バラバラ峠に朝が来る

木村雑記

確殺黄泉発進幽念殺人事件

 まるむらまどかには三分以内にやらなければならないことがあった。

 ――神酒でこの男の口をゆすぐこと。

 ――この男の身体を所定の位置に移動させること。

 ――この男が決められた位置から動かないようにすること。

 ――決してこの男の目を覚まさせないこと。

 ――自身の痕跡を、決してその場に残さないこと。

 ――そしてそれらの工程を、決して他人に目撃されないこと。

 三分間だ。三分以内に、すべてをこなす必要があった。

 一つでも達成できなければ、その時は。

「……どうか、」

 円は、祈るように呟いた。

「どうか、すべてが三分以内に恙無く終わりますように」

 二月二十九日、午後十時二十七分のことであった。



【二月二十九日 午後十一時五十分】

 せめようすけには早急にやらなければならないことがあった。

 眼前に広がる光景を、現実を受け入れること。

 吐き気をこらえきること。

 そして、警察へ通報すること。

 果たしてそれらは達成された。笑い続ける膝を叱咤し、なんとか道路脇で鈍く光を放つ小屋へと辿り着く。ぎい、と音を立てて、公衆電話の扉が開いた。羊介は、震える手で受話器を上げると、一一〇番を押した。

「はい一一〇番です。事件ですか、事故ですか」

「もしもし。人…かもしれないものを、撥ねてしまいました」

 夜の道路に散る臓腑。原型を留めぬそれらに混じって、確かに獣のそれではない人毛の塊が落ちている。

 羊介の愛車である八輪駆動のロマンスカーの下で、男の肉体ははっゅうねんと相成っていた。



【二月二十九日 午前零時四十二分】


「んん~、妙ですねぇ」

 深夜の事故現場にはおおよそ似付かわしくない、コートを羽織ったパジャマ姿の女学生。かつかつとローファーの底がアスファルトを叩く軽快な音が響く。事情を知らない一般人からすれば部外者としか映らないはずのその女学生はしかし、警察官達から追い返されることもなくあっさりと規制線を踏み越えて現場へ突入した。現場検証を行っていた警察官は、皆一様に作業の手を止めると背筋を伸ばし、敬礼の姿勢を取る。

「お疲れ様です。皆さん、お気遣いなく」

 彼女、おおなさけもまた、敬礼の姿勢でそれに応えた。

 大情女々は、女子高生探偵だ。この街で起こった数多くの殺人事件を、その直感力で解決してきた。そして女々の兄・雄二ゆうじも同様に数多くの殺人事件を解決してきた名刑事であり、警察内部に顔が利く。そういったフワッとした事情から、彼女は一般女子高生の身分でありながら時に現場の要請を受けて捜査に参加する、超法規的な推理を黙認されているのである。今日は、事故の通報を受けた当直の女性刑事から『刑事の勘』とやらに基づいた要請を受け、別件でそれどころではなかった兄の代わりに、渋々女々が臨場した次第だ。

 女々は人だかりの中心部に辿り着くと、路上に散乱した肉塊のそばで足を止めた。

「妙ですねえ。この死体。いささか妙ではありませんか?」

 女々が小首をかしげるのに伴い、背中の中ほどまでまっすぐに伸びた黒髪がふわりと揺れる。漂うシャンプーの香りに、声をかけられた交番署員のとうそんじょわん巡査は一瞬たじろいだ。

「は……妙、でありますか。確かに、なかなか状態の酷い仏さんではありますが…八輪駆動の確殺黄泉送迎車に轢き殺されたのであれば、まあこんなものでしょう」

「そうでしょうか。確殺黄泉送迎車は確かに必殺の両用車です。しかし、これほど完膚無きまでに人体を破壊するような代物ではありません。むしろ、派手すぎる殺戮は『』の理念に反します。確殺黄泉送迎車のモットーは、『確実に、そしてスマートに黄泉へと送ること』です。藤村巡査もご覧になったことくらいはありませんか? 確殺黄泉送迎車によって轢殺された遺体というものは、往々にして頭部か頸部か心臓部を的確に轢かれているのですよ」

