夜泣きで寝不足の朝 (サラリーマン(三十五歳) @満員電車)
寒風に頬を叩かれ、少しシャキッとする。
薄ら目を開くと、人、人、人。
車内はすでに満員と言える状態なのに、スーツケースの隙間にお土産を押し込むように体をねじ込んでくるホームの乗客。
最後の一人は扉付近の壁に手を当て、てこの原理で強引に自分の体をドアの内側に収納した。
車内は身動きの取れないほどに隙間なく人で埋め尽くされた。
四方八方から体が圧を受けている。
乗っているのは男性ばかりではない。
女子高生やОLもいる。
こんな状態だと触りたくなくても体のどこかは触れてしまう。
申し訳ないと思うのと同時に、こんな電車に乗ってくるならある程度の接触は許容すべきとも思う。
俺の体のどこかが胸や尻に当たっていたとしても、そんなことは知ったことではない。
電車が動き出すと、その揺れによって体はあちらへこちらへと翻弄され、足が浮き上がるような感覚がある。
踏ん張ろうと思っても、両足は少しも開く余地なく揃ってしまっていて踏ん張りようがない。
誰もが波間に漂う枯れ枝のようなものだ。
もう、揺れに身を委ねるしかない。
周りに寄り掛かる形になる時もあるが、それはお互い様と言うもの。
とにかく俺は眠い。
自然と瞼が落ちてくる。
立ったまま眠れそうだ。
昨日布団に入ったのはいつだったか。
日付が変わる前には横になったと思う。
しかし、ものの一時間もしないうちに息子が泣き出した。
夜泣きだ。
分かっている。
今夜の当番は俺。
昨日、疲れと憤りを顔いっぱいに露わにした妻に「一晩代われ」とすごまれて育児を承知した。
しかし、息子がこのまま起きるとは限らないだろう。
寝言みたいなもので一時的にぐずっているだけということもある。
それがはっきりするまでは少し待ってみるべきだ。
息子を挟んで反対側で眠っている妻は起きる気配はない。
母親というのは子どもの泣き声に敏感になっているのよ。
そう言っていた妻が目を覚ましていないとは思えない。
が、ピクリとも動かないのは意地でも起きないという意思表示だろう。
息子は泣き続ける。
はっきりと何らかの要求があることを示している。
お腹が空いているのだろうか。
いよいよ泣き声に、助けてくれないと死んでしまうというような必死さが漂い始めた。
分かったよ。
声にならない声で俺は体を起こした。
妻が怒りだす前に泣き叫ぶ息子と共にキッチンに退避する。
ギャンギャン泣く息子を片手に抱きながら哺乳瓶にミルクを作るのはなかなか難しい。
熱いミルクを冷ましている間も息子は全然泣き止まない。
乳房というのは便利だと思う。
べローンと放り出して息子の口にあてがうだけで授乳ができる。
妻はよく息子の隣で横になったまま、そういう感じで母乳を飲ませている。
「はいはい。もうちょっと待ってね」
こういう声掛けも赤ん坊の成長に良いと妻から教えられているが、だからやっているわけではない。
自分の声であっても、理解できる言葉を耳から聞いていないと、いつ止むともしれない赤ん坊の泣き声に冷静さを保てなくなってしまいそうになる。
漸くミルクが適温になった。
お待ちどおさまでした。
これで泣き止んくれよ、と子を抱え直して哺乳瓶をあてがう。
しかし、息子は無慈悲にも首を振ってミルクを拒否した。
そして、何で分かってもらえないのか、という感じで、さらに声のボリュームを上げて泣く。
なんと……。
お腹が空いたのではなかったのか。
だとすると、何だ?
オムツ?
