樹幹 その3

 都心の夜の気温は一桁台まで落ち込み、厚手のコートやジャケットなどの防寒着がなければ、ものの数分で身体の芯まで冷やされる。


 そんな寒空の下、八重洲南口のバスターミナルには、利用客に紛れ込んだ尾崎、牧田と私服警官の併せて四名が、ある人物を捜して歩き回っていた。




 一方、瀬谷とシオリが待機する乗り場に面したガラス張りの建物内は、人口密度も相まってやや汗ばむくらいに暖かい。


「さて、果たして本当に来るのか」


「来るよ。飛行機も新幹線もこの時間じゃもう無理だから、一刻も早く東京から逃げるには深夜バスが一番だもん。万が一まだ余裕ぶって明日の朝まで動かないつもりなら、その頃には警察も正式に動ける。どっちにしたってチェックメイト」


 もうじき二十二時を回ろうとしているにも関わらず、東京駅が静まることはない。


 そんな夜の往来を一人一人注視していた瀬谷は、自身のスマートフォンに呼び付けられた。刑事たちは専用の無線機を用いて連絡を取り合っているが、彼の手元にそれはない。


『瀬谷さん、改札の方からファー付き白コートの女がターミナルに向かってる。そこから見えるか?』


 瀬谷は厚めのガラスに顔を寄せ外を窺い見る。

 角度が悪いのか、該当する人物は見当たらない。


「いえ、こちらからはまだ」


『待った……今、牧田が確認した。間違いないそうだ。俺らは後方に、警官たちは横に回ってくれている。この電話を切ったら三つ数えて、改札側の出入り口から出て脅かしてやれ』




 瀬谷は了解を示し電話を切ると、スマートフォンをスラックスの後ろポケットにねじ込みながら建物の出口に向かって歩き出す。

 シオリがその背中を追う。自動ドアが二人を認識して開いた。


 ちょうど、三秒。


「よし、行くぞシオリ」


「あいあい」






「やぁこんばんは。また会ったね人殺しさん。いや、金の亡者さんかな?」


「あんた——な、なんで……」


 予想だにしていなかった人物の登場に驚いた古屋は、ハイヒールで無理やり急ブレーキを踏んだ。左脚にぶつかったキャリーケースが勢いを物語る。


「待ってたんだよ。ここに来るのを」


 シオリは穏やかかつ静かな、風見と相対した時と同じ声音で語りかける。

 不思議と、その言葉は周囲に散在する無数の騒音に掻き消されることなく、着実にその振動を伝えた。




 古屋は眼前に屹立する二人の目的を察し、泡を喰って振り返る。


 その視線のすぐ先では、見上げるほどに巨大で屈強な男と、小柄ながらもそれに匹敵する頑強な信念を宿した女が退路を塞いでいる。

 更に、左からは眼光鋭い男が二人にじり寄っていた。


 古屋の脈拍は間隔を狭め、その一回一回の鼓動は強く、大きくなってゆく。


「待ってたって、何? どういうこと?」


 古屋はそれでもなお白々しく、逃れようと見え透いた時間稼ぎを講じる。




「随分な大荷物だね。昼間そんなの転がしてたっけ?」


 シオリは数時間前の風見の取り調べの時と同様、呆れるほど極端な婉曲表現を以て懐疑を示す。

 そこにどのような真意があるにせよ、自らに少しでも疚しさがあると認める人間に対して相当な精神的苦痛であることは想像に難くない。


「持ち歩くのに邪魔だから駅のロッカーに入れて置いたの。そんなことより、明日も仕事があるから早く帰りたいのよ。そこ、どいてもらえる?」


「旦那さんが殺されたっていうのに仕事優先なの? 薄情過ぎない? 過去の人間って誰も彼もみんなこんなもんなの?」


 いよいよ本格的な婉曲口撃の口火が切られた。


「何よ過去の人間って。歳食ってるって言いたいわけ? ちょっとそこの隣のお兄さん。保護者なんでしょ。しっかり躾けてもらわないと迷惑で仕方ないわ。というかあなたも邪魔。突っ立ってないでいい加減どいてくれる?」