「はあ……そういうものでありますか…」

「ええ。しかしこのご遺体は、まるで爆殺でもされたかのようです。あたり一面に飛び散ってしまって、性別すらわからない。…まあ、ところどころ原型を留めている衣類やアクセサリーは、男物のように見受けられますが。食い散らかすようなこの殺しは、いささか…下品です。このご遺体……確認作業は困難を究めるでしょうね」

 さすがは名探偵といったところか、女々はそのような状態の死体を見ても顔色一つ変えなかった。

 だが、僅かな焦りだけは見て取れた。

「確殺黄泉送迎車を運転していたのは男性ですよね」

「そうです。あそこに座っている鬩木羊介さんですね。まあしかし、たまたま愛車が確殺黄泉送迎車だったというだけで、彼は事故直後すみやかに自分で通報してきましたし、逃亡することもなく、呼気のアルコール反応もありませんでした。普通に考えるなら、ただの事故かと思いますが…」

「…事故、ですか。藤村巡査、さきほどのお話の続きをしましょう。推進殺戮両用車というものは、普段は推進モードで公道を走っています。殺戮モードをオンにしない限り、進んで人を殺すことはありません。一般車と同じです。…もちろん一般車同様、ブレーキとアクセルを踏み間違えれば壁に突っ込みますし、故意に人を撥ねることも可能ですが。いっぽうの殺戮モードは、先ほど説明したように、最小の動作でスマートに対象を殺害せしめることを目的としており、殺戮専門に開発された独自のAIが運転をサポートします。これは軽でも四駆でも、八輪駆動の確殺黄泉送迎車であっても同様です。…殺害した相手の死体というのは、いわば首級です。身元がわからない死体を増やしてもキルスコアになりません。そのため、殺戮モードの確殺黄泉送迎車というのは、致命傷以外で極力死体を損壊しないよう、うまいこと車輪が動いて轢いた対象を避けて通るようにできているのです」

 藤村巡査は「…では」と小さく呟いた。

「ええ。これだけ死体が損壊されているということは、むしろ推進モードで故意に、それも何度も死体を轢き潰した……というケースを疑いたくなりますね。ですが、鬩木さんの確殺黄泉送迎車はフロントガラスに無殺ゴールドシールが貼ってある。推進殺戮両用車特有の高い推進力のためだけに、わざわざ型二種の免許を取って、且つ無殺マークまで取得しているとは…車にかなり愛着のあるタイプなのでしょうね。それだけこだわりがあるのなら、推進殺戮両用車で事故を偽って人を殺害することがどれだけ困難か、ご自身が一番よくわかっているはず。まあ要するに、メリットがありません」

 早急に遺体の身元と、背後関係を洗い直してください。女々の言葉に、藤村巡査は力強く頷いた。

「もしこのご遺体が男性だとしたら。私ではなく、兄の出番かもしれませんね…」

 女々は名探偵だ。特に、女性同士の巨大な感情から生まれ出づる殺意に異常に敏感なのだ。

 この街で頻繁に起こる女性同士のでっかい感情から生み出された悲劇の数々は、女々が一つ残らず解決してきた。しかし、女々が解けるのはあくまで女同士の巨大感情が絡む事件のみである。男同士の巨大感情が絡む事件は、兄である捜査一課刑事の雄二の領分だ。女々は男同士の巨大感情を理解しないわけではない、愛好しないわけでもない。だが、一般論として、女性の感情の機微を女性の方が理解しやすいように、男性同士の巨大な感情のことはどうしても男性の方がより理解しやすい――ということもあるだろう。

 もしこの死体が、男性のものであったなら。その時は、雄二に助けを乞う必要があるかもしれない。あの兄貴に頭を下げるのは非常に癪だが、速やかな事態の収拾のためには、素直に兄を頼ることも必要だろう。

