十字 その1

 巨大な一枚岩の如き中年の男は胸の前で大きな掌を合わせ、彫りの深い顔を顰めながら瞑目する。


 男の足元には女性の亡骸があった。


 両腕はそれぞれ完璧に並行になるように伸ばされ、両脚はきちんと揃えられたまま横たえられている。


 その姿はさながら、聖書に記されている聖人、イエス・キリストの最期を彷彿とさせる十字を模っていた。いや、実際意識しているのだろう。


 何せここは墓地の中央。犯人は敢えてこの場所を選び、弔いの意味を込めて遺棄した可能性がある。


 そう思うと、心の奥底で、今にも噴き出さんとするマグマがぐらぐらと煮え滾るような激しい怒りが湧き上がるのを感じた。


 職業柄、亡骸と向き合うのは致し方のないこととはいえ、決して慣れるものではない。


 無念にも命を奪われてしまった青白い肉体を目の当たりにする度に、自らの無力さをこれでもかと思い知らされる。


 故にこそ、必ずや報いを受けさせるという固い決意が、これまで何度も男を奮い立たせた。




 一方その激憤のすぐ裏側で、胸を撫で下ろしている自分がいることを、彼は認めざるを得なかった。

 刑事として、それ以前に人としてあるまじき感情だ。


 しかし。


 ——少なくとも……沙織じゃなかった。


 男は心の内で大きくかぶりを振り、公私がないまぜになった感情の整頓を始めた。




「尾崎さん、おはようございます」


 聞き覚えのない声ではないが、まだ聞き慣れたわけではないソプラノが背後から遠慮がちに投げかけられた。


 尾崎がのそりと振り向くと、そこにはひと月前にコンビを組むことになった、いわば相棒がメモ帳を片手に立っていた。


「ああ、おはよう」


 直前の葛藤など初めからなかったかのような、上司としてあるべき毅然とした態度で言葉を返す。


「被害者の身元はもうお聞きになりましたか?」


「いいや、まだだ」


 牧田 佳奈美は手にしていたメモ帳を広げると、すぐ傍に横たわる冷たくなった女性の身元を抑揚なく説明し始めた。


「田辺 亜希さん、二十六歳。自殺防止のホットラインサービスを運営している会社に勤めていたそうです。ご覧の通り着衣に乱れはなく、暴行された可能性は少ないでしょう。現時点で確認できる外傷は……その頸部の大きな切り傷のみです」


「持ち物は? 残ってたのか」


 牧田はメモを捲るでもなく即答した。


「はい。現金やクレジットカードの類いから身分証、日頃持ち歩いていたであろう細かな化粧品やハンカチまで、恐らく全て手付かずのままです」


 尾崎は低く唸る。

 どうやら犯人像はおろか、動機すらもこの場で分かるようなものではなさそうだった。


「ご遺体の様子からして、どうにも意味ありげというか……何だか胸騒ぎがします」


「同感だ」




 牧田は、数歩先を大股で歩き始めた尾崎を慌てて追いかける。その大きな背中からは眼に見えそうなほど強烈なオーラが滲み出ていた。

 怒りなのか、悲しみなのか、その色を推し図ることはできない。


 尾崎とコンビを組むことになってからまだ幾許と経っていない為、今回が初めて二人で担当する大きな事件になる。


 彼女の胸中は複雑だった。

 今まで自分なりに最善を尽くして勤めてきたつもりだが、かつて“鬼崎”の異名を冠していた彼の双眸に自分はどう映るのか。


 叱責に対する恐怖はないが、役立たずの烙印だけは捺されたくなかった。それは同時に、刑事として憧れすら抱いていた人物に認めてもらいたいという願望が生み出す感情であることを、彼女は理解していた。






 仰々しいデスクの背面の壁には、巨大な毛筆で荒々しく「正義」と書かれた和紙が収められた額縁がかけられている。その威圧感は慣れない者にとって凄まじい圧力となって精神に重くのしかかる。


