破絵(はかい)

かいなぐい

その絵を破壊せよ

 私には3分以内にやらなければならないことがあった。『全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れ』を破壊することだ。そのために私は、2階席からしかるべき位置を見定め、今、ひっそりと回廊に出る。


 会場には既に、フライザムの耳障りな声が響き渡っている。ステージ中央の大型スクリーンに華々しい経歴が映し出され、賞賛の拍手とカメラのフラッシュが、彼の勿体ぶった発言の合間に挟まっている。

 臨海地区のホールは各国からの識者・マスコミで溢れかえり、世界的アーティストであるフライザムの「偉勲」を称えている。


『ニック・フライザム 麗しき破壊』展——彼の画業25周年を記念した巡回展。その発表会見にあたるこの会場で、彼の新作が初披露される。

 巨大絵画『全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れ』。高さ10メートル、幅40メートル。あらかじめ告知されたタイトルと、その規格外のサイズに、美術界の注目は集まっている。


 その絵を私は破壊する。

 その絵が人々の目に触れる前に、私はそれを消滅させなければならない。

 ——あれはあいつのものなんかじゃない。おばあちゃんの絵なんだから。


 プログラムによれば、『全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れ』は15時……およそ3分後に公開される。スクリーンの背後、巨大なベールに覆われた状態で、絵はその時を待っている。偽物の絵が人々の目に触れる前に、あの風景があいつのものになってしまうその直前に、私は勝負をつけるつもりだ。


 廊下の赤い絨毯は、野望の音を優しくかき消してくれる。並び立つ警備員たちに気取られないようになるたけエレガントに、しかし足早に階段へと向かう。


 10年前、家族と共に訪れたアフリカの大地で、私は祖母以外の全てを失った。早朝、地平線の向こうからやってきた1000頭のバッファローが、父母のいるキャンプを呑み込んだのだ。

 朝焼けのサバンナをスケッチするためにキャンプを出ていた祖母と、彼女に付き添っていた10歳の私だけが、難を逃れた。


 私は涙を流すこともできなかった。岩壁の上からその光景を呆けて見下ろしていた。

 バッファローの群れは全てを破壊しながら突き進んでいた。砂塵は空を蔽い、後景のキリマンジャロを霞ませた。私たちのキャンプだけではない、ゾウも、ライオンも、キリンたちも、あらゆる木々、巨岩、大河、ずっと先にあった小都市も破壊されたと聞く。

 ばちばちと顔を打つ砂混じりの風の、その赤茶けた匂いを今でも覚えている。


「バッファロー、それは運命——」

 祖母は私の肩を抱きながら呟いた。バッファローの群れは絶対的な自然の力だった。そこに恨み辛みの付け入る隙はない。現地の言葉で「神の定めた嵐」と呼ばれるその大暴走スタンピードは、ビクトリア・フォールズに落ち行く水をそうできぬように留め得ぬ、抗い得ぬ運命だった。バッファローの群れに出遭った時が、私の両親の寿命だったのだ。


「スクラップ・アンド・ビルド——」と祖母は言った。「破壊、それは再生の始まり——」

「ええ、ええ」私は何度も頷いた。実際、何度も頷く以外に何ができたというのだろう?


 だが、祖母は自らの言葉を信じていた。バッファローの群れが踏み荒らした、いやそんな表現では収まらぬほど破壊しつくした、文字通りぺんぺん草も死に絶えた荒野にも、イネは生え、ガーベラは咲く。帰国して2年後、祖母は1枚の巨大な絵を私に見せてくれた。

 そこに描かれていたのは、全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れ、舞い上がる砂埃、逃げまどい空を覆い尽すフラミンゴ、そして絵の右端には、岩壁に立ってそれらをまっすぐ見つめる、少女の後ろ姿だった。


 階段を滑り降りた私は、回廊を駆けた。目指すは雛壇の中腹、上下を見渡せる位置だ。

 残り――2分足らず。回廊には観客の姿はなく、警備員すらそわそわしている。私が走っていたところで、新作公開を前に急いでいるようにしか見えまい。

 二重扉をくぐりながら、口元のマスクをかけ直す。扉の重みが今は心地良い。迷いは微塵もない。定められた道を進んでいる確かな手ごたえが、次の扉を軽くする。


 祖母の絵は、本当の『全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れ』は、どれだけ私を救ってくれただろう。アフリカの大いなる自然――雄大で、絢爛で、残酷で、暴力的で、あらゆるものに平等な。全てが粉微塵となった、赤茶けた砂、それを噴き上げる熱く純粋な風。無数のバッファロー、巨大な一個の生命のような、その黒い背の連なり。