「事故ではないとしたら、この事件の裏には一体どのような感情が動いているのか……」

 もちろん、女同士の巨大感情によって男性が死なないということはない。むしろ女同士の巨大恋愛感情に不用意に挟まろうとした男性が圧死する死亡事故や重大インシデントは、年々増加傾向にある。特に昨年度の発生件数は凄まじく、厚生労働省が緊急声明を出したほどだ。だが、男性が男性を轢き殺した事案で女性同士の巨大感情を連想することは些か難しい。

 人の死体が散乱している状況ですることではない、と思いながらも、女々は不敵にニヤリと微笑んでみせた。

「これはひさびさに、手応えの有りそうな事件ですね」



【二月二十九日 午前三時三分】


「大情さん! 被害者ガイシャの身元が割れました!」

 手がかりを探すべく現場付近を散策していた女々の元へ駆け寄ってきた藤村巡査は、声を弾ませながら報告した。

 女々は現場から二百メートルほどに位置する、ふもとへ下りるロープウェイの時刻表を見ていたところだった。藤村巡査の声に慌てて振り返る。さすがの女々も驚きを隠せなかった。

「素晴らしい。早すぎませんか。鑑識の方が遺体一部を持ち帰ってから、二時間も経っていませんよ」

「それが…うちの鑑識が事件慣れしすぎていて異常な速度で結果を出してくるというのもありますが、どうもこの仏さんは前科者だったようで。DNAが警察のデータベースに残っていたのです。被害者は毛受めんじょうすけ、二十四歳。四年ほど前に、大麻所持容疑で逮捕されています」

 女々は片眉を跳ね上げた。やはり死体は男性であったか。スマホを出しながら、藤村巡査に続きを促す。女々の予想通りであれば、やはりこれは兄の領分だ。

「それで、怨恨のありそうな人物はいましたか」

「それがですね。通報してきた鬩木羊介…署に同行してもらって事情を聴いていたのですが…彼は、この毛受の知人だったんです」

 ビンゴだ。女々は淡々とスマートフォンを操作し、兄の連絡先を表示させた。藤村巡査もメモを取った警察手帳を片手に続ける。

「毛受と鬩木は同じ大学の学生です。三回生の鬩木が借りているアパートに、留年中の毛受が居候する形で同棲していました。あ、あと…鬩木の所持品からも覚醒剤が出ています。ただ、鬩木は覚醒剤の所持に関しては容疑を否認していますね。毛受に持たされた、の一点張りです。歯切れは悪いですが。パッケージがかなり精巧に市販薬のように偽装されていたので…ひょっとすると本当に、本人も覚醒剤と知らずに持たされていた可能性はあるかと。ともかく今、署で鬩木の尿検査をしています」

「ほほう」

 なんとなく予想はついていたが――。女々は、確認作業をするような気持ちだった。腕を組み直しながら問う。

「遺体が毛受さんだったことを、鬩木さんはご存じなのですか」

「先程うちの者が伝えました。鬩木と毛受はかなり親密な関係だったようなのですが、あれほどバラバラの肉塊になってしまうと…さすがに初手では気付かないみたいですね。取調室で遺体の身元を知った鬩木は泣き崩れたそうですよ。かなり取り乱していて消耗が激しいので、検査結果に関わらず今夜は署に泊めることになるかと」

 女々は溜息をついた。事故直後、女々が臨場した際、道路脇で震えていた鬩木の様子を思い返す。確かに服装からは少々やんちゃそうな印象を受けたが、警察官との会話の内容などに耳をそばだてた限りでは、本質的には気弱で善良そうな男に思えた。そもそも、覚醒剤を所持した状態で人を車で轢いた自覚があれば大抵の人間はその場から逃げるだろう。覚醒剤を持たされていたことなど、本当に知らなかったのではないか、と女々は想像する。大方、大学の悪い先輩から誘われて断り切れずに闇バイトにでも手を出したのかもしれない。そして、その大学の先輩――というのが、まさに毛受なのではないか。

