第4話
ある日の夕方、ルイはビルの屋上にいた。
高層ビルというほどの高さはなかったが、小さな町を見下ろすには十分だった。
ルイはゆっくりと屋上の端に向かって歩く。
全て終わりだ。もう終わりにしよう。
そう、思った。
死こそが優しさ。それこそが全てを包んでくれる。何もかもを許してくれる。
だから……もう……。
サァッと風が頬を撫でていった。
その時、
「私のコーヒーを飲んでみませんか?」
ルイが後ろを振り返ると、白髪白髭の男性が銀のトレイにコーヒーをのせて立っていた。
屋上には場違いに思えるイートンコートを着たその男性は、焦るわけでも押し付けるわけでも、だからと言って遠慮するわけでもなく、まるでそこが自分の店かのように立っていた。
「あなたの望みは死ぬことではなく、消えることなんじゃないですか?」
淡々と言う。
「あなたはあなた自身が生まれたことを悔やんでいる。だから終わらせることで、全てを、始まったことさえも消し去れるのではないかと思っている」
ルイは黙っていた。
「ですが、今あなたがやるべきことは肉体を壊すことではない。肉体を壊しても決して無かったことにはならないんですよ」
そしてマスターは静かに続ける。
「このコーヒーを一口飲んでみてください。きっとあなたはもう一口飲みたくなるはずです。その一杯が飲み終わったらもう一杯と。そしたらあなたは私のコーヒーを飲むことを全ての理由にしてください。その肉体にコーヒーを与えることを理由にこれからの日々を送ってみませんか?」
その言葉はまるで催眠術のようだった。
ただただ穏やかな音楽のように、言葉が脳に染みわたっていった。
そこまで言うのなら。
そう思ったルイはコーヒーを一口飲む。
先程の言葉のように、今度は喉元から食道、そして胃へと向かってコーヒーの温かさとほろ苦さが染みわたっていくのがわかる。
かさぶたで突っ張っていた傷口がフッと緩むかのようだった。
それからルイが二口目を口にするのは、ごく自然なことだった。
そしてカップが空になる頃、
「あぁ、またこのコーヒーが飲みたい」
不思議とそう望んでいたのだ。
こんな催眠術ならかかったままでも良いかもしれない。
マスターの言った『全ての理由に』という言葉は、確かにルイの中で『ひとつの理由』となっていた。
「生きたい」とまではまだ強く思えなくても、もう少しこの世界にいても良いかもしれないとほんの少し思った。またこのコーヒーが飲めるのなら。
それはルイにとっては大きな大きな変化だった。
そんなことを思ったのは生まれて初めてのことだったから。
マスターは空を眺めるルイの横顔が先程とは違うことを見届けると、そっと屋上を後にした。
同じビルの一階にある店『喫茶メロウ』へと戻り、自分のためにコーヒーを淹れると深く息を吐く。今日もコーヒーがおいしい。窓から見える青空が心地良かった。
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