第5話
フタバは『喫茶メロウ』の常連だった。
「マスター、いつもの」
「はい、かしこまりました」
マスターの笑顔はいつも穏やかで優しい。
フタバはこの笑顔とマスターの淹れるコーヒーが大好きだ。
「ねぇ、昨日は誰か来た?」
カウンター席で楽しそうに足をプラプラさせながら、マスターの手元を見つめてフタバは訊いた。
「昨日はルイさんにお会いしましたよ」
マスターは屋上での出来事を思い出しながら言う。
「そう。ルイは元気にしてる?」
「元気……とは言いがたいかもしれませんね。でもそれも含めてルイさんですから」
「そうね」
そう言って笑顔を見せるフタバにマスターは続ける。
「マキさんは幻視と幻聴に苦しめられていました。イクミさんはいつ襲うかわからないフラッシュバックと過去の幼い自分に囚われていて。セリナさんは睡眠障害で眠ることに恐怖心を抱いていました。ルイさんは希死念慮に支配されています。そしてフタバさん、あなたは……」
そう言ってマスターはフタバにコーヒーを差し出す。
「マキ、
イクミ、
セリナ、
ルイ、そして私、
フタバ。ひとつの肉体を共有する存在であり、それぞれ別の人格。頭文字が示す通り『マイセルフ』みんな私自身」
そう言って自嘲するように笑うフタバにマスターは、
「私は皆さんのことが好きですよ。たとえあなたが別人格の一人だとしても、ね」
と言って自分のために淹れたコーヒーを一口飲む。
ふふっ、と微笑み返したフタバもゆっくりとコーヒーを口に運んだ。
五人は解離性同一性障害、いわゆる多重人格である。
ひとつの体の中にそれぞれの人格として存在している。
マキ、イクミ、セリナ、ルイの四人はそれぞれ他の人格の存在を認識していなかった。だから、自分の中に自分以外の存在があることも知らなかったし、誰もが自分が主の人格であると信じて疑わなかった。
だがフタバは違っていた。自分以外の人格の存在を知っていた。だからこそ、自分という存在が希薄になっていた。自分が主人格だという確証や自信が無かったのだ。
フタバは自分の体がマネキンのように感じることが多かった。
自分はただのイレモノなんじゃないか、そんな感覚によく陥った。
フタバが抱えているのは離人症だった。自分という存在が遠く感じ、空虚なものになってしまうのだ。
そんな感覚に陥った時、フタバは決まってこの喫茶店に来ていた。
マスターの淹れるコーヒーを飲むと、必ず自分の意識をその場に留まらせてくれたから。
ありのままの自分を、自分たちを、認めてくれたのはマスターだけだった。
マスターの存在とその手が淹れるコーヒーには不思議な力があって、自分の存在を見失ってどうしたら良いのかわからなくなっていたフタバを助けてくれたのだ。
それは今から一年ほど前。
初めてマスターと出会った時、フタバは笑うことを忘れていた。それはまるで抜け殻のようだった。
****
フラフラとあてもなく歩いていたフタバは、引き寄せられるかのように喫茶店に入った。
「いらっしゃいませ」
穏やかなマスターの声がフタバの耳に遠く聞こえた。
カウンター席に座ったフタバだったが、自分を取り巻く全ての空気がぼんやりと滲んでいるようだった。
自分の体が自分のモノじゃないようで、上手く動かすことができない。声を発することもできなかった。
そんなフタバにマスターは、
「まずはゆっくりと香りをお楽しみください」
そう言って目の前にコーヒーを置いた。
手を動かすことはできなかったが、ふわりとコーヒーの香りが鼻から体の隅々へと広がっていく。
その香りは徐々に脳へと行き渡り、フタバの周りの景色を少しずつ鮮明にしていく。
マスターの後ろの棚に並んだ色とりどりのコーヒーカップ、古そうな柱時計の微かな音、やがてマスターの姿もはっきりとその目に映り、カウンターテーブルの少し冷たい感触も肌に伝わり、自らの体の感覚が自分のものとして感じてくる。
ぽろり
一筋の涙が頬を伝うのを感じた。
こんなの初めてだ。嬉しさのような戸惑いのような不思議な感じがした。
ぽろぽろと涙が溢れてくる。
フタバは無意識に溢れ出る涙に、思わず微笑んだ。
やっと動くようになった手をコーヒーカップに伸ばす。
ゆっくりと、そっと一口。
温かさと香りとほろ苦さが全身の感覚を際立たせる。
フタバはその感覚を堪能するようにゆっくりと、ゆっくりとコーヒーを味わった。
