お仕置き (大学二年生男子 @合宿先の旅館の一室 (その1))
「明日って、朝、何時からテニスだっけ?」
「八時に三番コートに集合」
「じゃあ、まだ八時間あるなぁ」
「嘘。もうそんな時間?私、部屋帰って寝るわぁ。玲香はどうする?」
「あー。私はもうちょっと飲む」
「玲香、また戦闘モードに入ってるんじゃない?みんな気を付けなよ。じゃあ、拙者はここでドロンということで」
「おっ。くのいち」
「しっかし、これ以上飲むと明日に影響出るな。……ま、いっか」
「いっつも、ま、いっか、ばっかり」
「でも、ちょっと飲み過ぎた。俺、もう、立てないかも」
「こんなところで寝ないで、ちゃんと自分の部屋の布団で寝てきなよ。あっちゃんは大丈夫?」
「俺っすか。まぁ、今んところは」
「あっちゃんは元気なのに、先輩が先に潰れてどうすんの?」
そうやってサークルのメンバー同士で笑い合っていたのが一時間前だった。
宴会場では物足りなかった先輩たちが、どこかで飲み直そうと言い出して、狙われたのが男子部屋の一つ。
この部屋の唯一の二年生である俺も強制的に参加させられている。
酒は嫌いじゃないから良いけど、これじゃいつまで経っても寝られない。
壁にもたれながらぬるいビールに口をつけつつ、改めて部屋の中を眺めた。
残っているのは俺を含めて五人。
男四人に、女一人。
玲香先輩、よくこんな猛獣部屋で平気で飲めるなぁ。
堤防に少しでも亀裂が入ったら一気に決壊して町が濁流に押し流されてしまうように、酔いの深い男子勢の誰かのたがが少しでも外れたら、寄ってたかってもみくちゃにされて回されちゃうってこともあり得そうなのに。
しかし、そうならずに深夜一時を迎えているってどういう感情のバランスの上に成り立った構図なんだろう。
理性なのか、臆病なのか、そもそもみんなそういうことに興味がないのか。
かく言う俺が恐らく一番臆病だ。
玲香先輩と少しでも話がしたいと思って寝ないでいるが、先輩方の中に入って行く勇気がなく遠巻きに眺めているだけの状況が続いている。
ジャージのポケットの中でスマホが震えた。
取り出してみると、妹からのLINEだった。
あいつもこんな時間に起きているのか。
開いてみると、また両親が喧嘩しているという愚痴だった。
父親の浮気がバレたのが半年ほど前。
それから母親の機嫌がずっと悪いらしい。
大学で一人暮らしを始めた俺にはあまり被害はないが、同居している高校生の妹は辟易しているようだ。
「何?彼女?」
声の方を仰ぎ見ると、玲香先輩がそこにいて「うわっ」とスマホを取り落とすほどにドキッとする。
髪を指で耳に掛けながら俺のスマホを見る玲香先輩の顔がすぐ目の前にある。
Tシャツにパーカーという軽装なのに妙に色っぽい。
「違います。妹です」
「へぇ。こんな時間にLINEが来るなんて、妹さんはお兄ちゃんが大好きなのね」
玲香先輩は最初からここが指定席だったというような自然さでグラスを片手に俺の右隣に腰を下ろした。
ふわっとボディソープの香が漂ってきて、俺は緊張で背筋を伸ばす。
冷房が効いた部屋で、急に玲香先輩との間にある空気の温度が上がった気がした。
何故ここに?と思って部屋を見渡すと、猛獣どもは突っ伏したり、床に転がったりで全員潰れていた。
いつの間にか、起きているのは俺と玲香先輩だけになっている。
玲香先輩は顔色一つ変わっていない。
「お酒、強いんですね」
玲香先輩と二人だけで話すのは初めてだ。
そう思うと、余計に緊張する。
「気合よ」
玲香先輩が厳めしい顔で拳を握る。
「気合っすか」
「私、お酒飲むと、全員服従させたくなっちゃうのよね」
玲香先輩は事も無げに言った。
「服従……」
先ほど耳にした戦闘モードという言葉が頭の中を駆け巡る。
大人の男が三人、酔いつぶれている。
この状況を玲香先輩は服従と呼んでいるのだろうか。
すると、次の標的が俺?
……怖い。「俺、玲香先輩に逆らいませんので」
「怖がらないの。取って食べたりしないから」
玲香先輩は笑って長い黒髪を手で束ね、右肩にまとめて下ろした。
白いうなじが露わになる。
妖艶とはこのことか。
しかし、玲香先輩はただ美しいだけではない。
男たちを侍らせる女王様だ。
「それ、何、飲んでるんですか?」
玲香先輩が持っているグラスを見る。
小さな気泡が立ち上る茶褐色の液体。
まさか、コーラ?
「コークハイボール」
ハイボールって何だっけ。
たまに耳にするけれど。
「お酒、なんですよね?」
「そうよ。あっちゃんも飲んでみる?」
玲香先輩は三角座りの膝の上に頬を乗せてこちらに微笑みを見せながら、手にしたグラスを向ける。
「良いんですか?」
「良いよ。みんなでお金出し合って買ったんだもん」
玲香先輩は座卓の上のジュースやお酒を指差した。
俺が訊いているのはそういうことじゃないんだけどな。
これに口をつけると間接キスになることを玲香先輩はどう思っているのだろう。
からかわれているのか。
きっとそうに違いない。
でも、憧れの玲香先輩との間接キスなんて、この合宿の最高の思い出になる。
先輩方は寝ちゃったから怒られることもない。
あまりジロジロとグラスを見ていると気持ち悪いだろうし……。
俺は恐る恐る受け取ったグラスを口元に持って行った……ら、強烈なアルコールのにおいにむせた。
「うわっ。これ、何ですか?」
「コーラにウィスキーをちょっと垂らしただけだよ」
玲香先輩は親指と人差し指でCの形を作り、いたずらっ子の目で俺を見る。
「いや、これはちょっとじゃないですって。半々か、ウイスキーの方が多いぐらいじゃないですか」
「そんな大げさな」
「いや。こんなきっついの初めてです。びっくりしました」
「じゃあ、もうあげなーい」
玲香先輩は細い指で俺からグラスを取り上げ、グビグビ飲んだ。
ぷはーっと美味しそうに嘆息を漏らす。
最高の思い出が遠くに行ってしまった。
俺は自分の怯懦の気持ちをなじった。
俺はアルコールに驚いたのではない。
玲香先輩との間接キスにビビったのだ。
情けない。
せっかくのチャンスを棒に振った。
俺って、そういうところがある。
勢いがないと言うか、ここぞと言う時に判断が後ろ向きと言うか。
つまらない男だ。
俺は玲香先輩を追いかけるように、いつ入れたのか分からないぬるいビールをあおった。
(その2へ続く)
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