電車が次の駅に着くまでの三分間で彼女の言うことを正しく理解せよ
祐里
隼人に課せられた超難題
「だから、私たち、大人にならないとって言いたいの!」
「え、いや、その……こ、こんなところで言わなくても……」
「今じゃないとだめなの! 隼人くんも、そろそろいいかなって思ってるでしょ!?」
土曜日の午後八時五十五分、アイボリーのスプリングコートを着た早織は、ぷんぷん怒ってかわいらしい頬を少し上気させている。
座席は全て埋まり、つり革や手すりにつかまって立つ人々の間にそれぞれ四十センチ程度の隙間ができているくらいの混雑。今日もスムーズに運行されている電車内で、隼人は困り果てていた。早織の言うことは、隼人の理解の範囲を超えている。
「う、うん……? あの、早織ちゃん、今日はまっすぐ帰るんだよね?」
「そうよ。もう次の駅で降りるわよ」
「だよね。で、お、大人にならないとって……?」
「だって、隼人くんとだと全然進展がないし……」
「しっ、進展!? そっ、そうかな!? そんなことないと思うけど!?」
「そんなことある! 今日だってまっすぐ帰るって言ったら……」
「今日はね!? 今日はそうだよね、明日早く起きるって言ってたしね!?」
「お風呂が先ならいいじゃない! どうせ一人暮らしなんだし!」
「おおおおおふろぉぉ!? ななななんでそうなるの!?」
「何でって、そのまま寝ちゃってもいいように、よ!」
「そ、それはわかるけど……」
早織につられて、隼人の声もだんだん大きくなってしまった。きっと周囲の乗客たちに聞かれているだろう、申し訳ないと思いなるべく声を抑えるが、早織は全く意に介さず、言葉を続ける。
「ね、隼人くん、わかってくれるでしょ? 私、どうしても大人になりたいの……隼人くんと一緒じゃなきゃ嫌なの……!」
目を潤ませて相手を正面から見上げるという早織の攻撃が、唐突に隼人を襲った。破壊力は抜群で、隼人の心臓をどきどきさせるくらいは軽くできてしまう。
ここで座席に座る乗客の若い男性が耳に入れていたBluetoothイヤホンをさりげなく外し、バッグのポケットのケースにしまった。隼人がごくりと生唾を飲み込む音でも聞こえたのかというようなタイミングだった。その目の前に立っている中年女性の目は泳ぎ始め、ちらちらと隼人たちに視線を送る。
「う、うん……、僕も……早織ちゃんと……」
「でしょう!? ね、お願い、もう駅に着いちゃうの!」
「そ、そうだね。でも……今日はちょっと、覚悟が……」
「今日は水族館デートでゆっくり回ったからそんなに疲れてないでしょ? ね?」
「つ、疲れてるとしても、大丈夫だよ! ただ、その、初めてだから……」
ここで、すぐ隣に立つ三十代頃のサラリーマン風のメガネの男性のビジネスバッグを持つ手が、ぴくりと動いた。そしてもう片方の手がぎゅっと握られ、こぶしが作られた。
「誰にだって、最初はあるのよ。大丈夫、私、勉強したから」
「早織ちゃん、勉強したの!? そこまで……そこまで、僕と……!」
ここで、小さな子供を連れた金髪ママが右手のスマートフォンから視線を外し、遠い向こうを見つめるような目で車窓を眺め始めた。その後方で手すりにつかまっている中学生のような少年が顔をほんのり赤くさせ、足元に視線を落とす。
『えー、お待たせいたしましたー、弥生中央駅ー、弥生中央駅到着でーす。進行方向左側のドアが開きまーす。ドア付近のお客様はー、手やお荷物を引き込まれないようお気を付けくださーい。本日もご乗車ありがとうございましたー。傘やスマートフォンなどお忘れ物のないようご注意願いまーす」
間延びした話し方のアナウンスが流れ、とうとう電車が早織の降りる駅で停車した。隼人は内心大いに焦るが、早織には特に焦った様子は見られない。
「あっ……、着いちゃった……。ごめんね、じゃあ、お風呂入ってからだから……十時五十分でいい?」
「えっ? ……何が?」
「何が? 聞いてなかったの!? お風呂入ったあとだって言ったじゃない! 『どきどき☆アイドルメーカー~きみだけのラブリーエンジェル~』の土曜日十一時の『みんなで集まれ☆わくわく集団オーディションイベント』で連携してなるべく審査員の好感度を稼いでおかないと、いつまで経っても大人になれないわよ! 絶対ログインしてね! じゃあ、またあとで連絡するわね!」
早織は早口でまくし立てると、さっさと開いた扉からプラットホームへと降りて早足で去ってしまった。一人残された隼人は「そういえば……、オーディションに合格することを、どきドルオタクの間では『大人になる』って言うんだったな……」と思うしかない。いや、思うというより、口に出している。本人は気付いていないが。
座席に座る若い男性は、ケースからBluetoothイヤホンを取り出し、再び耳に入れた。その顔に、少々の憐憫の情を浮かべながら。目の前に立つ中年女性は心持ち疲れた様子で、ほうっと息を吐き出した。
隣に立つ三十代頃のサラリーマン風のメガネの男性は手に持つビジネスバッグを落としそうになり、慌ててつかみ直している。もう片方の手のこぶしは
小さな子供連れの金髪ママは、右手でスマートフォンを持ち直し、何やら懸命に文字を入力し始めた。その後方の中学生のような少年は、更に顔を真っ赤にさせている。本人は何を想像しているのか口に出さなければいいと思っているだろうが、中学生という多感な時期を乗り超えてきた男性には一目瞭然だ。中学生とは、アイドルに夢を見るお年頃でもあるのだ。特にグラビアアイドルに対しては。
周囲の乗客たちの様子を、隼人は見ていた。みな一様に、早織が電車を降りたあと、何かしら動作を始めていた。きっと全員、自分が勘違いのうえで早織と話していたことに気付いていたと思うと恥ずかしさが天を貫き、隼人の頭の中にあるイメージが湧いてくる。
それは、数日前に大自然に生きる動物たちを映すドキュメント動画で見た、全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れが、この車両をも踏み潰して何もかも粉々にしてしまう
電車が次の駅に着くまでの三分間で彼女の言うことを正しく理解せよ 祐里 @yukie_miumiu
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