「ありがとうございます。それはお気の毒に。……さて、ますますわからなくなりましたね。車の件から、私は今回の件を事故とは見ていません。親密な関係にある二者間のトラブルというのは、時に驚くほど容易く凶悪事件に発展します。所謂『痴情の縺れ』というやつですね。鬩木さんは、毛受さんのことをかなり大切に思っていたようですし。…しかし、彼がよほどの役者でもない限りは、故意に知人を轢き殺してそれを通報し、大仰に悲しんでみせる必要はないかと思います。もしこれを痴情の縺れからくる犯行だとしたら、それはそれで辻褄が合わない」

「自分もそのお考えに同意します。署で鬩木…さん、の様子を見かけたのですが、尋常ではない悲しみようでした。職業柄、悲惨な事件事故やシラを切る容疑者は多く目にしてきていますが…彼の慟哭が嘘だとは自分には思えません。あれが全て演技なのだとしたら、彼は卒業後は役者になった方が良い」

 藤村巡査も頷いた。短時間で現場と署を往復したせいか、さすがに疲れが見え始めている。女々は少し申し訳無い気分になったが、しかし捜査を続けるべく、藤村巡査に向けてにっこりと微笑んだ。

「ところで警察の皆さんが動いてくださっている間、私もこの近辺を色々と歩いてみました。ひとつ、気に掛かったことがあります。このロープウェイ…ふもとへ繋がっていますよね。そこの駅員の方に、昨晩の終電のお客さんについて、話を聞いてもらえませんか? 確認して欲しいことはこのメモにまとめてあります。私はその間に、兄に電話してみますので」

 えっ、と言いたげな表情の藤村巡査をよそに、女々は通話ボタンを押した。



【二月二十九日 午前三時三十分】


「なんだ女々か。兄さんは今忙しいんだが」

「知っています。お兄さんが忙しいせいで、一般女子高生の私にお鉢が回ってきたのですよ」

 電話口から聞こえてくる兄の声に、女々は露骨に顔をしかめた。

 兄の雄二の手が空いていれば、わざわざこんな深夜に山奥まで事故現場を見に来る必要もなかったのだ。可愛い妹のために、少しくらい知恵を貸してもばちは当たらないだろう。

「いいですか。今回の事件、たまたま私が空いていたので私が呼び出されましたが…おそらくこれはおお兄さんの領分です。男同士の巨大感情が絡んでいることは間違いありませんので。今分かっていることをお伝えしますので、お兄さんの意見をお聞かせ願えませんか」

 女々は、現状を端的に伝えてみせた。声色や漏れ聞こえてくる背後の慌ただしさからして雄二は本当にかなり忙しいようだったが、男同士の巨大感情をちらつかせた瞬間突然静かになり、傾聴の姿勢を取った。女々が話し終えるといくつか要所要所に関して質問し、女々がそれに答え終わったところで互いにふう、と息をつく。それから雄二は、僕も概ね女々と同意見だよ、と呟いた後、少し声のトーンを落としてこう言った。

「ふたつ、思い出したことがあるのだがね」

 ふむ、女々は耳を澄ませる。相変わらず芝居がかった言い方をする兄だ。女々も人のことは言えないが。

「まず一つ。君たちを悩ませている、車の性能と遺体の状況が噛み合わない件。重要なことを忘れてはいないだろうか。女々、君は先程…いや、もうとっくに昨日か。昨晩の十時頃、テレビを見ていなかったのかね」

「その時間は入浴中だったかと記憶しています…その口ぶり、ニュース速報絡みのヒントでしょうか。ではご助言通り、あとでネットニュースを確認しましょう」

「そうだね、そうするといい。君ならそれだけでわかるだろうからね。真相は案外呆気ないものかもしれないよ。それから二つ目だが…これに関しては警察の照会が要る、だが僕の班は今あいにくと別の事件で手が離せない。だから今から伝えることを、君の方からはりたち係長を通じて確認してくれないかい」