 少女の後ろ姿。握りしめられた小さな小さな拳。

 大きな大きな絵が目の前に広げられたその時から、彼女の慈愛は私を包み込んだままだ。それが与えてくれたのは、いわば、よどみない勇気である。その勇気が、その勇気だけが私を支えている。

 そしてこの時、私は初めて両親の死に涙した。


 祖母の絵はある晩、あっけなく焼失した。それは奇しくも両親の命日、私が父母を亡くしたちょうど3年後だった。

 祖母の大作はその出来にそぐわぬ、小さな寄り合い所に飾られていた。彼女の画業は名声のためではなく、私や父母や、隣人たちの生活に彩りを添えるためのものだった。祖母の観客として相応しくない者がいたとすれば、それは偶然にもその寄り合い所を訪れたニック・フライザムだった。


 フライザムの天才は、絵筆を操ることにのみ発揮されたのではない。彼は隠れた芸術品を嗅ぎ当てる鋭敏な鼻を持っていた。いや、私は知っている。その鋭い鼻こそが、結局はフライザムの天才とやらの正体なのだ。

 旅行中だった彼は、周辺で少しばかり話題になっていた——けれども地元の報道で取り上げられない程度の噂話だった——祖母の絵に行き着いた。絵を褒め称え、売って欲しいと熱心に頼み込む彼の姿を、私も見た。

 相当な金を積んで見せたのだろうが、祖母は首を縦に振らなかった。祖母は金銭を

望まなかったし、何より私がそれを拒むことを知っていたからだ。

 フライザムは3日間、祖母を訪ねた。4日目に、寄り合い所は炎に包まれた。絵は喪われ、祖母もすっかり弱って床に伏せがちになった。


 あれから7年の月日が流れた。

 寄り合い所で祖母の絵を見た年寄りたちの記憶が失われた頃、フライザムは満を持して、祖母のそれをそっくり真似た構図で、祖母のそれよりも遥かに巨大な——だが話題性だけを狙った張りぼての巨人の如き——1品を作り上げた。それが『全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れ』である。


 私は父母が遺してくれた財産をつぎ込み、完成直後にその情報を手に入れた。情報提供者――フライザムの愛人――が隠し撮りした写真を見た瞬間、私は今回の計画を決意した。

 祖母の絵はもはやこの世に存在しないが、私が生きている限り、私の心の中にあり続ける。もし世界中の人々がフライザムの絵を認知してしまったら? 私以外のあらゆる人がフライザムの絵に感動し、心救われ、それを記憶に留めてしまったら? 私が死んだ後、100年の後もフライザムの絵を称え、語り継いで行ったら?

 そんなの堪えられない。


 1階席の熱気に潜り込み、浮足立つ報道陣を搔い潜りながら、私はゴーグルをかけた。バッグからさらに、2個の手榴弾を抜き出す。


「この作品を皆様に」ニック・フライザムはステージの右端に移動し、観客席に恍惚とした笑顔を向けていた。「お見せできる喜びは、この25年で最たるそれかも知れません」

 甘ったるい声とフラッシュの音は、すぐに耳栓で遮られる。もはやステージを眺める猶予はない。スクリーンが上がり、その奥に隠されていた巨大な物体が姿を現す、その気配だけを感じながら私は、中央を走る通路を目掛け、投擲した。


 今日のために鍛え抜いたコントロールは正確に、破裂音と赤い煙を場内にプレゼントした。次いで、太腿に括り付けていた1個と、胸元に忍ばせた1個の発煙弾を駄目押しで投げ込んだ。

 毒々しい色の煙が、観客席に立ち込める。叫び声が耳栓越しに聞こえ始める。

 金で雇った数名に与えたのは、大声を上げて逃げ出す煽動者の役割でしかない。その他のあらゆる実行は、私自身が担うのだ。


 逃げ惑う人々の間を縫って通路に躍り出た私は、バッグの中の最後の道具、拳銃を取り出し――

 だがそんな私に警備員たちが気付いたようだ。煙と人込みで思うように進めないまでも、1人、また1人、私を捕えようと手を延ばす。それをかわし、蹴り倒し、銃口でけん制する私の前に、もう1つの影が立ち塞がった。


「そんな――」

 その日初めて、私の咽喉から、子供のような情けない声が漏れた。

 ゴーグル越しの視界に見えた影は、そう、見まごうことなどない、祖母の姿をしていた。

「おばあちゃん、どうして」

 今も寝たきりのはずの彼女が、なぜここに。いや、わかっている。きっとあの絵を見るために、病を押して駆け付けたのだろう。あるいは私の企みに気付いて――?