俺は息子を抱え上げて、そのお尻の辺りに鼻を近づける。
そうか、こっちだったか。
息子をそっと床に置き、ベビー服の股のスナップを外す。
オムツを開いてみると案の定茶色に汚れていた。
息子の大便は少し前まではヨーグルトのようなにおいだったが、離乳食を始めたからか大人のそれに近いものになってきている。
お尻拭きを取り出して優しく汚れを拭うと、お尻が赤くなっていることに気付く。
「悪かったなぁ」
息子はぴったり泣き止んで指をくわえチュバチュバやり出した。
どうやら満足してもらえたようだ。
新しいオムツを敷いて、お尻にオムツかぶれ用の軟膏を軽く塗る。
「んー。んー」
息子の息が荒い。
何だ?と思った瞬間に、ブリブリッと音がした。
息子の肛門のあたりが蠕動し新しいオムツに茶色い液体が流れ出る。
「あー、マジかよ」
オムツが一枚無駄になり、再度お尻を拭かねばならなくなった。「あっ!」
目の前に水のアーチができた。
小水だ。
慌てて発生源にオムツをあてがうが時既に遅し。
息子の服はベタベタだ。
俺は天を仰いだ。
オムツを替え、服を着替え、ミルクを与え、抱っこして寝かせる。
俺はいつになったら眠れるのか……。
結局再度床に就いたのはいつだったのだろう。
その後も朝が来るまで二回起きてミルクやらおむつ替えやらで起こされた。
こんなことが毎日続いたら倒れてしまう。
いつ終わると知れない戦いにため息しか出ない。
妻は毎日これをやっているのだ。
たまには代わらないといけないが、仕事に支障が出かねないから翌日の予定はしっかり確認しておかないといけない。
ふー。
さすがに立ったままは寝られない。
だけど、目が疲れていて瞼を開けていられない。
いつもならこの混雑具合でも上手にスマホでゲームをするのだが、今日はそんな気になれなかった。
駅に着き、扉から人が吐き出され、別の人が押し寄せてくる。
俺はその勢いを利用して反対側の扉にまで後退し、そこに背中を押し付けることに成功した。
硬くてしっかりした感触にホッとする。
再び同じぐらいの混雑具合が完成し電車は動き出したが、扉に体重を預ければ周囲の客に迷惑を掛けることはない。
これはもしかしたら、立ったまま眠ることが可能かもしれない。
俺はしっかりと目を閉じ、暗がりの中で睡魔の尻尾を探した。
ふと、何かが口に当たった気がする。
気のせいか。
いや、違う。
確かな感触。
同じ唇のような柔らかいものが俺の唇に押し当てられている。
ゾクゾクとした悪寒が電流の早さで背中を駆け抜ける。
ハッと目を開くと、目の前に二つの目があった。
そして俺の唇に触れているのは明らかに目の前の人の唇だった。
ヒッ。
声にならない鋭い息が口から漏れた。
何?
誰?
相手のその目から感情は読み取れない。
そして、満員電車の中、俺は背中をぴったり扉に押し当てていて相手から距離を取りようがない。
電車がカーブに入って遠心力で唇が離れ、相手の顔の全体が把握できるようになる。
男だ。
若い男。
俺よりほんの少し背が高い。
くすみのない肌。
パーマでウエーブした髪。
鼻の高い整った顔立ち。
耳に小さなシルバーのピアス。
大学生?
先ほどの唇の接触は故意なのか、事故なのか。
二つの目が真っ直ぐに俺を見ながら再び少しずつ近づいてくる。
俺は顔の角度を右下に傾け、拒否の姿勢を示す。
事故であってくれ。
そう願ったが、相手は角度を合わせて俺の顔に正対してくる。
俺にできることは全身を強張らせることだけだった。
避けられない。
俺は為す術なく二度目の接吻を許してしまった。
頭が混乱する。
何がどうなってる?
フフッ。
男が微かに笑った。
怖い。
ただただ恐怖でしかない。
声も出ない。
言葉が見つからない。
そして、すぐに三度目のついばむようなキス。
同時に俺の股間が手で包まれる感触。
全身に鳥肌が立った。
次の駅まで俺は何をされるのか。
されるがままなのか。
辞めてくれ。
許してくれ。
誰か、助けて。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます