7.パッションフラワー・レモンバームのハーブチンキと新たな一難

「ああ、やっぱりハーブチンキの入ったお茶はうまいな」


 パッションフラワーとレモンバームのハーブチンキを垂らしたコップ一杯のお茶を一気に飲み干したエリクは、うっとりと目を細めた。


「口にあったならよかったよ」

「シュゼットはなんでも自分の手で作ってすごいな」

「ありがと。エリクはなんでも褒めてくれるね」


 シュゼットはダイニングテーブルにかかったレースのカバーを手で撫でつけながら答えた。

 エリクがシュゼットたちの家で暮らすようになってから一週間が経った。

 エリクの表情は、この家に来てすぐの頃よりもずっと良くなった。その理由の一つは、マリユス教授のところでの仕事は性に合っていることだ。本が好きだという共通点のおかげで、仕事と称した家の片づけ中も話題が尽きないらしい。エリクは毎日楽しそうに出かけていき、そのままの表情で帰ってくる。シュゼットはそれが何よりも嬉しかった。

 シュゼットの生活も穏やかなものになっていた。ドアが叩かれたあの日以降、手紙の嫌がらせはぴたりとなくなった。嫌がらせに飽きたのか、エリクが家にいることを知って嫌がらせを控えているのか。はたまた嫌がらせではなく、いたずらだったのか。

 真相はわからないが、何も大きなことが起こらない日々というものは素晴らしいと、シュゼットは改めて思った。


「――嫌がらせが無くなったの、きっとエリクがいるおかげだよ、ありがとうね」


 シュゼットがそう言うと、エリクは首を横に振った。


「それなら俺もシュゼットにお礼言わなきゃだろ。シュゼットのおかげで、俺は前よりずっとよく眠れてるんだから」

「仕事が合ってるから、精神的に安定したんじゃなくて?」

「それもあるだろうけど。シュゼットがアロマテラピーしてくれたり、こうしてチンキやハーブティーを淹れてくれたりするだろ。シュゼットの気遣いにすごく助けられてる。ありがとな」


 まっすぐに目を見てそう言われたシュゼットは、素早く目をそらしてしまった。心臓がいつもの二倍の速さで動いているのが自分でもわかる。


「ほら、また。エリクは本当に褒め上手なんだから」


 ――エリクの言葉とか態度って、素直すぎて照れくさいんだよなあ。


 エリクは「本当のことなんだけどなあ」と言いながら、もう一杯お茶を入れると、自分でハーブチンキを垂らして飲んだ。


「あ、あんまり飲みすぎちゃだめだよ。一日二ミリリットルを三回飲めば良いんだから」

「あ、そっか。うまくてついな」


 エリクはペロッと舌を出して笑った。そのひょうきんな表情にシュゼットは声を上げて笑った。

 全員がすぐにこの生活に慣れ、もうずっと前から一緒に暮らしているような気持ちになっていた。


「そうだ、エリク。それを飲み終わったら、パイ生地の中身を詰めておいてくれる? わたし、キッチンガーデンに行ってくるから」

「了解。今日の昼食はミートパイか」

「そうだよー。行こう、ブロン。必要なのはローリエだよ」

「キャンッ!」


 ブロンは元気よく答え、シュゼットが開けた庭に続くドアからピューッと飛び出した。ブロンはシュゼットが言うハーブがわかるのだ。良く育っていれば「キャンキャンッ」と明るくご機嫌に鳴き、何か問題があれば「キャウッ!」と鋭い一刺しのように鳴く。


「今日はどっちかな。まあ、この頃良く育ってるから、大丈夫だろうけど」


 シュゼットがそうつぶやいた時、「キャイーン!」と聞いたことのない鳴き声が聞こえてきた。

 非常事態だ! 

 シュゼットは「ブロンッ!」と叫びながら、庭へ駆けこんだ。

 そしてハッと息を飲んだ。

 庭の真ん中に、生き物が倒れていた。

 全身が美しい筋肉に包まれたヘラジカで、その背中には鷹の羽根が付いている。

 その姿は、フェリアスそのものだった。


 シュゼットはフェリアスに心配そうに寄り添うブロンの傍まで駆けて行った。

 フェリアスは長いまつげの生えた目を閉じ、苦しそうに呼吸をしている。筋骨隆々な太ももの裂け目からは、美しいほどの赤色の血が滝のように流れ出ている。 


「ひどい怪我。傷口を洗って、止血しないと。ブロン、エリクを呼んできてくれる? それからおばあちゃんも」

「キャンッ!」


 ブロンはキリッと返事をして、矢のような速さで走って行った。


「大丈夫、ちょっと待ってて。すぐに楽になるから」


 シュゼットはフェリアスの首の辺りに手を差し出して、そうささやいた。なんとなく、今はフェリアスには触れてはいけないような気がした。




 すぐにエリクと、エリクに手を引かれたアンリエッタがやって来た。


「まあ、なんてこと!」

「怪我してんのか」


 エリクは動揺するアンリエッタを庭にある簡易なベンチに座らせ、シュゼットの隣にしゃがみこんだ。ブロンもそばに座り込む。


「エリク、この子のこと運べそう?」

「ちょっと難しいかもな。無理に動かして、傷口が開くのも避けたい」

「確かに。それじゃあここで治療をしよう。エリクは水をたっぷり汲んできてくれる? わたしは治療に必要なものを取ってくるから、おばあちゃんとブロンはフェリアスについてて」

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