 祖母の口が動いているのを見て、私は耳栓を外さざるを得なかった。

「芸術、それは世界の財産——」

 煙に咳き込みながら、祖母はそのように言った。

「おばあちゃん、そんなこと――」

「彼、それは私——」

 つまり、誰が発表しようと同じだと、祖母は言いたいのだ。誰が発表しても、芸術は人々に見られればそれでいいのだ、と。

「感動、それは感動――」


「やめて!」


 人の心を動かすのは自分でなくても良い、それが世界のためになるならば――あの日私を包んだ慈愛は今、フライザムとその作品を待ち望む無数の人々を包もうとしている。

 だが私は許せない。あの絵だけは破壊しなければならない。

 私が写真を通して見たフライザムの『全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れ』は、構図からタッチまで、ほとんど祖母の絵のままだった。しかし1点だけ異なるところがあった。フライザムの絵には、拳を握りしめる少女の姿が描かれていないのだ。代わりにフライザム自身と思しき、優雅に煙草を吹かす男のシルエットが描かれていた。

 私はフライザムを許さない。


「うろたえるな!」

 煙幕の向こうで、フライザムの怒声があがる。

「この絵を壊すことはできん!」


 そう、それこそが、この計画に関するあらゆる企てを、ことごとく阻んだ要因。『全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れ』は破壊不可能なのだ。時限爆弾による爆破、ロケットランチャーを用いた遠距離からの砲撃、それらの手段はこの要因のために断念せざるを得なかった。

 新素材超硬合金による画材に、特殊塗料を用いて描かれたその絵は、半端な火器や爆薬では壊せない。塗料が多少剥げたとしても、木っ端微塵に破壊することなどできやしない。


 だから――私は祖母を押しのけ、煙の中を駆けた。この銃から放つのも、単なる信号弾でしかない。私はそれを発射すると、すぐさま祖母のもとへ舞い戻る。警備員たちの腕が伸びてくるが、構わずそのまま、祖母の身を抱いて、私は横っ飛びに跳んだ。


 信号弾はステージの中央でひときわ赤く巨大な煙を上げる。もはやフライザムもスタッフたちも、ステージを飛び降りている。時を同じくして、地響きが聞こえてくる。

 いや、聞こえてくるどころではない。その振動は明らかにホールを揺さぶるほどのものだった。音と振動はどんどんと近づき、やがて、ホールの正面口の方で、ひと際大きな破壊音を生み出した。


 劇場にほど近いコンテナターミナル。私が全財産を費やし、秘密裡に運び込ませたコンテナ群。そこに入っていたのは——


 全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れである。

 本物の、バッファロー500頭である。

 この時刻に麻酔が切れ、やつらが活動を開始するように仕組んでいた。私がその前にすべきは、会場の人々をなるべく避難させることだった。


 運命に抗うことはできないが、私が誰かの運命になることはできる。私こそがフライザムの運命であり、彼を打ち滅ぼす嵐なのだ。


 煙の充満する場内で、全ての観客が避難できたかは確認できない。雇ったスタッフが上手くやってくれたことを願うしかない。フライザムはどうでも良いが、逃げ延びているならそれで良い。

 私と、私を抑え込む警備員たち。それに取りすがる祖母。その眼前を、バッファローの群れが行き過ぎる。扉を、壁を、客席を、ステージを、全てを破壊して500頭のバッファローが行く。煙すら吹き飛ばし、連なった黒い背が奔流となって『全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れ』に殺到する。どれだけ硬い絵であろうと、粉微塵になっているだろう。「神の定めた嵐」の前に、破壊されないものはない。


 呆然とする警備員たちを振りほどき、私は立ち上がる。

 その光景を目に焼き付けようと試みる。

 私の後ろ姿は祖母にどう見えているだろう。あの日のように、健気で愛おしい姿ではあるまい。スクラップ・アンド・ビルド。私もまた変わった。あの日とは少しばかり異なる意味で、私は拳を握る。


〈了〉

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破絵(はかい) かいなぐい @Azuki-koboshi

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