樹幹 その2

 容疑者の名は、都内にある某食品メーカーの工場に非正規労働者として雇われていた男、風見 智之。


 被害者である古屋 城の右手人差し指、中指の爪の間を中心に容疑者の皮脂、皮膚片その他が多数検出。

 鑑定の結果、日本警察が有する膨大なデータベース内の前科者リストに載っていた風見のDNAと一致した。


 登録住所付近の警察署から警官を派遣し自宅を訪ねると、風見は逃走の意欲もなく素直に同行に応じたとのことだった。






 勾留中の警察署で、三人は牧田と合流した。


 一日中駆け回っていたであろう彼女は、相当にくたびれた様子であった。




「取り調べって視ていいのかな。ていうか視たい。カードあるしいいよね?」


「そんなに万能な代物じゃないだろう」


「ふむ。ここの署長はあんまり知らんが、副署長が出てくれば多少希望はあるかもしれんぞ」


 瀬谷が牧田からの吉報をそのまま伝えると、直後にはすっかり元通りになっていた。更に尾崎は、警視庁からここまでの脚も買って出た。


「本当!? そしたら直接話したいなぁー。ダメかなー」


 シオリがぶつぶつと呟いているうちに、フロアの奥から立派な腹を拵えた中年の男がそれをゆさゆさと揺らしながら出てきて、聴取の担当刑事たちといくつかのやり取りを交わし始めた。


「おぉよかったな、クマさんだぞ」


「クマさん?」


 言い得て妙と称さざるを得ない容姿の彼こそが、この警察署の副署長、熊谷 大五郎だと尾崎は耳打ちした。どうやら旧知の仲らしい。


 名は体を表すとはよく言ったもので、もはやこの言葉は彼の為に存在していると言っても過言ではないのかもしれない、と瀬谷は一人勝手に得心した。




 熊谷は階下へ向かう数人の刑事たちの背中を見送ると、異なる意味合いでの大男である尾崎の存在を認め、四人の元へとやってきた。


 久方振りの再会で幾分愉快そうな足取りだったが、シオリを見た途端熊谷の表情は強張り、喜びと驚き、そして憂いの入り混じった、何とも形容し難い情けない声で尾崎に訊ねた。


「マサお前、この子は……」


 尾崎は単なる苦笑いと取るにはあまりにも痛々しい笑みを浮かべ、その先を遮るようにかぶりを振った。


「いやいや、違いますよ。うちの親分お墨付きの探偵様です」


「ああ、そうか……。すまん、余計な一言だったな」


「気にしないでください」


「いやしかし——久しぶりだな。つっても、昔話をしに来たんじゃねぇんだろ。雁首揃えて何の用だ? あの風見とかいうやつか?」


 この上ない気まずさを呈した熊谷だったが、自らそれを引き取ると、本来最初にかけるはずだった言葉を続けた。


「ええ。ちょっと取り調べに立ち合わせてもらいたいんですけど、構いませんかね」


「お前たちも噛んでるのか? 別に断る理由もねぇし好きにしたらいい。四人じゃちと狭いだろうがな」


「ありがとうクマさん! ついでに話してもいい?」


「少しは慎めシオリ。副署長、ありがとうございます」


 瀬谷は僅かな胃痛を覚えつつもシオリの無礼を咎め、自らの名を名乗りつつ熊谷に頭を下げる。

 シオリはカーテシーと共に「過去からやってきた」という強烈な電波発言を残した。






 薄灰色で塗り潰された年季の入った取調室には、刑事二名と記録係の制服警官が一名、そして風見の姿がある。

 現時点では特に否認するでもなく、むしろ暗に殺害を認めた上で、ただただ投げられた質問に答えていた。


 尾崎たちは壁を一枚隔てた隣室からその様子を観察していた。

 ただしシオリだけは例外で、彼女はこの後やってくる自分の番に向けて黙々と情報を整理していた。




 先刻、熊谷はシオリの過剰な要求に対し、ほんの数秒も考えることなく「マサが良いなら良いんじゃないか?」と言い放ったのだった。






 冬の陽はとうにとっぷり暮れ、まもなく十九時になろうかといった頃、シオリはようやく殺人容疑をかけられている男と相対する。

 四人で押しかけるには少々手狭だと判断した尾崎は、取調室に牧田を随伴させた。




 はじめの形式的な確認事項は牧田が担う。その後、すかさずシオリが斬り込んだ。


「依頼主とはどこで知り合ったの?」


 あらぬ方向からの刃に動揺したのか、それまで淡白に「はい」「いいえ」の二言だけで受け答えをしていた風見の眉間に皺が寄る。


「何を言ってるんだ……?」


「ただ人を殺したかっただけならわざわざ部屋まで着いていく必要はないし、ましてや十字にする必要もないよね。事前に何か知ってたか、もしくは知らされていたんじゃない?」


