13.くれた人ともらった人

 翌朝、いつも通り立ち洗いを済ませたシュゼットは、キッチンで一仕事を終えると、エリクの部屋に向かった。たっぷり眠ったブロンは今朝も元気いっぱいで、シュゼットの足の周りをぐるぐる走り回っている。

「おはよー、エリク。起きてるー?」

「キャンッ!」

 ノックをしながら叫ぶと、中から唸り声が聞こえてきた。

「まだ寝ぼけてそうな声だね」

「クウン」

 エリクに鍵を渡してしまったため、中に入って起こすことはできない。このまま朝食まで寝ていても構わないが、今日はいつもよりも気温が高いようで水分不足も心配だ。シュゼットはちょっと考えてから、ブロンを見た。

「ブロン、任せても良い?」

「ワンッ!」

 ブロンをひとなでし、シュゼットはアンリエッタの部屋へ向かい、ブロンはエリクの部屋の前に仁王立ちになった。

 ブロンはドアをにらみつけ、スウッと息を吸い込んだ。

「キャンキャンキャンキャンキャンキャンキャンッ!」

 ブロンのけたたましい鳴き声が家じゅうに響き渡る。頼んだシュゼットも驚くほどの勢いに、ブロンは得意げだ。それでもまだエリクのうめき声しか聞こえてこないとなると、ブロンはますます大きな声で、ますます甲高い声になって鳴き続けた。

 それを一分も続けると、エリクの部屋の中から何かが倒れる音が鳴った。続いてズリズリと引きずるような足音が聞こえてきた。ギギギッと音を立てながらドアが開くと、エリクがガバッとブロンを抱きしめた。

「……起こしてくれて、ありがとな、ブロン。ばっちり目、覚めたわ」

「ワフウ?」

 ブロンは今度はエリクの顔をペロペロなめた。小さな舌べろのくすぐったさに、エリクは身をよじる。

「うわあっ。起きてる、起きてるからっ」

「ワンワンッ」

 楽しくなってきたブロンは、ゴロンと降参ポーズをするエリクの顔や首をペロペロとなめ始めた。

「その辺にしてあげて、ブロン。エリクが溺れちゃう」

「もう、溺れて、る」

 エリクは助けを求めるように、シュゼットの方によろよろと手を伸ばした。

「あらあら、せっかくだから、エリクさんはお風呂に入ったら?」

「おばあちゃんもやっぱりそう思うよね。わたし、朝からお湯を用意しておいたんだ!」

「まあ、さすがシュゼット!」

 シュゼットとアンリエッタはハイタッチをして喜び合った。

「よしっ、ちょっと待ってて、エリク! お風呂にお湯を移動してくるから」

「その前に、助けてくれー」

 エリクの叫びも空しく、シュゼットはアンリエッタを椅子に座らせると、キッチンへ駆けて行ってしまった。

「ワウーンッ!」

 ブロンはご機嫌に鳴きながら、エリクの顔を一層なめ回した。


 シュゼットたちが暮らす家には、魔法動力の水道などはもちろんない。そのため、湯船につかるのも一苦労だ。湯船につかるには、キッチンの流し場の傍にある湯沸かし釜に水を入れ、火室に石炭を入れて火をつける。それから一時間、じっくりと水が湯になるのを待つことになる。

 しかし今日は朝からお風呂に入ってほしいと考えていたシュゼットは、起きてすぐに釜に水を入れて、火をつけておいたのだ。

 釜に入ったあつあつの湯を何度かに分けて風呂場の浴槽に入れると、今度は地下室に続く階段を駆け下りた。地下にはシュゼットが蒸留してとった精油や精油入りの石鹸、化粧水などが貯蔵されている。

