉める。その姿を見ながらアカネは、飲み干したコーヒーカップを持ったまま食べ残した状態のミートドリアに目を留める。
「勉強は嫌いだけど、大学行かなかったら生きていけない」
「そんなの、思い込みに過ぎないよ。だって、大学行っただけで満足な人生を生きていけるって誰が確証したの? 金を使うだけ使わせて、就職先の保障なんてないでしょ?」
ユウナの先の覚悟を見せられると、この言葉がアカネの中で重みを増す。しかし、挑戦をする勇気が生まれるわけでもない。アカネは静かに首を横に振り、無理だと呟く。
「ごめん、無理を強いるわけじゃなかったの。でも、アカネが行かないって言っても私は一人で行くから」
「それも嫌だよ。ずるいよ、一人だけって」
アカネはユウナに考えを改めさせようと、正直に想いを伝える。しかし、ユウナの中でこの言葉が来ることは想定内だ。アカネの考えが纏まっていないと見抜いたユウナは、新たな選択肢を持ちかける。
「私は明日の朝に出るから、一緒に来るなら私の家の前まで来て。行かないなら、何も言わなくていいから私を一人で行かせて」
アカネに答えさせず、ユウナは僅かに残っていたメロンソーダを飲み干し、伝票を持って会計に向かう。その姿を見ながら、アカネは『ズルい』と呟く。しかし、彼女を嫌うわけでもなく、救いの手を差し伸べられた気に侵されつつあった。
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