 兄の提案を聞いた瞬間、女々は愛らしい顔に似合わぬ悲鳴を上げた。

「げえっ…お兄さん、勘弁してください。私は針裁係長が苦手なのです」

「もちろん僕だって苦手さ。だが、先程君をその場に臨場させたのも針裁係長だと聞いているよ。進捗報告も兼ねて、少し話すだけなら問題ないだろう」

 針裁きょう係長とは、まさしく数時間前に就寝直前だった女々を血腥い事故現場に呼びつけた横暴の女性刑事その人である。刑事と書いてデカ、としか言いようのない叩き上げの切れ者で、女々は昔から彼女に頭が上がらない。中学生の頃から可愛がってくれた恩師と言えば聞こえはいいが、実際のところ一般市民の未成年を捜査に動員するような異常者でもある。

 そして針裁係長は、非常に、非常に顔が良いのだ。声も良い。洗面所の鏡を含め、顔の良い人間を見慣れている女々すら話すだけで緊張する相手だ。

 要するに、お話するとドキドキするから苦手なのだ。女々は唇を尖らせた。

「…何を聞けばいいんですか」

「君のいる峠道、その少し先――五百メートルほど進んだところだったかな。そこに灯台があるだろう」

「ええ。二十年ほど前は観光地としてそれなりに人が来ていたようですね。だからこんな山の中にロープウェイが通っている」

「その灯台、四年ほど前に飛び降りがなかったかな」

 女々ははっとした。なるほど。確かに、警察署のデータベースを参照するしかない。藤村巡査をこれ以上こき使うのも気の毒だ。仕方ない。電話口の雄二が続ける。

「僕は思うのだがね。君が今抱えている事件、案外、僕だけの領分というわけでもないのではないかな。男同士の巨大感情を突き詰めるだけでは、きっと真相には辿り着けない。だから僕ができるのは結局のところ助言にすぎないのだ。やはり最初からこれは、女々。君の事件なのだと思うよ」

 僕はね、犯人は女性ではないかと思うんだ。最後に雄二は声を潜めて、しかし力強くそう言った。

 女々の瞳が星々の光を受けて煌めく。兄の助言は星座のように、彼女の中で一本の線を描き始めていた。

「…わかりました。また電話します」

「ああ。頑張りたまえ、僕も今晩中に片をつけるよ」

「では、ケーキを買って帰ってきてくださいね」

 女々は兄の返事を待たずに電話を切った。続けてすぐに針裁係長に電話をかける。

 一コールも鳴らないうちに電話が繋がり、ややハスキーで快活な声が飛び出してくる。女々は背筋を伸ばした。

「おう、何かわかったかい」

「針裁……いえ。その。…香子お姉ちゃん。調べてほしいことがあります。この先の灯台で発生した事件と、その関係者について」



【二月二十九日 午前五時十四分】


 丸村円は三分以内にすべてをやってのけてなお、自宅に戻っても眠れなかった。

 薄暗い部屋のシングルベッドの上で横になり、目を閉じて思い出の世界へと沈む。それでも眠気は訪れない。あるのはただ漠然とした不安と僅かな仄暗い興奮、そして、霞むことのない悲しみと虚無感だけだった。何かに縋りたくてたまらなかった。必死で己に言い聞かせる。

