先輩

金 日輪 【こん にちわ】

先輩

「じゃあ、今年も1年お疲れ様でした! 乾杯!」


 ある居酒屋の一角で、5回生の田中 優さんがジョッキを掲げる。

 今日は僕が所属しているギターコーラスサークルの忘年会だ。

 最年長である田中さんの一声を皮切りに、他のサークルメンバーも席を立ち、がやがやと乾杯をして回り始める。

 僕も出遅れないよう皆にグラスをぶつけ、の前で立ち止まる。


 狭山 京香さん、僕の2個上で、3回生だ。


「狭山さん、今年も1年お疲れ様でした」

「ん? あぁ、村山くん! お疲れ様〜」


 僕は狭山さんから差し出されたグラスに乾杯しながら続ける。


「今年はいろいろ慣れない事が多くて大変でした」

「まぁ、大学は高校までと全然違うからね〜。 あ、キャンパスライフが楽しいのは分かるけど留年だけはしないようにね? 笑」


 狭山さんは悪戯っぽい笑みを浮かべながら、グラスのレモンサワーをあおる。

 その様子に、僕は何故か目が離せなくなった。

 雪のように白い肌、切れ長で茶色がかった瞳と真っ赤な紅をのせた唇。

 後ろで結ってある肩甲骨辺りまで伸びている綺麗な黒髪と服の間から顔を覗かせる、少し汗ばんだ細い首筋。

 僕はすっかり魅入ってしまっていた。

 グラスを飲み干し、手持ち無沙汰になった狭山さんの視線にも気づかない程に。


「……村山くん?」

「え? あ! すみません……」


 思わず立ったまま俯いてしまった僕の視界に、狭山さんは身を屈ませて入り込んでくる。


「村山くん、さっきはどこ見てたの?」


 視界の端にうっすらと見える、狭山さんの薄ら笑いが気になって仕方ない。

 居酒屋の熱気のせいか、身体から汗が噴き出す。


「いや……その……」


 しどろもどろになる俺の様子を見て、狭山さんはずいと距離を詰め、僕の耳元で、


「えっち」


 と囁く。

 これ以上はまずい。


「すみません、僕ちょっと外の風に当たってきます!」


 狭山さんの返事も待たず、早歩きで出口まで一直線。

 外の空気を吸っている間に、何とか平静に戻ることが出来た。


 居酒屋に戻ると、他の皆は各々自由に席について、友達と喋ったり酒合戦を繰り広げたりしている。

 一度こうなってしまうと、同い年の友達がこのサークルにいない僕にとっては、少し肩身が狭い。

 僕は狭山さんと離れている、かつたまたま空いていた掘り炬燵の席に座り、卓上の料理を頬張る。


 僕は狭山さんの事が、気になっている。

 特にあの笑顔とか、年上特有の落ち着いた雰囲気とか。

 とは言え、まだ好きじゃない、筈。

 更に向こう側は僕の事なんか何にも思っちゃ居ないだろう。

 少し悲しい気もするけど、その事実だけが僕の理性を繋ぎ止めている。

 そういえば、子供の時にもそんな感じの人が居たな。

 もう顔も覚えてないけど。

 何の気なしに、


「狭山さん…」


 と呟くと、


「何?」


 という返事が返ってきた。

 びっくりして声のした方向を向くと、そこにはいつの間にか目の前に席を移動させていた狭山さんが。


「どうしたの? 村山くん。」

「いや、べつに何も…」

「……ふぅん?」


 狭山さんは先程と同じ、悪戯っぽい笑みを浮かべながら、


「あっそ、何も無いならいいけど。」


 と席を立ってしまった。

 もう少し引き止めておけばよかったと、少し後悔した。


 それから数時間立ち、そろそろお開きムードになった忘年会は、泥酔して呂律の回らない田中さんの締めで解散となった。

 僕が眠気でうとうとしていると、ふと足元に何かが当たる感触が。

 掘りごたつの下を見ると、誰かが黒タイツを履いた足で僕の足をつついている。

 正面を向き直すと、やはり狭山さんが居た。


「あ、起きた? 笑」


 ニッコリと微笑みかける狭山さんに、僕は伸びをしながらはい、と答える。


「忘年会終わっちゃったね」

「そうですね。次会うのは年明けですかねー」

「……そっかぁ、もう今年は会えないのかぁ」


 何処と無く、物言いたげな狭山さん。

 何事にも余裕を醸し出している、そんな彼女が何を遠慮しているのか。

 どうしても気になった僕は、我慢できず意を決して質問する。


「先輩、さっきからもじもじしてますけど、どうしました?」


 先輩は、爆発しそうな程に顔を紅潮させている。

 酔ってるのかな?

