16.不穏な夜

 エリクは少し遅い夕食の匂いで目を覚ました。

 こんなにぐっすり眠ったのは久しぶりだ、と話す目はスッキリしていて、本当によく眠れたことが分かった。

「シュゼットのアロマトリートメントが気持ち良すぎた」

「最高の誉め言葉だよ。ありがとう、エリク」

「礼を言うのは俺の方だろ。ありがとな」

「どういたしまして。さあ、座って、座って。今日は白身魚のハーブ焼きだよ」

 シュゼットはエリクの分のパンを切り分けながら言った。今日こそは夕食を食べるようにアンリエッタに勧められたのだ。

 ブロンはエリクのズボンをひっかきながら、「ハッハッ」と興奮している。シュゼットは「ダメだよ、ブロンは」と言った。

「そうだな。ブロンにはしょっぱすぎるだろ」

「クーン……」

 ブロンは耳とシッポをダランと垂らして、すごすごと火が付いていない暖炉の方に歩いて行った。暖炉前の敷物の上がブロンのお気に入りなのだ。


 夜の九時の少し前、全員分の料理がテーブルに並ぶと、三人は食事の前のお祈りをして、夕食を始めた。

「ところで、さっきは手放しで喜んじゃったけど、エリクさんはお仕事を再開して、本当に大丈夫そうなの? シュゼットから寝不足だって聞いているし、さっきも寝ちゃってたでしょう」

「すみません。お上がりしたお宅で、二回も寝ちゃって」

「責めてるんじゃないのよ。ただ、心配なの。体が元気じゃないまま働き出して、大丈夫かしらって」

 エリクは目をパチパチさせてから、うっすらと笑った。

「……ありがとう、ございます」

 シュゼットは、そう答える顔がどこかさみしげに見えるような気がした。前にも感じたことだが、エリクは時々さみしそうな顔をする。大切なものを無くしたような、誰かにひどい言葉を言われたような。その顔を見ると、シュゼットはエリクを一人にはできない、と強く感じた。

「ただの老婆心よう。来た時よりは、顔色が良くなってるけどね」

「あ、アロマトリートメントで多少血行が良くなったんじゃないかな。頭皮は毛穴が多いからアロマトリートメントが効きやすいんだ。エリクさえ良ければ、毎日やっても良いけど」

「なるほど。毎日やれば、より効果があるってことか」

「安くするよ」

 シュゼットの提案に、エリクはきっぱりと首を横に振った。

「変な気使うな。シュゼットはこの仕事で金稼いでんだから」

 エリクは白身魚をナイフで切りながら言い、「うまいっ」と声を弾ませた。

「貯金と相談して、正式に依頼するよ」

「わかった。ありがとね、エリク」

「おう」

 ふたりが微笑み合う様子を、アンリエッタは嬉しそうにニコニコしながら見守った。


 にぎやかな夕食が済むと、エリクは食器や食卓の片づけまでして、帰り支度を始めた。と言っても持ってきたのは、ジャケットと硬貨と香り袋くらいだ。

 エリクが玄関先でポケットを漁る間、ブロンはエリクの足元をクルクル回っていた。

「これ、今日の分な」

「えっ、また銀貨! 悪いよ。生活費が無くなったらどうするのさ」

「心配すんな。今日のシュゼットのアロマトリートメントのおかげで、だいぶ疲れが取れたから、新しい仕事がんばれそうだし」

 エリクはどこまでも義理堅い性格らしい。

 しかし体が弱っている上に、また働こうとしているエリクから、二度も銀貨をもらうのはさすがに気が引けた。

「……それなら、次回は無料にするよ! エリクの依頼じゃなくて、わたしがやりたくてやるってことで!」

「なんだそれ」

 エリクはククッと笑った。その顔は確かに来た時よりも朗らかに見える。オイルのおかげか、髪の艶も良くなったようだ。

「まあ、何でも良いや。今日は本当にありがとうな、助かったわ」

「役に立てたなら、よかったよ。気を付けて帰ってね」

「ああ。またな」

 「ブロンもまたな」と言ってブロンをフワフワとなでた、その時だった。


 ガンガンガンガンッ!


 すさまじい音と共に、ドアが激しく叩かれた。

「キャアッ!」

 アンリエッタが悲鳴を上げると、すぐにシュゼットはアンリエッタを抱きしめた。ブロンもその後について行き、シュゼットの足元にぴっとりとくっつく。

 その間もドアは強く叩かれている。

 ――「叩く」って言うよりも「打つ」とか「壊そうとする」とかの方が正しい感じだな。

 シュゼットとエリクの目が合う。エリクは信じられないという顔をしている。

「……ごめん」

 シュゼットがそうささやくと、エリクは首を横に振った。そして、ドアの傍に立てかけてある棕櫚箒しゅろぼうきを手に取り、ドアと対峙した。その姿は元警吏らしくたくましく見える。


 ガンガンガンッ


 最後の一押しとでもいうように、三発大きな音が鳴ると、急に静かになった。

 三人と一匹は顔を見合わせた。

「……行った?」

 エリクは口に人差し指を当て、ゆっくりとドアに近づいて行った。ドアに耳を付け、ジッと耳をそばだてている。シュゼットは震えるアンリエッタを抱きしめながら、エリクの背中をジッと見守った。

「大丈夫そうだ。人の気配はない。でも念のため、俺が周辺を見てくる」

「えっ、良いよ、エリク。危ないよ」

「何言ってんだよ、危ないのはふたりとブロンだろ。心配だって言うなら、これ借りてくな」

 エリクは棕櫚箒を持って、真っ暗闇の家の外へ出て行った。

 ドアが閉まると、アンリエッタが大きなため息をついた。

「はあ、驚いた。何だったのかしら」

「いつものの、延長かな」

 アンリエッタは青い顔になって「まあ」と悲鳴のような声を上げた。ブロンも「キューン」と力なく鳴く。

 ――まさかこんな直接的なことをしてくるなんて。わたしのせいで、ふたりを不安にさせちゃった。

 シュゼットは悔しさで唇をかみしめた。


 三分も経たずに、エリクは無事に戻ってきた。

「周りには誰もいないみたいだな」

「ありがとう、エリク」

「大丈夫だった、エリクさん?」

「俺は何ともないですよ。それよりも一体何なんですかね、今の。心当たりありますか?」

 自分を取り囲むシュゼットとアンリエッタが黙りこむと、エリクも黙って箒を片付けに行き、シュゼットの前に改めて立った。

「出会ったばかりの俺には話せねえか?」

 シュゼットは弾かれたように声を上げた。

「違うよ! そんなことない! ……ただ」

「ただ?」

 そう問い詰める声は優しい。その優しさが、シュゼットを苦しくさせた。

 ――エリクまで巻き込むことになるかもしれないなんて。

 シュゼットはもう一度唇をかみしめ、くるっと体を翻し、部屋に駆けて行った。

 本棚の一番下に入れてある木箱。その中身を取り出すと、階段を駆け下りた。


 エリクとアンリエッタとブロンは、ダイニングルームのイスに座って待っていた。シュゼットはエリクの方へ歩いて行き、テーブルの上に紙の束を乗せた。

 それを手に取ったエリクは、目を見開いた。


『おかしな医療で人々をたぶらかすな』

『奇妙な行為を今すぐやめろ』

『森へ帰れ』


 エリクは肩を震わせながら、シュゼットの方を見た。

「なんだよ、これ」

「……わたしに対する嫌がらせ。時々来るんだ」

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