 大丈夫。私はやりきった。大丈夫なはずだ。今頃憎いあの男はきっと、醜い肉塊へと変貌しているはず。

 大丈夫、大丈夫だよね。私、ちゃんとできたよね、かすみ。

 今はもう思い出の中にしかいない、愛おしい相手に語りかける。

 彼女は何も答えない。ただ、悲しげな顔をしている。見慣れてしまったその表情に、円も胸が詰まる。ああ、結局笑ってはくれないんだね、かすみ。

 その時、枕元のスマートフォンが鳴った。

 きゃあ、と大声を出してしまう。どうして、こんな時間に。慌ててスマホを取って確認する。頭から布団を被り、円は震える自らの身体を抱き締めた。

 ああ。

 円はその番号を知っていた。

 出ちゃダメだ。直感が叫んでいる。

 だが、円の手は自然と通話ボタンに伸びていた。

 今出なくても、また朝かかってくるのだろう。いや、もしかしたら今出なければ、次はもう家までやってくるかもしれない。それも、朝を待たずに。

 円の知るその番号の主は、そういう人間だ。

 どうせ眠れないのだ。不思議なことに、円には誰かと話したいという場違いな感情があった。覚悟を決めてボタンを押す。おそるおそる声を出す。

「はい。丸村です」

 電話の向こうの女性は、四年前と変わらぬ快活な声で言った。

「丸村さん、久し振り。おか署の、針裁です」

 円は、どうしようもなく泣き出したくなった。



【二月二十九日 午前六時二分】


 結局電話を切った後、針裁は自ら車を運転して家まで円を迎えに来た。

 そうして彼女の運転で、円は再び峠に戻ってきていた。どうして自分は大人しくついてきたのだろう、と寝不足の頭でぼんやり考える。

 針裁がこのタイミングで円に電話をかけてきたことの意味など、薄々わかっている。やはり、悪いことは自分には向いていなかったのだろう。付け焼き刃の工作など、警察の捜査力の前にはなんの意味もなかったのだ。それならいっそそのまま署に出頭してもよかったのだろうが、わざわざこんな時間に現場まで同行したのは、この先の展開を覚悟しているからというよりはただ確認したかったのかもしれない。彼女の三分間の努力が報われたのかどうか――その答えを。

「丸村円さん、お待ちしていました。私は大情女々と申します」

 車から降りた円を待ち構えていたのは、パジャマ姿の少女だった。

 なぜ女学生がこんなところに。円はさすがに面食らった。後れて車から降りてきた針裁が親しげに話しかける様子を見てようやく、彼女の知り合いかと腑に落ちる。

 あの、と円が口を開いたその時、円を運んできたパトカーの無線が針裁の名を呼んだ。針裁が女々と名乗った女学生に向けて小さく頭を下げる。

「おー、やっぱ抜けてきたのまずかったか。女々、悪い。本部から無線だ。少し外すぞ」

「わかりました。まあ、こちらはすぐ済むかと思います。ごゆっくりどうぞ」

 女々は針裁に向けて小さく頭を傾けて笑うと、ローファーを軽やかに鳴らしながら円へと向き直った。びくりと肩を震わせる円の後ろで、パトカーのドアが閉まる。女々の大きな瞳が射抜くように円を見ている。

「早速ですが、確認させていただきたいことがあります」

 ああ、これは尋問か――。円は小さく唇を噛んだ。

 同時に生気さえ失いかけていた円の中に、僅かながらも反抗心のようなものが芽生えてきた。針裁相手になら、すべて話してしまっても良いと思える。だが、見知らぬ少女に円のしたことを、信念を暴かれるのはどこか、癪だった。

「いいわよ。…何かしら、お嬢さん」

 円は、女々の整った顔を睨み返した。

 女々は一瞬目を丸くして、それから心底嬉しそうににっこりと笑った。

「…良かった。丸村さん、やっと…感情を、見せてくれましたね」



【二月二十九日 午前六時三十分】


 わずかに空が白む中、なおも女々と円のバトルは続いていた。

「だってその鬩木って人が毛受って人を轢いたとき、私はこの山にいなかったのよ。十一時四十五分頃でしょう、事故が起きたのは。その時間帯、ちょうど街のコンビニにいたわ。店員さんにトイレを借りたから、私のことを覚えているはずよ」

「残念ながら、その時刻のアリバイはアリバイになり得ません。その一時間前、十時四十五分頃には既に、毛受さんは肉塊になっていたはずですから」

「なんですって」

 そんな馬鹿な。円はにわかに狼狽した。だって、それでは、あれだけ苦労して三分以内に、眠る毛受を道路へ放置して立ち去った意味が。いや、それ以上に。そんな、そんな、だっておかしい。

「そんな…そんなはずは……」

「なぜそう言い切れるのですか? 丸村円さん。これではまるで、丸村さんは午後十一時四十五分頃に鬩木さんが毛受さんを轢き殺すということが…予定としてわかっていたかのようです。でなければ、そんなはずが、という発言はお出ましにならないでしょう。なぜ、十一時四十五分に鬩木さんがあの道を通ることがわかったのでしょうか? …丸村さん。あなたが十時三十分発のロープウェイに乗っていたことは、ふもとの駅員さんに確認済なのですよ。それまであなたはこんな夜の山道で、一体何をしていたというのですか?」