 やがて、先輩は覚悟を決めた表情で口を開いた。

「ねぇ、村山くん。 この後、私の家で宅飲みしない?」

「……え?」


 途端、胸が高鳴る。

 何の冗談かと思ったが、一向に目を合わせずに下を向いたままの先輩の様子を見て、本気なんだ、と実感が湧いてきた。

 居酒屋の熱気か、僕の目が眩んでいるのか、目の前の先輩の姿が歪む。

 僕は最早になった残りかけの理性を振り絞り、やんわりと断ってみる。


「いや、僕未成年なんでお酒飲めませんよ?」

「大丈夫、村山の為にちゃんとジュースも用意してるから」


 僕の必死の建前を即答でつっぱね、僕に手を差し伸べる狭山さん。


「本当にずるいな」


 僕は狭山さんに聞こえない声でそう呟き、彼女の手を取って立ち上がった。

 嬉しげな狭山さんの様子とは裏腹に、どこか胡乱な雰囲気を醸し出す彼女。

 僕の中で、何かが壊れる音がした。


 今日の会場の居酒屋から、狭山さんの家までは近く、徒歩で十数分の所にある。

 道中はとても寒かったが、それも眠気を覚ますのに丁度良い刺激となった。


 家に着くと、狭山さんは僕をソファーに案内し、お酒を飲んだ後とは思えないくらい、しっかりとした足取りで冷蔵庫に向かい、缶ビールとジュースを両手に、僕の隣に座る。

 いつの間にか、後ろで結っていた髪も解き、全て下ろしている。

 僕等は、狭山さんが持っていたDVDを使い、映画を見ていた。

 1本見終わる頃には、狭山さんは既に5本の缶を開けており、画面を見る目も焦点があっていない。

 僕はテレビを消し、寝室まで狭山さんを介抱しながら連れていく。


「じゃあ、僕もう帰るんで」

「……待って」


 狭山さんが、寝室を出ようとした僕の袖を掴む。

 僕の脳内が、やめとけ、と警告を出す。

 しかしそんな些細な抵抗は、部屋の隅で炊かれているアロマから香る、甘いバニラの匂いや豆電球の仄かな明かりが生み出す独特な雰囲気の前には、まるで意味をなさない。


「先輩、どうしました?」

「ちょっと、あとちょっとだけ一緒にいよ?」

「いや、僕そろそろ終電が……」

「じゃあ村山くん、君はこんな状態の女の子を家に一人寝かして、この家の鍵も閉めずに帰るつもりなんだ?」

「……分かりましたよ」

「……じゃあ、一緒に寝よ? 終電逃しても、私の家に泊めてあげるから」


 先輩には逆らえないので――いや、そんな言い方はずるいか。

 僕は自分から、狭山さんが横になっているベッドに入り込む。


「へへ、村山くんの匂いだぁ……」

「先輩、そろそろ僕ほんとに勘違いしますよ?」

「……村山くん、もしそれでも良いよ、って私が言ったらどうする?」

「え」


 慌てて横を見ると、狭山さんはこちらを向いたまま目を瞑っている。

 部屋が暗すぎて表情は読み取れなかったけど、何となく、次しないといけない事がわかった気がした。

 僕は勢いそのまま、狭山さんを抱き寄せ、唇を重ねる。

 んっ、と声を漏らす狭山さん。

 狭山さんが僕の背に手を回してきたのを確認して、更に激しく狭山さんの口紅を溶かす。

 やがて、狭山さんが僕の口の中に舌を入れてくる。 

 僕もそれに応じ、ただそのまま時間だけが過ぎていく。

 口付けが終わる頃には、僕と狭山さんの両方が、はぁはぁと息を切らしていた。

 キスって本気でやると息できないんだ。

 今まで女性経験が皆無だった僕のファーストキスは、そんな感想で終わりを迎えた。

 勿論狭山さんはこれだけではとどまらず、僕の手首を掴み、自分の服の中へとそれを忍ばせていく。

 狭山さんの柔らかくもスベスベとした肌の感触を掌全体で感じながら進んでいくと、爪先が何かに当たり、狭山さんも手をそこで止めた。

 僕は狭山さんの上半身だけを起き上がらせ、ホックを外そうとするが、片手だけでは持て余したので、やむなく左手も使用した。

 その間のかわいい、という狭山さんの呟きが、妙に印象に残った。

 ブラジャーを外してベッドの外に投げ捨て、狭山さんをベッドに押し倒す。

 狭山さんは、豆電球明かりが頼りの暗い部屋の中でも分かる程、不安そうな、怖そうな顔をしていた。

 僕はそこで理性を取り戻した。

 好きでもない――もう自分ではどちらか分からないけど――な相手と、いきなりこんな事をしようとしてしまった自分に、ただただ鳥肌が立った。


「すみません、狭山さん。やっぱり今日は帰ります」

「え、何で?」


 ベッドから出ようとする僕の手を、これまでにないほど強く掴む狭山さん。

 怒っているのか、悲しんでいるのか。

 彼女の声は確かに震えていた。


「やっぱり、酔ってる相手にこんな事するなんて、佐山さんに申しわけないです」

「気にしないでよ、ここで止められる方が辛いんだけど」

「分かってます。 じゃあ聞きますけど、何で僕を選んだんですか?」

「それは……」


 珍しく、狭山さんが言い淀む。

 僕の質問は言い訳の余地もなく、誰でも良かったんだという非常な現実を僕に突きつける結果となった。

 僕じゃないといけない理由って何ですか、と更に問い詰めようとしたけど、やめた。

 めんどくさい男になりたくなかったからだ。

 僕は優しく佐山さんの手を解く。


「狭山さん、僕もう帰るんで鍵閉めてもらっていいですか?」

「……良いけど、もうこんな事ないかもよ?」

「良いんです」

「……そ」


 狭山さんはなんとも言えない表情のまま、玄関まで僕を送り、ドアを閉めた。

 気持ちよくなるためだったら誰でも良いなんて、そんな事のために僕は使われたくない。

 例え相手が、あの狭山さんであっても。


「危ない、好きになる所だった」


 帰り際に彼女が見せた、悲しげな表情に引っ掛かりを感じながら、僕は家路に着いた。

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