 新木はこの部屋の雰囲気を好ましく思えず、訪れる度に覚えのない罪悪感に苛まれた。

 さすがの彼らもそう感じているだろうかとそちらに視線を遣るが、一人は平時と変わらぬ無表情。もう一人……


「わーお、たっかーい」


 ——まぁ、だよな。


 好奇心の塊を前にしては、「大人しくしていろ」という言い付けなど、何の効力もなかった。

 新木は思わず擡げそうになった首を何とか保つ。


「あ、新木さん。あの娘が……例の?」


 警視正は隠す気のない困惑の表情を浮かべ、窓際に立って霞ヶ関を眺める少女を見つめた。


「ええ。すみません。いかんせん好奇心が旺盛でして。それ自体は悪いことではないんですがね……。シオリ、こっち来てちゃんと挨拶してくれ」


 シオリと呼ばれた少女はバレエダンサー顔負けのターンで振り返ると、警視正のデスクまで優雅に歩き、正面に着くとわざとらしくカーテシーをしてみせた。

 多少演技がかってはいるものの、所作そのものは非の打ち所がないほどしなやかで気品に満ちている。


「お初にお目にかかります、多田警視正。わたしはパティ。パトリック。よろしくね」


 続いて、新木の隣で黙していた男がシオリの傍まで歩み出て、ようやく口を開いた。


「シオリ、嘘を吐くなと常々言っているだろう。ASIO異常犯罪部門の瀬谷 啓介と申します。シオリ共々、ご期待に添えるよう尽力しますので、何卒よろしくお願い致します」




 多田は豆鉄砲を喰らった顔のまま「こちらこそ、よろしく頼む」と、喰らった豆が一粒零れるように呟いた。


「ASIOは変人揃い」という評判は、その存在を知っている一部の間では暗黙の了解として語られている。

 そして確かに、今ここにいるのは噂通りの得も言われぬ存在感を放つ連中だった。


 一人は子どものように——実際どう見積もっても十代半ばから後半の少女と、もう一人は表情筋を失ったのではと心配になるほど、終始無表情を貫いている男。アンドロイドだと言われても得心がいく。


 だが、噂ほどではなかったことに安堵した。彼は、最悪の場合会話もままならないような人物が来るのでは、と覚悟をしていたが、それはどうやら——あくまでも現時点では、杞憂で済んでいた。




「事前のお話通り、彼らは捜査一課にお預けします。刑事さんたちには適当に“私営の探偵”とでも言っておいてください。そちらの規則を破らない程度に自由にさせてもらえれば、きっと存分に力を発揮してくれるでしょう。何かあれば私まで直接ご連絡を。瀬谷君、シオリ。今日のところはこれでお暇しよう。それではまた。失礼します」


 新木はそう言うと小さく頭を下げ、右手に持っていたフェドーラをひょいと被る。

 そのまま右腕に提げていた薄手のトレンチコートを羽織ろうとした時、多田が腰を上げ、背を向けようとしていた三人を呼び止めた。


「いや……早速、君たちの力を借りたいのだが」


 予想だにしなかった言葉に思わず固まる新木の眼を、じっと見据えて続けた。


「構わないかな、新木さん」


 黒革の椅子に深く腰を沈めていた好々爺の顔は、つい先ほどのそれとはまるで違っていた。現役時代——十と余年前に遡り、常に最前線で闘ってきた男の精悍な顔をしている。


 断る理由などどこにもないのに、「絶対に断れない」という強迫観念にも似た威圧感が広い部屋を隅々まで包み込む。


 ——相変わらず、おっかない人だ。


「ええ、もちろんです。瀬谷君、シオリ。警視庁での初仕事だ。くれぐれも粗相のないように」


 新木がにこやかに答えると、場を包んでいた業火の只中にいるような緊迫感はすっとなりを潜める。


「多田警視正、怖いねー」


 ところが休む間もなく爆弾が投下される。これにはさすがの新木も背筋に冷たいものを感じた。


「……シオリ、粗相の意味は分かるよな?」


「なに、構わんよこの程度。さて、じゃあ許可ももらったことだ、案内しよう。期待しているよ、お嬢ちゃん、瀬谷君」


 多田は身を翻し二人に着いてくるよう促しながら、新木には左の掌を挙げながら軽い会釈をして通り過ぎていく。その表情は柔らかく、数分前の好々爺に戻っていた。




 四人は警視正室を出ると、一人を残して廊下を進んで行った。


 ——果たして彼らは上手くやってくれるだろうか。


 着々と離れてゆく瀬谷とシオリがいよいよ見えなくなると、新木は大きく溜め息を吐きぐったりと肩を落とす。すると、雪崩のような勢いで猛烈な疲労感が襲った。


 ——いやはや、少しばかり肝を冷やした。先が思いやられる気もするが、瀬谷君が着いていれば何とかしてくれるだろう……。


 新木は絨毯の張られた廊下をゆっくりと進み、階下にある正面玄関を目指した。

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