枝葉 その5
「ねぇ、日本っていつからこんなに物騒な国になったの?」
新たな事件の報告を受け現場に向かったのは、瀬谷とシオリ、牧田の三人だった。
午前八時過ぎ、文京区のマンションの一室で男性の遺体が見付かったと通報が入った。尾崎は別件がある為急行できないとのことで、先に三人が臨場した。
まず眼に入ったのは遺体の状態だった。仰向けにされ、腕は左右にそれぞれ伸ばされている。
これだけならば、十字殺人の新たな被害者と考えられなくはなかったのだが、手口が前の二件とは全く異なる点は誰の目にも明らかだった。
それについて一番に言及したのは、やはりシオリだった。
「模倣犯——いやそれ以下だね。何かムカつく」
部屋は酷く荒れており、一歩毎に踏み場に戸惑うほど乱雑としていた。
腰の高さほどのチェストの上に飾られていたであろう小物入れと中にあった鍵が数本、アロマディフューザーも床に落ちて割れているが、中身は空だったのかアロマの水溜りは見当たらない。
壁には傷や凹みも散見された。
遺体は意図的に十字で横たえられてはいるが、上半身には相当数の刺し傷があり、着衣は全体的に被害者の血液で赤黒く染まっていた。
凶器となった血塗れの三徳包丁もマンション近くの植え込みで発見され、既に鑑識の手に渡っているとのことだった。
現場を一通り視終えたシオリが、ぼそぼそと呟く。
「怨恨による衝動のままに滅多刺し。でもすぐ我に返って慌てふためいた。で、昨今巷を席巻してる“十字殺人風”にして出て行った、ってところかな。衣服もぐちゃぐちゃだし揉み合ってるだろうから、この人の全身にあらゆる証拠があるはず。皮膚片とか血痕とか。あと、原因は痴話喧嘩とかそんなところだと思う」
「とすると、犯人は女性……?」
「何か、この人女タラシっぽくない? 部屋もこの人自身も変な見栄っ張り感が凄い。それから左の薬指の付け根に指輪の跡もあるし、不倫しててもおかしくないかもね。奥さんか、不倫相手周りが容疑者かなぁ」
シオリの顔は至って涼しい。
「奥さんですか……。あんまり考えたくはないですけど、不倫に気付いて口論の末に、ってことなら、動機としては充分ですね」
「牧田来てるか」
マンションの玄関の外側から彼女を呼ぶ低い声がした。尾崎の声ではない。
部屋の外に出ると、革張りでやや大きめの手帳を広げた佐藤が待っていた。
「佐藤くん。何かあった?」
佐藤のネクタイの結び目はだらしなく弛み、ワイシャツの第一ボタンが外された襟は大きく開いている。
その姿は彼の疲弊のありのままを表していたが、不思議なことにあまり不潔感を抱かせなかった。
「身元の確認が取れたんだ。古屋 城、四十歳。兵庫から単身赴任して二年目のサラリーマン。奥さんは今新幹線でこっちに向かってるって」
「やっぱり結婚してたんだ……」
「ん? やっぱり?」眠たげな目蓋がぴくりと動く。
「あ。えーと、彼女が……」言い淀んだ牧田が部屋の方を振り向くと、シオリはにこやかに手を振っていた。
「あれ、君こないだ会った……っけ?」
「はぁい。CIAのシオリだよ。よろしくね」息をするようにくだらない嘘を吐く。
「シオリちゃん、瀬谷さんに怒られますよ」牧田が窘める。
「ん、思い出した。この前警視正と一緒にいた子だ。あんまり詳しいことは分からないけど捜査に関わるんならよろしくね」
佐藤はシオリの嘘をさらりと流し、また彼女が事件に関わることもあまり疑問に思わなかったのか訝しむ素振りもなかった。
「それで、どこまで話したっけ……。ああそうだ。ここの管理会社に行った人らによると、防犯カメラには、今日の零時頃にエントランスを走って外へ出て行った女の後ろ姿が映ってたって。他にも同じ背格好の女は映ってるんだけど、どれもちょうど顔が隠れてたり判別できないみたいで。他にも人は写ってたけど眼に見えて怪しいのはそれくらい。で、第一発見者は——」
シオリは佐藤の現状報告を最後まで聞かず、未だ部屋で観察を続けていた瀬谷の元へ戻っていった。
彼はそれに気が付いたようで、後ろに眼を遣るでもなくシオリに話しかける。
「仮にお前の言う通りなら、早く探し出して捕まえないとまずいんじゃないか」
「瀬谷も少しはわたしの考えが分かるようになったのね」
シオリは眼を大きく見開くと、何度か目蓋をぱちくりさせてわざとらしく驚いてみせた。
「僕もいつか、お前にそう言ってみたいよ」
「よし、じゃあ急いで探そう」
言うや否やシオリはそそくさと部屋を出て行った。
瀬谷も続いて事件現場を後にする。彼の脳内ではこの犯人の行動パターンが、見開きの道路地図のように広げられていた。
——もし、今のシオリの推測通りだとするなら……。
この男を殺した犯人を一刻も早く見付ける必要がある。
もちろん殺人容疑で逮捕というのが第一の目的だが、最悪の場合、この犯人は死体で見付かることになる。
十字殺人鬼が定義する“悪党”がどの程度のものかは定かではないが、どのような経緯であれ殺人は充分重い罪だ。標的になる可能性は大いにあり得る。狙われるのが例え人殺しであっても、みすみす座視しているわけにはいかない。
瀬谷が現在の部門に入りたての、未だその顔に読み取れるだけの表情が残っていた頃。
彼が自分のデスクを与えられて真っ先に行ったことは、部門のデータベースに残されている事件を悉皆、残らず読破することだった。
その中には、不条理にも数多の無辜の命が恣意的に奪われたものから、吐き捨てた唾にも劣る下劣な極悪人のみを狙った正義気取りの確信犯まで、まさに多岐に渡る非道かつ異常な事件ばかりが、悍ましいほど残されていた。
瀬谷はそれらを読み続けながら、何度も自分の眼を、記憶を、認識を疑った。彼がその日から表情を失うまで、そう長い時間はかからなかった。
死んで当然だと思う人間も確かにいる。だが、どのような理由があったとしても、決して殺してはならない。
彼の本懐は、死へと堕ちる前に然るべき罰を下すこと。
——その為にも、勝手に殺されてもらっては困る。
彼が気付いた時には、あれだけ離れていたシオリの真隣で、彼女と競うように歩いていた。
二人はじき、マンションのエントランスホールに差しかかる。
「お、珍しくやる気?」
「僕はいつでも真剣だ。誰かと違ってな」
「失礼な。わたしもいつだって真面目だよ!」
「どうだか」
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