 女々はゆるやかに右手を上げると、円の顔をまっすぐに指差した。

「犯人はあなたですね」

 人々は気付く。女々はいつの間にか、太陽を背負っていた。

 ひんやりとした空気が、日の出を浴びて煌めいている。夜は明け、光が満ちる。真相もまた、白日の下に晒される。

 円はとうとうその場にへたり込んだ。覚悟はしていたが、ついに気力が尽きた気分だった。実際に犯行を暴かれてみないと案外わからないことだが、犯人慣れしていないヤツは暴かれた時、もろいよ。円はどちらかといえば犯人慣れしていないほうだし、犯人特有の卓越した演技力も持ち合わせてはいなかった。

 震える円の態度は、この場においては自白にも等しい。藤村巡査は、彼女が動転して妙な気を起こさないようにと円の隣に移動しながら、ふと女々に訊ねる。

「しかし、一体彼女はどのようなトリックを」

「そんなものはありませんよ。丸村さんがしたことといえば、十時頃に覚醒剤の取引をしたいと峠に呼び出した毛受さんをどうにかして酒に酔わせて気絶させ、路上に寝かせて、十時三十分発最終のロープウェイで山を下りつつ、自分がアリバイを確保できる時間帯にちょうど鬩木さんがこの道を通るよう灯台へ呼び出すだけなのですから」

「そんな。ガバガバすぎます。ミステリをナメているのですか」

 藤村巡査は頭を抱えた。女々は肩をすくめる。

「それは丸村さんにおっしゃってください。元々この道はほとんど車が通りません。しかも昨晩は工事の関係で交通規制がかかっていた。便利な迂回ルートがあるのに、わざわざこの道を通る車などまずいませんよね。まあ丸村さんとしては、毛受さんを殺害せしめることさえできれば、極論鬩木さんに罪を着せられなくたってよかったのでしょう。ですがもしうまく毛受さんが十一時以降に車に轢かれておくたばりあそばせば、丸村さんは死亡時刻のアリバイを得られますし、毛受さんはただ酔って道路で寝ていたことになるでしょう。ただの不幸な事故のできあがりです。非常にシンプルですが、それ故にこれが計画殺人であると疑う人はいないでしょうね」

 言いながら、女々は道路に無数に刻まれた偶蹄目の足跡を指差した。暗闇の中では目立たなかったが、陽光に照らされると改めてその異常な数が浮き彫りになる。

 そう、単純なことだったのだ。

「ただひとつ丸村さんにとって誤算だったのは、鬩木さんの車よりも先に、全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れが毛受さんを轢き殺し、肉塊へと変貌させてしまったことです」

「全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れですって」

「あれは、政府が新型竜巻兵器の存在を隠すために振り撒いているフェイクニュースじゃなかったのですか!?」

 円も藤村巡査も叫んだ。あの都市伝説が、実在していたというのか。

「ええ。全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れの存在は、別に陰謀論とかではありませんよ。ふつうに実在する災害です。そもそも昨晩のあの時間帯も、テレビではしっかりとL字で水牛警報が出ていたそうですが……皆さんはニュースをご覧にならないのですか?」

 円は唖然とするほかなかった。犯行の準備で必死になっていた円に、ニュースを確認する暇などあるはずもない。毛受を酔わせるのに二十七分も使ってしまったのは誤算だったが、実際はさらにそれどころではない状況だったようだ。三分以内に毛受の始末をつけられなかった場合、円もまたバッファローの群れに轢かれて破壊されていたかもしれなかったのか。今更ながら寒気がしてきた。

 いっぽう、円の隣の藤村巡査は女々の言葉に対して血相を変えながら叫んだ。

「本官はテレビなど見ません! マスコミは政府に都合のいい嘘しか流さないじゃないですか。それに、テレビからは下等国民の脳に埋め込んだマイクロチップを狂わせる有害な毒電波が出るんですよ」