これが現実感というものなのか。こんなにも温かいものだったなんて。
マスターはカウンターの中、少し離れた所で静かにコーヒーを飲んでいた。こちらを見ないようにしてくれていたのは、きっとマスターの優しさだろう。
それからフタバが『喫茶メロウ』の虜になるまで多くの時間は必要なかった。
****
今ではその頃には考えられないほどフタバは笑うようになった。
離人感が消えてなくなったわけではない。だが、「ここに来れば大丈夫」そう思えるようになったことは、フタバにとって大きな力となっていた。
それはきっとフタバだけではない。
マキも、イクミも、セリナも、ルイも。みんなこのコーヒーの不思議な魅力の虜になっていた。
そしてもう一人、コーヒーの虜になっている人間を忘れてはいけない。
一番このコーヒーが身近で、常にその力に助けられている人物。
そう、マスターだ。
マスターもまた、日々をコーヒーに助けられていた。
マスターとコーヒーとの出会いはもう三十年以上前になる。
****
彼は極度の人見知りだった。誰とも話すことができず、他者と関わることを拒み、長い間引きこもりをしていた。
彼が家の外へ出るのは深夜だけで、その日はなんとなくいつもと違う道を歩いていた。
昔はもっと賑わっていたであろう飲み屋街だったが、今は多くの店がシャッターを閉めている。そんな中にぼんやりとしたオレンジ色の灯りがあった。
彼は引き寄せられるように扉を開ける。
カランカランと少し古びたようなドアベルの音が鳴ると同時に、
「いらっしゃいませ」
という落ち着いた男性の声に迎え入れられた。
店内に客の姿はなく、黒いボックス席が二つと五脚の椅子が並ぶカウンター。そのカウンターの中にいる初老の男性はイートンコートを違和感なく着こなしている。
その店のマスターと目が合って若き彼は思わず目を伏せた。逃げるように黙って端のボックス席に着く。
だがここまできて困ったことに彼は気づいてしまった。もう何年もろくに人と話していなかったせいで、マスターに声をかけることができないのだ。
情けないことに「コーヒーひとつ」というその一言が言えずにいた。
どうしよう……。
でも今さら出るわけにもいかないし……。
そんな彼の心情を知ってか知らずか、マスターは銀のトレイに白いコーヒーカップをのせてカウンターから出てくると、それをそっと彼のテーブルに置いた。
「良かったら飲んでみてください。オリジナルブレンドです」
優しい微笑みでそう言って去っていく。
彼は少し戸惑いながら、コーヒーを口にした。
おいしい。
一口ずつ味わうようにゆっくりと飲み込む。
自然と表情が緩んでいった。
もう一口。
もう一口。
彼はコーヒーを口に運び続ける。するとあっという間にコーヒーカップは空になってしまった。
「すみません……同じのをもうひとつください」
気が付くと彼は少し躊躇いつつも声を振り絞ってそう言っていた。
小さな、小さな声だったが、マスターには確かに届いていて、
「かしこまりました」
笑顔でそう返事をもらえたことがなんだか気恥ずかしくて、そしてとても嬉しかった。
その後二杯のコーヒーを飲み干して彼は店を出た。すっかりマスターのコーヒーの虜になっていた。
その日から彼は頻繁にその喫茶店に足を運んだ。
コーヒーを飲むことで緊張感が和らぎ落ち着くことができた。まだマスターとだけだったが、自然に話すことができるようになっていた。
喫茶店に通う日々はその店のマスターがこの世を去るまで続いた。
マスターがいなくなってからも彼はすっかりコーヒーを手放すことができなくなっていた。それは依存にも近かったが、彼は自らが『喫茶メロウ』のマスターになることで依存ではなく『生きがい』にすることに成功していた。
それから彼の淹れるコーヒーは不思議な力を持ち人々を魅了していった。
時には幻覚から自分自身を取り戻す手伝いをし、ある時は囚われた過去から解き放った。またある時は、優しい眠りへと誘い、そしてまたある時は存在理由となった。
コーヒーはマスターにとっても魅力的で、人と関わることで得られる優しさと心地良さを彼に与えていた。
彼はこれからもこの場所でコーヒーを淹れ続けるだろう。
お客様のために。
そして自分自身のために。
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