 古屋の苛立ちが眼に見えて感じ取れる。


「あははっ、気にするとこそこなの?」


「都会の真ん中なら、たかだか二人躱して通るくらいわけありませんよね。何か、進めない理由がおありなのでは」


「そうだおばちゃん、朗報だよ。さっき旦那さんを殺した犯人が捕まったの。動機は謂れのない怨恨だって」


「それは聞いたわ。だから安心して警察に任せて帰れるのよ」


「でもね。この事件はまだ終わりじゃないの。未来ではそういうことになってる」


「は、未来? あんた頭大丈夫? 犯人が捕まったなら、それで事件は解決じゃない」


「そうじゃないから、わたしが終わらせに来たんだよ」


 シオリのオクターブが一つ落ちた。




 瀬谷はそれを合図に、コートの上からジャケットの内ポケットに手を入れる。取り出されたのは一枚のコピー用紙だった。

 彼は三つ折りにされたそれを丁寧に開き、水戸のご隠居の印籠よろしく印刷面を古屋に見せ付ける。


「瞭然でしょうが、これは古屋 城さんの生命保険の詳細のコピーです。それまでずっと一定だった保険料は、約二年前を境に徐々に右肩に上がり続けている」


「つまり君は、最低でも二年前から旦那さんを殺すつもりでいた。しかも自分の手を汚さずに」


「単身赴任するから上げたのよ。都会じゃ何が起きてもおかしくないもの」


 シオリはその場凌ぎの見苦しい詭弁を無視して続ける。


「君は半年ほど前、インターネットを使って殺害の依頼を出し、それを引き受けた赤の他人と、綿密に実行日時や殺害方法諸々の打ち合わせを済ませた。けれど、二つの不図が計画を完全に破綻させた。東京に来て話を聞いた君は、実際の殺害方法が計画とはかけ離れたもので、本来だったら起こらなかったであろうつまらないミスが生じていたことを知った。これが一つ目」


 新雪のように白く細い人差し指がすっと立ち上がる。


「ここまでで終わっていれば君は今頃、逃げ果せることができてたかもしれない。でも君はヒステリックを起こした。下らないミスをした実行犯がどうしても許せず、後先構わずそれを問い質す為に自分のスマートフォンから文句を送った。結果、その浅薄な行動は実行犯ではなく、わたしたちの眼に届いた。これが二つ目。思慮に欠け、寛容さも度胸もない。救いようがないね」


 中指もすらりと起き上がった。




 瀬谷が次に取り出したのはスマートフォン。それを横向きにして一枚の写真を見せる。ラップトップの画面を直撮りしたものだった。


「これがその証拠です。押収したラップトップに届いていました。特定のアドレスからのメールは非通知になるよう設定されていましたが、この通り。あなたが普段使う本来のアドレスはその限りではなかった。まさしく、身から出た錆と言えましょう」


 羅列されているのは強烈な叱責の数々。

 言うまでもなくそれは、失敗に対する怒りに染まっていた。




 古屋の脈拍が更に早まる。

 その鼓動は、もはや誰の耳にも届き得るほどに激しく打っていた。




「まぁ、遅かれ早かれ君は捕まってたよ。そのコピー用紙の下、視てごらん。印刷日時がスタンプしてあるでしょ」


 古屋は言葉にならない呻き声を上げて狼狽しながら、瀬谷の手からコピー用紙をぶん取った。

 印刷面の右下には今日の日付けに続いて「十一時三十二分」と小さく印字されている。


 古屋が東京駅に着いたのは十三時前。

 探偵組はその二時間前には既にこの証拠を手に入れていたことになる。


「つまりわたしは、昼に会う前に君が黒だとほぼ確信してた。だから自分からボロ出さないかなーってからかったの。そしたらボロどころか、否定すらしないんだもん。面白かったよ」


 いつの間にかシオリのピースサインは降ろされ、両腕を後ろに回して指を組んでいた。






 最後の言葉でとうとう激昂した古屋は、奪い取った紙をぐしゃりと丸めて地面に叩き付けた。


 ぱすっ、と虚しい音がしたと同時にキャリーケースを前方——シオリ目がけて放り、人目も憚らず斜め後方に向かって駆け出す。


 その直線上には警視庁きっての大男が無言の圧力を以て立ち塞がる。


 高いヒールでは躱せない、と一瞬動きが揺らいだ隙を突いた牧田が掴みかかり、古屋の右腕が背面でがっちりと捻り上げた。


「取り敢えず公妨ということで。それ以外のことは、この後詳しく聞かせてもらいます」


「牧田巡査、結構強引だね」


「シオリちゃんにキャリーケースを投げ付けたので、立派な公妨です」


 牧田は眼差しこそ真剣そのものだったが、口元はほんのり微笑みを形作っていた。

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