「何も知らない」


「じゃあ質問を変えるね。古屋さんの財布から何か取ったでしょ」




 彼女の隣に座る牧田が隣室を隔てるマジックガラスの方を向く。

 その先では尾崎と瀬谷が互いに眼を合わせ、無言の確認を行っていた。




「か……金は盗ってねえ。残ってただろ」


 風見が露骨な否定をする。一方的なシオリのターンが続く。


「わたしはお金だなんて言ってないよ。でも金目の物じゃないならある程度限られるよね。例えば写真……名刺とか?」


「何で、そんなもん……」


 風見の額に脂汗が滲み出す。

 もはや全身で「何かを隠している」と叫んでいて、それを繕うのは小さく震える声だけだった。


「わたし占い師なの。だからこの事件の犯人も結末も知ってる。便利だよ、占いって」


 シオリの意味不明なハッタリが、辛うじて効力を発揮するタイミングで放たれた。


「例えば、大島 志歩って知らない?」


「知らねえよ!」


 シオリの外堀固めに耐え切れなくなった風見がとうとう怒鳴り声を上げる。


 それまでの静けさから一転した怒号に驚き、牧田の小さな身体がほんの少しだけ椅子から浮いた。






 その一部始終を外から見ている尾崎は思わず、すぐ隣にいる探偵助手に疑問を呈する。


「なぁ瀬谷さん、お嬢ちゃんは何を言いたいんだ……? こいつと大島さんに関わりがあったかもしれないってのはさっき牧田から聞いたが……だいぶ効いてるよなあれ」


「パターンの時と同じです。僕らの考え方ではシオリには追い付けませんよ。そもそも造りが違いますから。一つ分かることと言えば、この事件はあと数手で終わります」






「知ってるんだね、ありがとう。本題に戻ろうか。古屋さんを殺したのは君。それは間違いないよね。本来の理由は、ある人物から古屋さん殺しの依頼を受けたから。もう一度訊くよ。それは誰?」


 シオリは顔色一つ変えず、俯きがちな風見の血走った眼を凝視している。

 その視線は、彼女の可憐な容姿からは微塵も想像がつかないほど鋭い圧力となり、風見に深く突き刺さっている。


 当の風見はつい先ほど叫んだきり、一言も発しない。


「あ。そうか、なるほど。本当に知らないんだ。じゃあそれは一度置いとこう。で、古屋さんのことを調べているうちに、君は意外な人物を発見した」


 風見の肩がぴくりと揺れる。


「それが大島 志歩。かつて君と大島さんが“なんとか”って犯罪グループにいた時、恐らく一方的に好意を抱いていた——付き合ってたのかもしれないけど、とにかく仲の良い女性だった。その彼女が、標的である古屋さんと親しげにしているところを目撃してしまった。この時点で、本来ただの依頼に過ぎなかった殺しに私怨が絡んだ。それも、醜い逆恨みの」


 シオリの口撃はもはや留まるところを知らず、いよいよ核心を突くトドメに向かって加速してゆく。


「昔、好意を寄せていた女性を盗られたと勘違いした哀れな君に、追い討ちをかけるように悪いニュースが飛び込んだ。大島さんの訃報。それを受けた君の脳は、『あの男が殺したんだ。殺しの依頼をされるような男だから間違いない』と思い込んだ。その方が都合がいいもんね。大義名分が手に入るわけだから、その分罪悪感も薄まる。実に短絡的だね。そして君は、理由も知らない殺しの依頼と、全くお門違いな復讐を同時に成し遂げた」


 この場を見守る者は誰一人として口を挟まない。軽やかでいて穏やかな声色が、その隙を与えなかった。


「その後、二人の愛を象徴するものを消し去る為に物色を始めた。まずは指輪。それから財布にはきっと写真。全部燃やして無かったことにしてやる、ってね。でも見付けたのはご丁寧に顔写真が貼られたキャバクラの名刺。名前は違っていたけれど、写真は間違いなく大島さんのもの。そこで君はようやく真実を悟った。たった今殺した男は、彼女の夫でもなければ恋人でもない、ただの客だったのだと」




 風見の精神は、完膚なきまでに叩き潰された。


「これが、わたしの推理とその結論」


 失意と諦観が入り混じった無言の男の姿を一瞥したシオリは音もなく立ち上がり、そのまま取調室を去った。牧田は慌ててその後を追う。




「何だあの嬢ちゃんは……」


「何って、探偵です」


 瀬谷がドアノブを捻り扉を開けると、堂々たる仁王立ちをしたシオリが廊下で待ち構えていた。


「黒幕を捕まえに急ぎたいんだけど、その前に借りたいものがあるの。クマさん許してくれるかな」

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