「急に濃い目の思想を出してきましたね。なぜ藤村巡査が国家公務員を続けていられるのかいささか疑問に思えてきましたが…まあともかく。バッファローの群れのせいで、丸村さんのアリバイは消えてしまったのです。バッファローが破壊したのは、毛受さんの肉体だけではありません。丸村さんのアリバイをも破壊してしまった、というわけですね」

 女々はスカート代わりにコートの裾を両手で摘まむと、大仰にお辞儀をしてみせた。

「ご愁傷様です」

 円は、がっくりと項垂れた。

「…聞いてもよいですか。あなたがこんなことをしたのは――」

 女々が口を開くと同時、パトカーの扉が開いた。やっと無線のやり取りが終わったらしい。すべてを察した表情の針裁が降りてきて、そっと円の前に座り込み、肩に手を置く。

「きっと――四年前の復讐をしたかったんだね。丸村さん」

 円は今度こそ落涙した。ゆっくりと、ぽつりぽつりと語り始める。同時に悲壮感あふれるBGMが流れ出し、彼女の告解をしめやかに彩った。

「探偵さんも、針裁さんも…さすが、何でもお見通しなのね。そうよ…その通りよ。許せなかったのよ。毛受も、それに…利用されていたとはいえ覚醒剤を運ぶのをずっと手伝わされていた鬩木も。あいつらがシノギにしていた覚醒剤は、私の大切な友人の…いいえ、友人以上だった、どうかすみの人生をめちゃくちゃにした。かすみは覚醒剤なんて関わりのない人生を歩んでいたはずだったのに、毛受に関わってしまったせいで…最後はボロボロになって、この先の灯台から身を投げたのよ」

 ああ、やはりか。針裁は目を閉じる。

 女々は、静かに天を仰いだ。

 電話で依頼をした後、僅か三十分ほどで針裁はデータを洗い直してくれた。灯台における変死事案のうち、遺体から覚醒剤が検出された事案のは四年前の投身自殺のみだった。綺堂かすみに身寄りはなく、遺体の確認は同棲していた知人女性が行った。

 針裁は丸村円のことをよく覚えていた。何かあれば相談するようにと、電話番号を交換したことも。針裁が丸村円に深夜だろうとかまわず電話をかけたのは、彼女が自決する可能性を慮ってのことだった。

 女々は思う。丸村円の計画において、自身のアリバイを偽装することはただのおまけ程度だったのかもしれないと。警察に逮捕されたとしても、その時はその時と思っていたのかもしれない、と。

「だって、だって。私はかすみを失ったのに、かすみを殺した毛受と鬩木はのうのうと生きていて、お互いへの巨大感情で毎日キャッチボールしてるなんて…そんなの不公平じゃない。だから私は、鬩木に毛受を轢き殺させるという最も残酷な方法で、奴らに復讐してやろうと思ったのに……」

 泣き崩れる円を、針裁は無言で抱き締めた。女々は、すべてが腑に落ちたといった表情で語りかけた。

「…それなのに、その殺人計画すらも、バッファローに破壊されてしまった」

「ええ。ええ……まったく、笑っちゃうわよね…。あとは、何もかも探偵さんの言うとおりよ。あーあ…それにしても、悔しいな…。全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れが実在したのなら、あんなことになる前に……かすみの全てを破壊した覚醒剤のことも、破壊してくれたらよかったのに」

 針裁は心底悔しそうな表情で、円に告げた。

「丸村さん。あなたはまだ若い。結果として毛受を死なせてしまったのは確かだけれど、…あなたにとっては不本意かもしれないけれど、でも、毛受を殺したのはバッファローの群れだ。きっとやり直せる。かすみさんも、それを望んでいるはずだよ」

 かくして、哀しき殺人者は針裁に支えられ、連行されて行った。

 売人の血液をたたえた推進破壊両用ぎゅの足跡だけが、陽の光を受けてきらめいていた。

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