「ラベンダーの香りが好きだって言ってたし、ラベンダーのバスソルトで良いかな」

 ガラスの容器に入ったバスソルトを、スコップを使って布袋に取り分ける。微かに甘い花の香りを感じると、シュゼットの口元は自然と緩んだ。

 地下から戻ると、エリクはようやくブロンから解放され、水を飲んでいるところだった。その腕にはご機嫌なブロンが抱かれている。

「おかえり、シュゼット。どこ行ってたんだ?」

「ただいま。ごめんね、ブロンが。興奮するとすっごくなめるんだ」

 コップをテーブルに置いたエリクは、歯を見せて笑いながらシュゼットの額をコツンと小突いた。

「わかってたなら、助けろよな」

「ごめんごめん。ブロンがあんまりにも嬉しそうだったから」

「まあな。あれからもずっと離れないから、今この状態」

 ブロンは元気よく「キャンッ」と鳴いた。もうすっかりエリクのことが大好きになっているようだ。シュゼットは「よかったねえ、ブロン」と言いながら、ブロンをなでた。

「そんで、地下で何してたんだ?」

「ああ、お風呂で使うバスソルトを取りに行ってたんだ。それじゃあ、しっかり水分を取ったら、お風呂に行こうか」

 エリクがもう一杯水を飲み、アンリエッタにブロンを預けると、ふたりはキッチンの裏手にある風呂場へ移動した。壁も床も天井もタイルでできた風呂は、亡くなった祖父のこだわりで、青色のタイルで有名な国から取り寄せたものらしい。シュゼットもお気に入りだ。

 ドアを開けてすぐのカーテンを開けたエリクは、湯気を上げる浴槽を見て、「うわ! ちゃんとした湯船だ!」と声を上げた。

「実家には風呂なかったし、警吏の時も大衆浴場しか行ったことねえんだよな。すごいな、家に湯船があるなんて」

「おじいちゃんが湯治治療に興味があったららしくて、お風呂と湯沸かし釜は良いのを買ったんだって」

「湯治治療か。確かに浴槽があれば、家でもやろうと思えばできるか?」

「うん。でも普通の水には温泉みたいに効能が無いから、そういう時に役に立つのが……」

 シュゼットはポケットからバスソルトが入った布袋を取り出した。

「さっき言ったバスソルト。ラベンダーの香りがするよ」

「どうやって使うんだ?」

「湯船に入れて少しかき混ぜて浸かるだけ。あと、鏡の下の棚にカモミール入りの石鹸が置いてあるから、それで体を洗っても良いね。体を流すお湯は、あっちの水瓶に入れてあるから」

「至れり尽くせりだな」

「エリクは、今はわたしが看てる人の一人だからね」

「『患者』とは言わないのか?」

 その言葉に、シュゼットはギクリとした。

 魔法使いの医者は、医師免許を持って魔法による医療行為をしているため、看る人を『患者』と呼べる。教会のシスターたちも、教会の許可を得て、魔法鉱物による投薬治療をしているため、看る人を『患者』と呼べる。

 しかしシュゼットは誰からも許可や認可を受けていない、正真正銘の民間療法士でしかない。そのため、二つの前者のように『患者』という言葉を使って良いのか、使わない方が良いのではないか、という葛藤があった。

 なぜそんな葛藤をしているのかと聞かれれば、「図々しいと思われたくない」という思いだけだ。こんな複雑な話を、疲れている人にするべきではないだろう。そう思った時だった。

「まあ別に何でも良いか。シュゼットのおかげで俺は良く寝れてるわけだし。『くれた人』と、『もらった人』で」

 そう言ってエリクはニッと笑った。その笑顔に、シュゼットは胸がギュッと締め付けられた。それは苦しい締め付けではなく、心地よいものだった。むしろ締め付けられた辺りに、優しい温かさを感じるような。

 シュゼットは胸に手を当てて「そうだね」と笑った。


 その後、エリクは三十分の風呂を楽しんだ。ブロンになめられた顔を洗い、パッチテストをしている腕以外の体をじっくりと湯船に浸けた。その結果、エリクの顔は、いつもに増して穏やかで優し気に見えた。

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