ヒロインは嘘をつかない

華藤 れあ

プロローグ

 『誰でも良かった。死にたいけど死ねなかったから人を殺して、死刑になりたかった』


 彼はこんな事件を見るたびに思う。

「死にたいなら一人で勝手に死ね。他人様に迷惑をかけるな」と。


 特に理由のない理不尽な暴力で命を奪われた人間は、果たしてどれほどいるのだろうか。


 ——そう。大切なのは理由だ。


 彼の手には、陽の光に透かした翡翠のような輝きを放つナイフがしっかりと握られている。


 刃は緩慢に、それでいて着実に水砥石の上を何度も何度も往復し、その度に波打つ輝きが年輪の如く幾重にも刻まれてゆく。

 美しい。これ以上の言葉は必要なかった。


 地下室を囲う壁面には細長い磁石の板が張り付けられており、そこにはあらゆる刃物が美術品然として飾られている。

 どれをとっても鍛え上げられたばかりの日本刀と見紛うほどに鋭く、煌々とした妖しさを湛えていた。




 数時間研がれ続けた刃は無数の金属粒子を含んだ水をまとい、鈍く艶めいている。洗い流せば、壁に飾られたそれらと同じ輝きが顔を覗かせる。


 彼は手入れの済んだナイフの水気を丁寧に拭き取ると、口角をほんの僅かに傾ける。その表情は今や鏡面となった刃に映った。






 ——まだ起きないか。思ってたより効き目が強いな。


 男は手にしていた濃い茶色をした透明な小瓶をそっと置いた。ことん、と小気味のいい音が密閉された空間に広がる。


 ナイフを握る手は興奮で汗ばみ、二重に嵌めたゴム手袋の内側が不快な潤いで満たされてゆく。


 男の脳内では、それぞれを司るあらゆる自分たちによる激しい舌戦が繰り広げられていた。


 彼女はどのようにして感情を表すのだろう。最初で最期の死という絶望を前にどれだけ顔を歪ませ、どんな声で痛みを叫び、どの言葉を選んで命を乞うのだろう。


 身体は緊張で熱くなるのか、それとも恐怖に凍えるのか。激しく震えて身動きが取れなくなるのか、必死に身を捩り死から逃れようとするのか。


 その瞳はどこを、何を捉えるのだろうか。聴覚は囁きの一言一句を聞き漏らさず、正しく脳に伝達できるのだろうか。それを見聞きした彼女は何を感じるのだろうか。


 やがて、男の思考はある一点へと収束した。


 ——ある日突然、死を突き付けられた彼女にこそ問いたい。“生きる”とは何かを。


 人は皆、幼い頃から正しくあれと言い聞かせられるが、世の為人の為と必死に汗水流したところで、結局全ては無に還る。ならばどこに意味があるというのか。


 男はその答えが知りたかった。


 ——無意味に人を殺す奴はクズだ。身勝手の極みだ。眩暈がする。命を奪うなら意味を持たせないといけない。死に値するだけの価値を与えるべきだ。


 彼女に求めるのは解答。今際にて発露する生の本質とそれに近付く快感。対価は命。

 男は静かに少女の目醒めを待った。




 脈打つ頸部に美しく輝く刃を当てる。丹念に研がれた為か、少女の柔肌は温めたバターのようにするりと切れた。


 傷付いた管からは脳へと向かうはずだった血液が、噴水を思わせるほど大量の飛沫となり止めどなく溢れ出る。


 少女は目醒めたが、まだ思うように身体を動かすことができず、抵抗することも叶わない。

 自らの身に何が起きているのかも判然としないまま、鋭い痛みが緩慢と迫り上がってくる。

 意識が明瞭になるほどに痛みは増し、加速する痛みと比例して恐怖が全身を蝕んでゆく。


 右頸動脈に刺し込まれたナイフは、左へ向かって緩やかな弧を描きながら深い切れ込みを入れる。


 刃が進む度に悍ましい量の血液が脈拍と同時に飛び散り、一方で首筋を伝ってうなじで滴る血液は、横たわる少女の背面に重ねて敷かれたコットンパイルと、その間に挟まれた珪藻土に吸われ、どす黒い紅色へと染色してゆく。




「教えてほしい。君は今生きている。生きるとは、どういうことだ?」男がようやく口を開いた。




 少女は答えない。

 そも、未だ唇も満足に動かせない。

 質問の意図もまるで理解ができない。例え脳が正常に機能している状態であっても、彼女の中で導き出される結論は同じだった。


 無情にも、感覚、感情は徐々に在るべき姿を取り戻しつつあった。痛みはより激しく、苦しみはより絶え間なく、恐怖はより深くなる。




「大丈夫。もうこれ以上痛いことはしない。だから……答えてくれないか。死を目前に君は何を思い、何を感じ、何を希う?」




 少女の意識が遠のく。

 大海原の底に沈められ、二度と水面に上がることができないと悟った瞬間の絶望。もはやどれだけもがこうともその手は誰にも届かない。ただ虚しく、窮愁という名のタールを掻き分けるだけ。


 切られた首元が火箸で焼かれたような激痛を訴える。抑えきれない涙が溢れ、視界の端が狭まり始める。


「た……がっ……」


 ——だれ、か……声が、出ない……。




 目蓋が落ち始め、そこに溜まった涙を押し流しながら開ききった瞳孔の半分を覆う。

 右腕は首元を押さえようと必死に動くも、ほとんど痙攣のように微動するばかりだった。


 やがて僅かな震えは全身に及び、ふるふると小刻みに音を立て、命の終わりを奏で始める。


「何だ……? もう死ぬのか。答えてくれよ死ぬ前に……命の最期に何を思うか……教えてくれよ」




 ——くらい……さ、むい……——


 そして、少女の世界は暗転する。

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